「ゴダール・インタヴュー:私、イメージの男」
〔Jean-Luc Godard, «The Godard Interview: I, A Man Of The Image», (interviewed by Michael Witt), Sight and Sound, June 2005.〕
凡例
・小見出しに相当する「○」や「:::::(後略)」は訳者による付加。
・〔〕内は訳者が補った文章。
・[]内は英文原語。
(見た目上煩わしくなってしまうのだが、カーソルを当てると表示される、といった手法はないものなのか)
・注はすべて訳注。
(最終更新 2009.11.11)
ゴダールの『私たちの音楽』[Notre Musique〔邦題『アワーミュージック』、2004〕]は――そこでは戦争が地獄であり、サラエヴォは煉獄であり、天国は湖畔の田園詩である――その明るい雰囲気が持続するように構築されていない。「それは使い尽くされている・疲れ果てている[exhausted]」と監督はマイケル・ウィットに言う。
ジャン=リュック・ゴダールの明朗で多声的な映画作品『私たちの音楽』は、明るい接触と、深い思考と、形式的な実験における喜びとを結合し、そうすることによって、バルカン半島諸国における戦後の和解といった切迫する現代的問題やパレスチナ人とイスラエル人の間で成熟した相互理解を探求を喚起し、直面させる。『フォーエヴァー・モォツアルト』(1996)や『愛の讃歌』〔邦題『愛の世紀』〕(2001)といった以前の主な二作品よりもエッセイ的な文体で、観客がすぐにとっつきのよさを感じるだろう本作は、三つの王国からなるダンテ的な三連作で組み立てられている。「地獄」(戦争と虐殺[decimation]を描いたファウンド・フッテージのコラージュ)、「煉獄」(現代のサラエヴォ)、「天国」(アメリカ軍に守られた田園詩的な湖畔の森)の三王国だ。作品の核心が当てられている「煉獄」の中心部は、サラエヴォのアンドレ・マルロー・センターで2000年以来毎年開催されている企画であり、ゴダールも2002年に出席した「ヨーロッパ文学の諸遭遇[European Literary Encounters]」[1]を少々フィクション化しつつ再演することにある。
今日のゴダールは伝統的な特徴をもつ映画作家であるのと同じぐらいマルチメディア・アーティストであり、『私たちの音楽』は、過去十年間の膨大な作品――その多くは、長年にわたる同伴者であり映画作家・写真家・作家であるアンヌ=マリー・ミエヴィルとの共同制作で作られたものだ――とのあいだに主題的・文体的な強い親和性を示している。彼の主要作品に加えてこの作品は『(複数の)映画史』〔邦題『ゴダールの映画史』〕を含んでいる(1988-98、現在ヴィデオ、書籍、CDで発表され、また、劇場公開用に設計された90分の「最善の」編集版『(複数の)映画史の選ばれた契機=瞬間』〔邦題『映画史特別編 選ばれた瞬間』〕が発表されている)。6つのさらなるヴィデオエッセーがあり(3つはミエヴィルが共同監督)[2]、視聴覚的作業から派生した「フレーズたち」の6冊の本があり(1つはミエヴィルが共著者)[3]、これまで未発表だった集合的で映画的なパリの肖像となるはずだった短編がある[4]。さらには、ゴダールは時間を見つけてミエヴィルの『わたしたちはみんなまだここにいる[Nous sommes tous encore ici]』(1997)、『和解のあとで[Après la réconciliation]』(邦題『そして愛に至る』, 2000)に出演し[5]、ごく最近では、これまで大いに期待されていた美術館内インスタレーション計画『コラージュ・ド・フランス』を準備中である(ポンピドゥー・センターで2006年4月から6ヶ月間の展示予定)。
「煉獄」の冒頭のショットは「昔々…」と告げ、通過する路面電車に貼られたポスターが「ある日」という文字を示すのを通過する。そして私たちは日常生活を送るサラエヴォの住人を目にし、他所から来る訪問者の多様性を目の当たりにする。その訪問者とは、スペイン人作家のフアン・ゴイティソーロ、パレスチナ人詩人のマフムド・ダルウィーシュ、フランス人著者・彫刻家のピエール・ベルグニウ、フランス人建築家ジル・ペクー(ちょうど映画撮影の時期に彼は、有名な16世紀のモスタル橋の再建計画に責任を負っていた)、ゴダール自身(テキストとイメージについて講義をおこなう)、そして、若いイスラエル人ジャーナリストのジュディット・レルナル(イスラエル人女優サラ・アドラーが絶妙に演じている)、ロシア系のユダヤ・フランス人のオルガ・ボロスキー(フランス人女優ナード・デューが演じている)といったわずかにフィクショナルな登場人物たちだ[6]。多くのシーンではこの第二部の力能[power]を発揮しており――時おりロッセリーニの『ドイツ零年』(1948)を力強く連想させる――、その力能は、近年の戦争〔ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中のサラエヴォ包囲〕によって傷ついた都市を描いたドキュメンタリー的肖像であることに由来している。
この作品では、サラエヴォの復興[reconstruction]とボスニア戦争の通夜/痕跡[wake]にあるモスタル市とを、世界中の敵対しあう諸勢力の間にある潜在的な和解[potentional reconcliation between warring factions around the globe]の隠喩として探求している。最近にあった過去よりは破局的ではない未来を想像しつつ、作品は楽観的な立場を表明する。多少は恐ろしさの減るだろう未来への不確かな歩み[a tentative step]が対話によって生まれるのを期待しつつ、誠意と率直さで互いに近づきあうサラエヴォの人々の可能性にゴダールは興味を抱く。作中の講義で、アメリカ南北戦争[American Civil War]で1965年に徹底的に破壊された町、ヴァージニア州リッチモンドの写真[image]をゴダールは掲げる。この写真は、ちょうどアメリカ合衆国が現在そうであるよりももっと統一されていなかったことを示す簡単な方法であり、それゆえここには、憎しみで引き裂かれた他の場所〔国々〕にとっての希望があるのだと。
サラエヴォの有名な(1992年にセルビアからの砲撃で破壊された)公共図書館の燃え尽きた残骸のなかに立つゴイティソーロは――彼は1993年のサラエヴォ包囲についての注目すべき目撃証言『サラエヴォ・ノート[Cahier de Sarajevo]』で[7]、欧州連合が大量殺戮を阻止するにあたって決定的な失敗行動をとったことについて激しく非難した――、復讐をではなく蛮行に対抗する創造性の大波を求めて叫ぶ。「私たちの時代に終わりなき破壊の力があるのと同様に、私たちの時代はそれに匹敵する創造力が必要だ。記憶を強化し、夢を明確にし、イメージに実体を与える創造力が。」[8]。
フィクションの人物ジュディットはパレスチナ人とイスラエル人の関係について新鮮な考え方を見つける可能性を求めてサラエヴォに惹かれる。希望に突き動かされた彼女は、強く固定された差異を傍らに置くのを夢に描き、同じ区画の土地において愛を共有することについて簡単な会話をはじめるのを夢に描く。彼女はこう問う、「人はそこから始められるのだろうか――土地から、約束から、許しから?」。『私たちの音楽』は平易な答えを提供するのではなく、もろもろの終わりなき問いを提起する。この30年間の多くのゴダール作品やゴダール&ミエヴィル作品と同じく、受け取られたアイデアの専制に対する防塁として、そして新鮮なパースペクティブを生成する実験場としてこの作品は機能する。
この作品は去年完成した。先日私がロールにあるスタジオへゴダールを訪ねたとき、作品がフランスでたいした興行的収益を上げないだろうことには彼はあまり気にしておらず、批評の反応で質の悪いものが出てくるかどうかについて気にしていた。それは、全体的には、人々は言葉を失うだろうから、と彼が感じているということであり、部分的には、パレスチナとイスラエルの問題をこの作品で取り組んだ[addresses]手法は非伝統的なものだから、と彼は言ったということだ。
〔聞き手:マイケル・ウィット〕
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――この作品で目覚しい印象を覚えるものの一つに、サラエヴォの街路が探求されていることです。これは、ヌーヴェル・ヴァーグにあったドキュメンタリー的な好奇心を想起させるものです。
それは私が保持し続けているものなんだ。友達のアンヌ=マリー・ミエヴィルもそれを持ってて、彼女は現実に存在する事物を撮るように車を撮る方法を知ってる。ヌーヴェル・ヴァーグのとき、私たちは自分たちがよく知ってて関係してた場所に登場人物を歩かせたがった。まあ、今の監督たちは古い街路を何でも使うようだけどね。もし君がブルース・ウィリスが街路にいるのを見たとしても、それは監督やウィリス演ずる人物がその街路を好きだからじゃない。かつて監督はスタジオを使っていた。けれど、私たちは私たちの愛する場所にカメラを歓待[welcome]させたかったんだ。
――この作品はドキュメンタリー的な表現によって、未知のものについて力強い感覚を喚起します。
シナリオは、その前の年に「ヨーロッパ文学の諸遭遇」に参加したときの私の経験に基づいてる。そのときは誰かがヴィデオカメラを使ってそこに来た多様な参加者たちや、作品で再演[re-enact]したような、私が生徒に講義しているのを記録していたようだった。けれども、それ〔映画作品での再演〕はまったく同じものではないだろう、作品には映画制作チームって重みや映画にとってのフィクショナルな装置が必要だった、と感じた。作品で撮った人たちには、サラエヴォには心に触れるものが何かあるのを感じてた。私たちが作った映画は、マイケル・ウィンターボトムの『ウェルカム・トゥ・サラエボ』〔1997〕のような交戦地帯の映画じゃない。たとえば、その映画では、彼はサラエヴォで何も見なかったようだし、彼の見たものはすべてすでに彼が知ってることだったようだ。そうして彼は演劇的な演出を創りあげてしまったというわけだ。
――あまりにも頻繁に映画作家たちは、周囲の世界を調べるために(顕微鏡や望遠鏡、聴診器といった線に沿って)準科学的な道具としてカメラの力を引き出すよりも、前もって決めたことを単に撮影してしまうのだ、とつねづねあなたは提起してきましたね。
人はある事物を見るためにカメラを必要とするんだ。今日の映画作品の大部分は、探求の道具としてのカメラを使わずして撮影されている――撮影の間、分析的な力を導き出すことの代わりに、人々は実に大量の説明で代用するわけです。「これを意図した。これを意図した」と。一方で顕微鏡を用いる科学者や化学者にはその顕微鏡が必要なんだ。そしてホークスがロザリンド・ラッセルやケーリー・グラントを撮ったとき、そのためにはカメラが必要だった。彼は本を書いていたわけじゃないんだからさ。
――あなたは世界を記録し研究するためにカメラを用いる大きな必要を今でも感じますか?
うん、現実を分析するのに聴診器を用いるようにね。カメラはある事物を可能にするんだ。文学や絵画は違うし、それらは別の事物を可能にする。
――私がヌーヴェル・ヴァーグと関連付け、あなたの1970年代のUマチック[9]のヴィデオによる探求と関連付ける世界への感受性が、『私たちの音楽』では示されています。これは、再生の新局面がはじまるのを示唆しているんでしょうか?
私の人生や私の知性の軌跡に対応していたヨーロッパについてのあるアイデアの終焉の後、やりなおしたいという欲望があったんだ。私たちがやりなおせるかもしれない可能な出発点というのはあるんだろうか? シネマに関するかぎり、それは見つけられていない。そして、異なった話し方や異なった撮影方法を私たちが身につけているようには見えないわけで、そのような出発点が可能かどうかは疑わしい。〔この事態は〕さしあたり、むしろ終焉に似ている。
――あなたがそんなことを言うとは驚きです。私にとっては、この作品はきわだって明るい調子をもち、前向きですよ。
たしかに他の作品に比べると快活だし、この作品をペシミスティックだと言った人は間違ってる。逆にあまりに子供じみてオプティミスティックなんだ――だけど、私たちはそのオプティミズムにおいて一年間を生き、今ではそのオプティミスムも使い尽くされて・疲れ果ててしまった[exhausted][10]。
○
――「地獄篇」のモンタージュは、あなたの別の作品のほかの箇所でサンプリングされた多くの作品断片を再加工していて、そのうちの一つはアルメニアの映画作家アルタヴァスト・ペレシャンのモンタージュ作品『始まり[Beginning]』(1967)があります[11]。あなたの象徴的な作品形態においてペレシャンは役に立つ参照点・基準点[point of reference]なんですか?
うん、少なくとも「地獄篇」では。というのは、地獄篇は使った音楽に基づいて構築されてるから。〔地獄編全体は〕10分か12分が必要だとわかっていたので[12]、〔三篇のうち〕この一篇は最後に作った[I did this part last]。私は3、4の音楽の部品を編集することから始め、それから表現したいもろもろのアイデアに対応するイメージを探した。そのアイデアとは、一つ目には、あらゆるところで交戦がつねにあり続けていて、そこでは互いに殺しあう人々がいて、そこに、大洪水[the floods]の後に武装した人間たちが現れ、互いに殺戮しあうことについてのモンテスキューの引用を伴走[accompanied by]させよう、というものだ[13]。二つ目には、戦争の機械[the machinery of war]のイメージが来るというもの。三つ目には、犠牲者たちのイメージが。四つ目には、戦争中のサラエヴォのイメージが。
○
――数年前にあなたの『私たちの音楽』と題された映画作品のシノプシスを見ましたが、それは、マンフレート・アイヒャーのECMレコードにかかわってる音楽家の何人かを訪ねるというアイデアを中心に展開していました。完成された作品にはこの計画の痕跡がほとんどまったくありません。
音楽についてのアイデアは〔完成作品においても〕残った。そのアイデアはサラエヴォに行くまで消えていたんだけど、それはちょうど路面鉄道の軌道に鳴る音がある種の音楽として私たちに聞こえるようなもので、そのため私はそれを『私たちの音楽』と呼んだんだ。すなわち、彼らの、私たちの、みんなの音楽、と。その音楽は私たちを生かすものであったり、私たちに希望を抱かせるものであったりする。人は「私たちの哲学」とか「私たちの生」と言うことができる、しかし「私たちの音楽」はよりうまい言い方だし、そこには異なる作用がある。そしてまたそこには、私たちの音楽のどのような側面がサラエヴォで破壊されたか? という問いがある。そして、サラエヴォにある私たちの音楽にいまだ何がある〔残っている〕のか? という問いが。
○
――あなたの2分間の献辞作品[homage]「たたえられよ、サラエヴォ[Je vous salue, Sarajevo]」(1994)は、ゴイティソーロの『サラエヴォ・ノート』のように、包囲された都市の住人に対するEUのシニシズム、怠惰、無関心への憤慨に満ちています。ゴイティソーロの『ノート』は重要な参照だったのですか?
私はゴイティソーロの作品はよく知らなかったけれど、その小さな『ノート』は、当時私が見つけたヨーロッパ人によるサラエヴォについての本では最良のものだった。
――戦争開始以来、あなたの作品ではしきりにサラエヴォが繰り返し登場してきました。
ちょっと、1968年以前のヴェトナムみたいにね。1968年以前、ヴェトナムについて定期的に言及するのが私の異議申し立て方法[my way of protesting]だったんだ。
――パレスチナ人詩人のマフムード・ダルウィーシュはこの作品ではキー・ポジションを占めています。「煉獄篇」の上演された[staged]ジュディットとのインタヴューでは、イスラエル人ジャーナリストが実際におこなったインタヴューで語った彼の発言を反復します。「なぜパレスチナ人が有名なのかあなたたちにわかりますか? それはあなたたちが私たちの敵だからですよ。私への関心ではなくあなたたちへの関心…。あなたたちは私たちに敗北と有名さをもたらしたのです」。
ダルウィーシュは重要で、それは彼が言うように、イスラエルが重要だからなんだ。しかし、彼がスクリーンに現れるのは、他の人よりも短い。
――かつて『ヒア&ゼア』(1975)でアンヌ=マリー・ミエヴィルと探求したアイデアを、講義においてあなたは再訪します。そのアイデアとは、第二次世界大戦で〔ナチの〕ある強制収容所の瀕死の囚人が「ムスリム〔回教徒、イスラム教徒〕」として描かれたということです。
最初に私は、ラーヴェンスブリュックに収容されていた民族学者にしてレジスタンス闘士のジェルメーヌ・ティヨン[Germaine Tillion]の報告のなかに、たまたまそれを見つけたんだ。物理的な存在として末期に〔死の淵に〕あり、逝きはじめ、死を待ち、自分でできることをおこなう囚人たちのグループのもはや一員ですらなくなった人たちが「ムスリム」と呼ばれたことについて、誰もふれないのを私はいつも驚いていた。その〔ナチの〕ドイツ人たちが彼らをそう呼んだにちがいないのだけど、そのとき私が奇妙に思ったのは、そのドイツ人たちはなぜ「犬」や「ゴミ」という呼び方やユダヤ人やジプシーについて使われてきたあらゆる言葉を使わなかったのか? ということだった。しかし今ではこう思う。瀕死の囚人をムスリムと呼んだのはユダヤ人であり、〔ユダヤ人にとって〕ムスリムは代々の敵だったのであり、生き延びよう[try to survive]としない者たちだったのであり、ユダヤ教・ユダヤ主義[Judaism]に反する者だったのであり、困難に関係なく生き延びるはずの者だったのだ、と。
○
――あなたの講義では、古典的話法の映画に馴染み深い標準的な「ショット/リヴァース-ショット」[14]に荒削りな批評を行う方法としてホークスについて短い議論が提出され、同時にその批評は、真に詩的なイメージを合成・構成[composition]するモデルとして提案されます。
現実の「ショット/リヴァース-ショット」のいい例は、ドイツ人物理学者のヴェルナー・ハイゼンベルクの書いた本から、彼が戦前に友人のニールス・ボーアを訪ね、エルシノア城に着いたのを記した箇所から抜粋した。ここではショットは城であり、リヴァース-ショットは「ハムレットの城」という記述だ。この場合、イメージはテキストによって創られている。それは――二つの星が関係付け[15]られて生み出される星座と同じく――詩人の行為なんだ[It's what poetry does]。
――そして、それが問いを喚起する、と。
それが問いを喚起し、問いのかたちをとって他の応答を招き寄せる[introduces]。その結果、私たちは同じことを何度も重ね重ね言わずに済むというわけだ。
――軽量のデジタルカメラが映画を救うのかと講義で尋ねられるとき、あなたは応えていませんね。
私は、そのシーンを素っ気なく・短く[short]したかった。ともあれ、私にはわからないよ。まずいことに、生徒たちは小型カメラがあれば何か映画作品を撮れると思っている。デジタルカメラのメーカーは(批評家もですが)こう言う、「すばらしい! 誰にでも映画を作れるね!」。違う、映画は誰にでも作れるんじゃない。映画を作ろうと思うことは誰にでもできるし、映画を作ろうと言うことも誰にでもできる。だけど、人が鉛筆を手にしたところで、ラファエロやレンブラントのように描けるわけじゃない。もし作中でこうしたことを私が言ったなら、このシーンはあまりに長くなったことだろう。〔だから、素っ気無く・短くしたんだ〕
――でも、それ〔デジタルカメラの可能性〕を追求しないのなら、どうしてこの問いを作品に残したのですか?
生徒たちが映画学科の学生であり、話しているのが私だからだよ。それに、問いの4分の3は馬鹿らしいものだっただろう。これは、そうすることで生徒が尋ね方を学ぶといった種類の問いなんだよ。
アメリカで講義をしたときのことを思い出すんだけど、そのときある少女を見つけたんだが、その子はきれいで私の注意を引いたんだ。そのとき、私は、集団に対してじゃなくて一個人に対して話しかけた方が、話しやすいのだと気づいたんだ。そのときその子は「ゴダールさん、あなたは云々かんぬん~~~ をあなたは詳しく説明できますか?」と長い質問をしてきた。それから私は一時間にわたって詳しく説明した。ともあれ、私はより一層詳しく説明をしたんだが、気づいたら彼女が自分のファイルケースを抱えてその場を去っていくところだった、ってな結果になってね。君の生徒たちはどうなのかは知らないが、〔これと同じことになるのを〕疑ってしまうね。
――イメージがテキストに支配されていることについての批判を、あなたはこの作品で追求していますが、あなたが提案するのはより両立的な[conciliatory]な姿勢です[16]。
私、イメージの男である私は他者に代わって弁護したんだ[I, a man of the image, was pleading on behalf of the other]、ちょうどセルビア人に代わってボスニア人が弁護するようにね。テキストの名において私は弁護していたんだ。
――あなたはフィルムを本のように他所・他なる場所として描きました。
本じゃなくて、フィルムだ。だけどそれは、本の人たちに向けた言い方だったんだ。「フィルムを本のように見てください」「ただし、読むのではなく、見てください」と。若い人たちはイメージやフィルムを読む方法を学ばなくてはならない、とフランスのある文化大臣が言っている。違う。若い人たちはそれらを見る方法を学ぶ必要がある。読み方を学ぶのは別のことです。
○
――〔地獄篇に挿入されている〕1993年のアマチュアビデオの断片映像では、クロアチア人側からの砲撃の後、モスタル橋が崩壊するのを私たちは目撃しますが、次いで〔煉獄篇では〕ネレトヴァ川から原石を引き揚げる等を含むモスタル橋再建の初期段階を目撃することになります。橋には大きな隠喩的負荷[metaphorical charge]がかけられています。というのは、建築家ジル・ペクーの手がけるその計画は、単に橋を再開する探求ではなく、「過去を修復し未来の可能性を作り、苦しみと罪を結合させる」[17]探求だからです。
それは実行されなかったんだ。ジル・ペクーは首にされ、新しい石や本物っぽい加工材を用いるような、どこにでもありそうな橋を作るクロアチア人がその計画責任者の地位に取って代わった。人がDVDですることと一緒さ―-修復なんだ。石は川から採掘され、それぞれ数字が振られ、そして使われはしなかったんだけど、その石のすべてを私は撮った――しかし、この映画を見る人は石が使われたんだろうと思うだろうね。今ではその石はモスタル市の住民が「石の広場」と呼んでる場所にあるよ。
○
――ジュディットは「煉獄篇」前半の中心にいますが、あなたの講義のあとはトーンが切り替わり、より暗い登場人物であるオルガが次第に目立ってきます。
それはフィクションへの切り替わりなんだ。フランスの批評家には、この二人の少女で混同した人も数人いて、二人の少女がいるのだということさえ気づかなかった人もいた。
――二人の間の関係には、分身的二重化[doubling]の感じ、あるいは二度現れる同一人物の感じがあります。
ここにはたぶんリヴァース-ショットのアイデアがあるんだ――登場人物に対する関係という以上に、二人目の少女は一人目の少女に対するリヴァース-ショットの関係に似ている。そのような二重性だとは考えてなかったけど、そう指摘してくれるのはうれしいね。それは創造的な無意識には欠かせないよ。
初期段階に私が思い描いていたのは、ただ一人の少女の、ユダヤ系イスラエル人ジャーナリストが最後には自殺する、というものだった。でもそれはちょっとやりすぎ[excessive]だったし、〔そのような描き方をしてしまっては、〕爆破するためにテル・アヴィヴ〔事件〕にその登場人物を戻らせるような誘発剤になった。そのときイスラエル人女優のサラ・アドラーはこの少女の役を演じたがっていたけど、自殺の箇所はやりたがらなかったんだ。「違う。私はそんなことはしない。それは〔自殺するというのは〕あなたの考え方であって、私の考え方じゃない」と彼女は言った。そのため、自殺の旅のために他の少女を導入しよう、そっちの方がいいだろうと考えたんだ。こうして、分身的二重化が導入されたわけだけど、単に安易なものにはなっていない。
――あなたの作品では自殺の主題が定期的に繰り返し登場します。オルガは実際に自殺しませんが、死を招き寄せてしまいます[invites death]。自爆めいた身振りをして[by acting like a suicide bombe]――そのとき実際には彼女は本を〔バッグから〕取り出そうとしただけなのですが――平和のためのキャンペーンに注意を引いた際に。
自殺のこの問題は、すでに『中国女』で〔レックス・ド・ブリュインが演ずる〕キリーロフを通じてスケッチしてあった。本作では「煉獄篇」の最後の少し前で、オルガが〔ガルシアと〕会話する際に、ドストエフスキーの同じテキストを再び使った。自殺を興味深い哲学的問題だとみなしたために、彼女は自殺しようと思うわけだ。作品にはこのアイデアを入れようと思っていたが、それはテロリズムの名においてテロリズムを擁護しようと思ってのことじゃないし、その場合は討論に参加しなくてはならないだろう――少なくとも作品のなかで――「しかしあなたは罪も無い[innocent]な人々を殺しているのか?…」「そう、しかしだからあなたは…」「まず私は…」といったようなね。私はひそかにこう考えた、「彼女は、私が自らにできるだろう何かをしなくてはならない」。そして私は、理論的に、哲学的問題として、自殺についてしばしば考えるんだ。
カミュの『シーシュポスの神話』冒頭部のある一節、「真に哲学的な問題は一つしかない、それは自殺だ」が私のなかにずっと滞留していた[has stayed with me]。たとえ私が自殺しようとしても、窓から投身自殺するのを望みはしないだろう、と思っていた―自分で自分を傷つけるのは怖いからね。それに銃の買い方も知らないし、断られるだろうから医者からシアン化合物をもらうこともできない。眠ってるときに絞め殺してくれるほどに私を愛してる? と誰かに尋ねるなんて無理だ。方や私は少しずつ、何らかのテロリストに加担することができたし、テロ活動をはたらいたりすることができたんだ。
だけど、〔たとえテロ活動を実行したとしても〕私はオルガのように失敗することだろう。兵士が三十分後に私を射殺するんだろうなと知って自殺をやりとげるんだろうね――イスラエル兵士は決して射殺しないのだとサラ・アドラーは意見するけども。私の友人である本〔の主旨〕に沿って、平和の名において、それはおこなわれるのだろう。私は一つのイメージであり、友人つまり本を、ポケットに持っている。そして、そうすること〔友人としての本をポケットに持つこと〕ができるのだと私は自分に言い聞かせる。これは批判・批評される[be criticised]だろうと予想していたんだけど、誰もこれについて言及しなかった。それは議論不可能[unchallengeable]なんだ。
――「天国篇」は美しく、現実的で、可笑しくて[funny]、少し悲しいものです。
これは反米[anti-American]だと批評家たちが言ったが、私たちがアメリカ映画で何百回となく耳にした「アメリカ海兵隊賛歌」では、彼ら〔海兵隊〕は言ってるんだ。「もし陸軍と海軍が/天国の情景[scenes]を見渡すならば/天国の街路が/アメリカ合衆国海兵隊に守られているのに気づくだろう」[18]。人々は「それは単なる歌詞だ」って言う。違うよ。
訳注
[1] 日本公開上映時に販売された冊子では「本の出会い」と訳されている。
[2] 何年以降から6作と言ってるのかよくわからないが、『パリの人々』(Parisienne People, 1992, 共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル)、『子どもたちはロシア風に遊ぶ』(Les Enfants jouent à la Russie, 1993)、『たたえられよ、サラエヴォ』(Je vous salue, Sarajevo, 1993)『TNSへのお別れ』(Adieu au TNS, 1996)、『古い場所』(The Old Place, 1998, 共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル)、『二十一世紀の起源』(L'Origine du XXIème siècle, 2000)、『自由と祖国』(Liberté et patrie, 2002, 共同監督アンヌ=マリー・ミエヴィル)のことか。
[3] P.O.L.から発行されているゴダールのPhrasesシリーズのこと。現在までで6冊が刊行されている。For ever Mozart (1996), 2 x 50 ans de cinéma français (1998), Allemagne neuf zéro (1998), Les Enfants jouent à la Russie (1998), JLG/JLG (1999), Eloge de l'amour (2001)。
[4] オムニバス映画『パリ、ジュテーム』に寄せた一編『Champ Contre Champ』(2002-2003)のことか。参考:「シャン・コントル・シャン - Wikipedia」
[5] 日本でミエヴィルの作品はあまりまとまって公開されない。概要はwikipediaのミエヴィル作品項目など参照。
[6] wikipediaの『私たちの音楽』項目は英語発音での表記でジュディス・ラーナー、オルガ・ブロツキーとなっているが、ここでは仏語発音に即した。
[7] Cahier de Sarajevo (tr. par François Maspero, La nuée bleue, 1993)は、ゴイティソーロのCuaderno de Sarajevo. Anotaciones de un viaje a la barbarie (El País / Aguikar, 1993)の仏訳書。邦訳は『サラエヴォ・ノート』(山道桂子訳、みすず書房、1994)。
[8] ロニー・クラメール演じるラモス・ガルシアによる仏語通訳からの邦訳ではこうなっている。「巨大な破壊力を前に今こそ革命が必要である。破壊に匹敵する創造力の革命だ。記憶を補強し、夢を明確にし、イメージを実体化する」(寺尾次郎訳)。
[9] 1969年にソニー、松下電器、ビクター等が世界初の民生用(家庭用)カセット式VTRの規格「U規格」を発表した。1971年からソニーが発売を開始した商標が「Uマチック」。カセット方式による規格で、民生用として発売された。ソニーのBetamax規格、ビクターのVHS規格よりも優秀な画質を備え、長年にわたって支持された。その後のデジタル記録方式の出現等により、今では使用されていない。2000年にU規格のVTRは生産が終了した。
参考:「U規格 - Wikipedia」
[10] この言葉は、『フォーエヴァー・モォツアルト』序盤で脚本家ハリーが言う「その希求すらも窮状によって追いやられている結果にすぎない(大意)」を思わせる。
[11] Artavazd Pelechian。ウィットの発言箇所ではArthur Pelechianと表記されているが、誤りあるいは西欧風の表記だろうか。『始まり』(原題Skizbe, 仏訳題Au début, 英訳題Beginning, 1967, 10mins)は1917年10月革命の50周年に際してソ連・ロシアの写真群やフィルム断片を用いて制作されたコラージュ映画。やや画質は粗いがYoutubeで見ることができる。地獄篇で『始まり』が使用されているのは、『私たちの音楽』1:37-1:39。
ゴダールにはペレシャンとの対談がある(岡村民夫訳「バベルの塔以前の言語」、『ユリイカ』2002年5月号「特集=ゴダールの世紀」)。ゴダールは『新ドイツ零年』ロシア語版をペレシャンとともに作ったり、『映画史』4Bでは『四季Vremena goda』(1975)の一部を用いた。ペレシャンは1995年10月に来日し、山形国際ドキュメンタリー映画祭に訪れた。赤坂大輔によるそのときのインタヴューがある。imdbでの作品一覧
[12] 「地獄篇」は9分30秒分ある。
[13] モンテスキュー『法の精神』第23編第23章からの引用(邦訳p.387)。
[14] 作中のchamp/contre champのこと。「ショット/切り返しショット」。ただし、champはむしろ英語で言うところのfieldの意味合いの方が強く、shotに相当する単語はplan。そのため、仏語の字義通りに英訳するならばfield/couter-fieldとなるだろう。「光景/対抗する・反対する光景」ぐらいの広い意味がある。
[15] ウィットはここでrapprochmentをそのまま書き写すことで英直訳しているが、英語ではrapprochmentは和解・親善の意味になってしまう。仏語ではこの語はその意味のみならず、より原義には、近づけること/近づくこと、比較対照・関連付けの意味があり、形容詞proche(近い/近接した/近似の)から派生している。仏語のrapprochementを英訳するにはapproximationやconnection, comparisionなどの方が適切かも。
[16] 英語のconciliatoryには和解、懐柔、妥協、融和、なだめるような、の意味が主となるが、仏語のconciliationでは調停・勧解、両立、校訂の意味もあったので、仏語の意味に即して訳した。
[17] ジル・ペクーの発言。邦訳ではこうなっている。「過去を修復し、未来をつくる(…)。苦悩と罪悪感を結び付けること」(寺尾次郎訳)。
[18] 原文は"If the army and the navy/Ever look on Heaven's scenes/They will find the streets are guarded/By United States marines."。邦訳ではこうなっている。「もし海軍と陸軍が天国の情景を見ることがあれば、天国の通りが合衆国海兵隊によって守られているのを見出すだろう」(寺尾次郎訳)。
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2009年11月8日日曜日
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