2009年11月17日火曜日

ゴダールをめぐる諸思考・断片1

 個人的なやりとり、および持田さんのblogでしていたやりとりの、私の書き込みをざっくりまとめた。長めの論立てをしようと思っているのだけれど、その後から見ると前哨戦という位置づけになるのかな。やりとりの間で結構思考が進み、いい機会になったと思う。

目次 2009.10.30-11.8
『ForEver Mozart』の待機とoui/non
待機された出来事と到来 『ForEver Mozart』から『私たちの音楽』へ
ゴイティソーロとoui/non、「1492年」
余談もろもろ
[断片2へ続く]

『ForEver Mozart』の待機とoui/non
2009年10月30日 加筆修正
 (...)簡単に言うと、持田さんの記述と絡んで思いついた件でして、カミーユの失業に関する初言及箇所であるシルヴィーとヴィッキーの会話にEn attendantとあって意味深だって話です。『JLG/JLG』や『古い場所』などと同様にいつ終わるともしれずにちょこちょこ対訳シナリオ注解の文書を作ってるんですが、まだそれは1割ぐらいしか終わってないので途中経過で発想した読解です。『ForEver Mozart』は語彙操作が他よりも面白い印象が。(...)持田さんが記事で注目した食卓シーンのカミーユのリハーサルめいた「失業してから」云々の朗読箇所ですが、もうちょっと先にシルヴィーとヴィッキーが「三年前にも失業しちゃってさ」みたいにカミーユの来歴がそれとなく初めて説明されるシーンがありますよね。10:00 あたりの箇所なんですが、

fr.
- Je la connais. Il y a trois ans, elle voulait déliver Jérusalem. [Vicky]
- Oui. En attendant, elle est un chômage. [Silvie]
eng.tr.
- l know her. Three years ago, she wanted to deliver Jerusalem. [Vicky]
- Yes. ln the meantime〔Being Waiting〕, she's unemployed. [Sylvie]
jp.tr.
- カミーユのことはわかってる。三年前、カミーユはイェルサレムを解放したがっていた。 [ヴィッキー]
- そう。カミーユはイェルサレムの解放を待っているうちに失業した。〔とにかく、カミーユは失業した〕(注1) [シルヴィー]
ってなってるんですよ。澤田訳とは違って邦訳は変更しました。

注1箇所の添付
(注1 “En attendant”をどう読むかによって意味が違ってくる。直前のヴィッキーの言葉を受けて”En attendant de déliver Jérusalem”の意味で言ってるとみなせば、「イェルサレムの解放を待っているうちに失業した」あるいは「イェルサレムが解放される前に失業した」と読める。また、”En attendant”単体で慣用的な意味に「とにかく」「それでもやはり」の意味があるが、この場合は直前のヴィッキーの言葉が失われる。澤田訳は後者よりに、曖昧に訳し下したもの。
 語彙の選択からして、前述のソンタグ/ソレルスの件を受けて、「ゴドーを待ちながら(En attendant Godot)」を模して「イェルサレム解放を待ちながら(En attendant Jérusalem délivrée)」というフレーズが分解されて仕込まれているのだと思われる。澤田訳ではこの箇所が「頑固なんだ。3年前も中東問題にのめりこんだ」「そうなのよ。教師を首になって」と訳し下されており、語彙選択が消えてしまっているので改めた。なお、フレーズとしては重なる「La Jérusalem délivrée(解放されたエルサレム)」(1575)はトルクァート・タッソによる叙事詩で、11世紀の十字軍侵攻を素材とし、のちにオペラや戯曲などに翻案される。リュリによる翻案の「アルミード」(1686)をゴダールは「アルミード」(1987)で用いている。(後略))

 要は、カミーユは「イェルサレム解放を待ちながら/待ってる間に、解放されないうちに」失業しちゃった、って人なんですね。ゴドーの到来ととイェルサレム解放の到来が重ねられているわけです。だから、持田さんのこだわったカミーユの朗読箇所は、「ゴドーを待ちながら」のテキストと呼応関係にある可能性がある(ゴドーをじっくり読んでないのでこれ以上はわかんないけど)。

 よって、ここは労働と失業と、ゴドーとイェルサレムとサラエヴォが一堂に会する、フレーズ群のトポスみたいなのがあるんじゃないかと。70-80 年代のゴダールのパレスチナ/イスラエルをめぐる取り組みと、90年代以後のサラエヴォをめぐる取り組みが、ちょうど移行点のように明確に結集してるのって、他にあまりないんじゃないかな。
 持田さんがこだわった、一種のカミーユ・リハーサルのシーンの末尾でソレルスの記事がもう一度出てくるのは偶然じゃなくて、ゴドー/サラエヴォ/イェルサレムという主題系の確認だと思えるわけです。


 (...)私がこだわるのはむしろゴドーに近づけることよりも(あんまりゴドー読んでないので)、作中に出てくるattendreの使い方でして、割と負荷かかかってる語彙だとは思うんですよ。attendre(wait)の頻発ぶりは、ウィ/ノンの運動をめぐってかなり密接です。「ペナルティ!」とか見えないサッカーをやるシーンではじまる、最初にボカと男爵が登場するシーンでは
fr.
Alors, Boka, on vous attend.
eng.tr.
Well, Boka, we're waiting!
jp.tr.
ほら、ボカ、みんながお前を待ってるんだぞ。 [男爵]

そして次の男爵/ボカのやりとりはこうです
fr.
- Allons-y Boka. Vous allez chercher mademoiselle Solange au collège, et vous revenez. Alors c’est oui ou c’est non?
- On va le savoir.
eng.tr.
- Go Boka. You will seek Miss Solange with the college, and you return. ls it yes or no?
- We'll soon find out.
jp.tr.
- おい、ボカ。娘のソランジュを学校に迎えに行って、一緒に戻ってこい。わかったな?〔ウィかノンか?〕 [男爵]
- じきに判ります。 [ボカ]

そして、この指示の結果の経過は割と不透明ですね。ソランジュはオーディション会場に来るだけなんで。

次のattendreの箇所はここです
fr.
- On vous attend. [Félix]
- Suivant. [off-voice]
- Harry aussi. [Félix]
eng.tr.
- We're expecting〔wainting〕 you. [Félix]
- Next. [off-voice]
- Harry come too. [Félix]
jp.tr.
- あなたを待ってるよ。 [男爵]
- 次。 [off-voice]
- ハリーも来る。 [男爵]

そして、ハリー、男爵、ヴィッキーによる会食のシーンは「描かれない」。明らかに意図的に、待機[attendre]された事柄のシーンは除かれている。そして、ウィ/ノンの応答の話は、待機と関わるシチュエーションが多いわけです。そんで、三回目のattendreの出てくる箇所が、先のイェルサレム解放が~ ってあたりなので、この語彙を出しているシーンは何らかの意図的な構成を狙っているのはほぼ間違いないと思います。まあ、慣用的に読もうと思えば読めるんですが、oui/nonと関わる出来事性と待機が関わっているとみなした方が面白く無理矢理読めるかと思って。
ま、ここらへんまでしか精査が進んでないんで全貌はつかめませんが、ここまでの箇所だけでも結構面白い発見がありました。

待機された出来事と到来 『ForEver Mozart』から『私たちの音楽』へ
2009年11月01日 11時20分
(...)ゴダールの作品っておおよそ「場所Aから場所Bに行く」って話でしょう。はなればなれにでは「さあ強盗も成功したし、B(アメリカ)行こうぜ」で終わるし、ウィークエンドでは「Bに行く途中でいろんなことが起きて夫は死ぬし妻は人食っちゃいますよ」なんてものだし。要はプロセスを出すためのA/Bの設置なんですよね。新ドイツ零年も「東ドイツ(A)から西ドイツ(中継地点)を通り、フランス(B)に帰る、その途中で…」だし、ForEver Mozartも「サラエヴォ(B)へ」ってなってるしね。で、大抵、非対称的であったり不可逆であったりする変化や切断があるわけです。
 『私たちの音楽』は「煉獄/天国」というかこの世/あの世ってことでしょう。だから煉獄編で出てくる誰とも知れぬ視線ショットとか、天国にいるオルガが誰かか見られている、という非対称性の出し方とその見方が重要になる。あと、誰か→オルガとかオルガともう一人のペアの女のような、二人一役的な問題は、『ForEver Mozart』でもカミーユ/女優間で出てますね。
 人にゴダールについて言うとき私は、「要はあれは、どっかからどっかに行く話です。別に難しくはないから気構えることはない」とかではじめます。

 で、こういうトポスとトポスを移動する人物の線ってやっていくと、「BはすでにAだったんじゃないの」とか「Aの分身がBである」というのが、非対称性を維持しながら、つまり同一性なくして反復するようなかたちも展開できるんで、つまり、展開していくと時間論が浮上するんでしょう。
 それらと対比したとき、『JLG/JLG』は、A→Bを「使えなくなってる」逆境が面白いんですよ。そこで室内/室外の平行処理にもなっていくし。音声が画面外か画面内かの違いも大きくなってくるし。この逆境が、時間論に発展する契機の一つかもしれない。まあ、初見のとき私は「トポス間の非対称性を封じられたら、四季の循環になってしまってる。これは失敗ではないか」とか思ってちょっとがっかりしたんですけどね。でももっと再読の余地ありそうだな。

 あ、余談ついでに言っておくと、私がオリヴェイラの『世界の始まりへの旅』に特にこだわってたのは(アワーミュージックの煉獄編最初の車のシーンはあの作品を意識してる気がするけど)、そういうトポス間の非対称性、翻訳的な関係が突出してたからでしてね。オリヴェイラの作品の中でもあれぐらいなんじゃないかな、ああいうのが出てるのって。言わば、オリヴェイラのなかで一番ゴダール的な映画になってる。

2009年11月02日 加筆修正
>ただ私は逆にこう推測するのです。『フォーエヴァー・モーツァルト』はむしろ「もはや待たないこと」についての映画、あるいは「待つことの彼方」にある映画ではないか、と。
>(...)この「モーツァルト?」の登場こそが『フォーエヴァー・モーツァルト』の頂点であり、何をしでかすか分からない=天才ゴダールの本領を発揮した場面ではないか
 なるほど! これは刺激的な発想ですね。それゆえにあのタイトルがあるのだし、「モーツァルトに祈る」といった語呂合わせ説などが出てくるだけの負荷がかかっているのか。
 私は『私たちの音楽』については煉獄篇と天国篇の非対称性というか決定的移行がキーだと思っていて、あの作品は天国篇をどう位置づけるか次第で読み方が全然変わってくるわけです。で、煉獄篇に対して埋め込まれているように追加された天国篇が面白い。で、『私たちの音楽』というのは、これまでのゴダール作品のなかにあってもきわだって二者間の非対称的な関係とその齟齬が配置されているわけですが、いわば煉獄/天国という二種のトポスがその非対称性をさらに増幅するような構成になっているというか。ここまで全体構成において顕著に模索し、かつ試みとして明確になっているのは珍しく、ゴダールがこれまで問いに付してきた非対称的なモチーフの集大成めいたところがあるわけです。
[11.17.※ この読解の大筋は「非対称性の操作 - ゴダール『アワーミュージック』」に転載した]
 で、そうした模索の線なり可能性と限界を追い詰めてみたいというのがあったんですが、持田さんのその四部構想、「音楽」の位置づけをめぐる読解というのは、いわば「天国篇」のような特殊な両立しがたいトポスの模索の萌芽的なものと指摘しているように読める。到来(venir)で言えば、舞台・世界劇場・映画 / 音楽が、来るべき(à venir)/すでに到来した(venue déja)みたいな時間の飛躍があるということなのでしょう。出てくるモーツァルトもなんだかinnocentな感じあるし、部分的には天国の人たちと似たところもありますしね。そもそも、ハイデガー/デリダの論脈だと、この種の問題は死とも深く関わるものですし。
 天国篇では到来の問題は失われているけれども、転生というか再生というか、飛躍して翻訳的な継承と言ってもいいのか、そうした展開が明確になっていて、しかもなお亡霊のような非人称的な何者かからの視線の場所は天国のオルガからは認識できず、非対称性は消えることなく残余する、といったことになっているんですが、ForEver Mozartではカミーユ/女優→世界劇場・映画/「モーツァルト?」→音楽 という分裂のもとで展開しているわけですね。そういえばアワーミュジックのどこに「我らの音楽」があるのかさっぱりですし、その謎っぷり、音楽に託されたエレメント(実際に文字通り音声・音響を指すのかはともかく)などはかなり近いですね。私としてはやっとあの不可解な4部構想の狙いが腑に落ちるような気がしました。

ただ、そう考えれば考えるほど、
>「待つことの彼方」
という、こうした二場所のおのおのの扱いをどう考えるかは重要になるのでしょう。到来というのは、「そこに出来事があります」と指差せてもしょうがないところがありますし、それだと出来事性が消えちゃうわけで(レヴィナスとかが実詞化とか言って批判する)、出来事の手前と彼方、みたいな感じで考えた方が面白くなるのかな、と思いました。物事はつねに言い過ぎるか言い足りないかの二つになる、というような意味で、出来事をめぐる的確な表象の終点というのは無いのだと。そういう意味では音楽は終点のように読まない方が面白くなるのでは、とか、おそらくアワーミュージックや愛の讃歌における時間軸の意図的な崩し方や入れ子っぽくなってる相関関係を持ち込んでいるのはそうした試みをより出してみた結果なんじゃないか、などと思いました。

ゴイティソーロとoui/non、「1492年」
2009年11月02日 加筆修正
(...)「映画」が「宿命のボレロ」なのは、たぶんゴイティソーロの一節を含んでのことなのでしょうね。『サラエヴォ・ノート』の一部に「90年代のヨーロッパの政治は、オーストリア、エチオピア、スペイン、チェコスロヴァキアなどで繰り広げられた30年代の無思慮・無分別を、少しアレンジして繰り返しているだけなのだろうか。いつ終わるともしれない、うんざりするラベルの『ボレロ』のように……。」(p.94) とあるんですが、「映画」をめぐるoui/nonの運動が「いつ終わるともしれない、うんざりする」ような探求、痛ましく際限のない(lamentable et interminable)ラヴェルのボレロの繰り返し、それがヴィッキーの撮りたかったであろう『ボレロ』なのでしょう。あるいはゴイティソーロが別の箇所で何度も嘆いているように、不毛に繰り返される政治外交のやり取り、という位置づけとして。
 浅田の指摘にはこれはなかったような、と思って読み返してみたら、一応近いところは紹介されてるけど、oui/non読解としては重要になると思われる「いつ終わるともしれない、うんざりする」のところが抜けているから、これだと片手落ちだな。「いつ終わるともしれない、うんざりする」待機、だから重要なのでしょう、たぶん。(...)
fr.
- Voilà ce que m’a dit Juan Goytisolo quand je l’ai vu à Madrid. Est-ce que l’histoire européenne des années quatre-vingt-dix n’est pas une simple répétition avec de légères variantes symphoniques de la lâcheté et de la confusion des années trente? [Vicky] [off-voice]
- Autriche, Ethiopie, Espagne, Tchécoslovaquie, un lamentable et interminable boléro de Ravel. [Vicky]
eng.tr.sub
- This is what Juan Goytisolo told me in Madrid: ls the history of Europe in the 1990's a simple rehearsal with slight symphonic variations of the cowardice and chaos of the 1930's? [Vicky] [off-voice]
- Austria, Ethiopia, Spain, Czechoslovakia: a dreadful, unending Bolero by Ravel. [Vicky]

該当するゴイティソーロのテキスト部分のスペイン語原著からの邦訳
「90 年代のヨーロッパの政治は、オーストリア、エチオピア、スペイン、チェコスロヴァキアなどで繰り広げられた30年代の無思慮・無分別を、少しアレンジして繰り返しているだけなのだろうか。いつ終わるともしれない、うんざりするラベルの『ボレロ』のように……。」(『サラエヴォ・ノート』山道桂子訳、みすず書房、p.94)。

2009年11月03日 加筆修正
(...)ゴイティソーロ絡みで言いますと、まず、採録に入ってるインタヴューでは
1. ペソアの『不穏の書』(近年出た邦訳の完訳では『不安の書』)を下敷きに映画的創造の創設的行為を描くという案 →ForEver Mozart第3部素材へ
2. ソレルス/ソンタグの記事からサラエヴォの発想 →ForEver Mozart第2部素材へ
3. 導入部と終盤部モーツァルトを追加して4部構成へ到達、そこでショーペンハウアーを意識する
といった説明になってるんですが(...)、5、6年前にパウロ・ブランコに制作を提案し、お流れになった映画『クリストファー・コロンブスの帰還』というのも、おそらく『サラエヴォ・ノート』での一節を意識している可能性が高いと思います。1996年時点での「5、6年前」ならばちょっと時系列が違っちゃうので、ゴイティソーロを読む前から発想してるのかもしれませんが。

 ゴイティソーロのこの本では『パレスチナ日記』と同様に「記憶殺し」への怒りというモチーフがあって、1992年、サラエヴォ包囲にて旧東方学研究所であるサラエヴォ国立図書館がセルビア系ウルトラナショナリストによって焼き尽くされてしまったことについてこうあるわけです(たしかアワーミュジックでも廃墟となった図書館は出てきましたが)。引用しますと、
「シスネロス枢機卿がグラナダのビバランブラの門の前でアラビア語の手稿本を焼いてから5世紀が経ち、「新大陸発見500年」の記念行事が数々執り行われる中、この500年前のエピソードは、はるかに大きな規模で繰り返されたのである。セルビア民族の神話の捏造者たちは、同国の重鎮ジューリッチやボグダーノヴィッチからも見事に断罪されながら、先祖殺しの夢をかなえたわけである。その結果、アラビア語、トルコ語、ペルシャ語の何千冊という手稿本が、永久に失われてしまった。」(『サラエヴォ・ノート』山道桂子訳、みすず書房、p.55)。

 1492年はイベリア半島からユダヤ人が追放された年でもあり、スペインから異教徒・異文化を排斥して近代化した転換点にあたる。ゴイティソーロはある意味で文章においてスペイン人に向けて呼びかけてもいて、かくもスペイン系の文化の名残をもつセファルディのユダヤ人をなぜ見捨てるのか、というふうなサラエヴォのユダヤ人の証言を文字にし(p.60)、イスラム教徒、正教徒、カトリック教徒、ユダヤ教徒が共存しえた中世のトレドをサラエヴォに見るような視線を送っている(p.146)。これはちょっとゴダール好みの視点で、在りし日のサラエヴォにもう一つのありえたかもしれないスペインを見出す、という手つきなわけですね。で、ユダヤ人、イスラム教徒、カトリック教徒という要素が終結するのみならず、コロンブスを起点とするアメリカ侵略の開始でもあるのだから、ネイティブ・アメリカンという要素が加わっている。こうしてみると、「1492年」というのは年号というよりも半ば固有名に近い操作が可能になっていて、そういう構想が『クリストファー・コロンブスの帰還』にあったんじゃないかと。

 そして、『アワーミュジック』にアメリカ独立戦争やインディアンが唐突に出てくるのも、この線で考えると別に不思議ではなく、残滓のようにいろいろつながっているんでしょう。先のセルファディはこうも言っている。「ボスニアの異なる宗教の共同体間には、とても良い関係が存在していました。サラエヴォは『小さなエルサレム』と呼ばれたものです。イスラム教徒の子息が、ユダヤ人の職人の工房に仕事を習うため、働きにくることもよくあった」(邦訳p.61)。ここで、別の意味での固有名「イェルサレム」が出てきてもいるわけだし、『アワーミュージック』でゴイティソーロとダルウィーシュを選んで引っ張ってきたというのは、以上の背景からすると実にわかりやすい構図だと思います。ゴダールにとって「スペイン」は、以上のような問題系の結び目だったんじゃないかと。先のヴィキーの箇所では、マドリッドでゴイティソーロに会って『サラエヴォ・ノート』の一節の話を「聞いてきた」ってことになってるわけで(邦訳採録では抜けている)、マドリッドに行く用事の一つとして組み込まれている以上、あの作品でスペインが導入されているのは、一つにはゴイティソーロの強調にあるわけでしょう。

余談もろもろ
2009年11月03日 加筆修正
 (...)マッケイブの『ゴダール伝』はいいところもあるとはいえ、後期の作品読解はややゴダールの個人史に引き付けすぎになってて、作品から見失ってるものもあるという感じです。『ForEver Mozart』についての言及箇所だけちらっと読んで、一層そう感じちゃったんだけど。で、蓮実の『ゴダール革命』は買わずにいるから知らないけど(半分以上はすでに何かの媒体で読んだと思う)日本公開時販売の冊子での浅田・蓮実対談を見ると、蓮実もまた個人史に引き付ける読み方をしてる。悪い意味で実証研究的なものに向かってるというか、作者自身の細かい研究に傾いちゃってて、研究のあり方が保守化する路線と暗黙にあるいは無自覚に結託してるように感じた。これは少なくとも批評としては駄目だろうと。いや、マッケイブみたいにその路線でガツンと行くなら行くで、それはそれでありだと思うんですが。で、たぶん青山真治のアワーパンフ文章もこの蓮実路線の踏襲になってて、「無闇矢鱈に個人史的に読解、ゴダール自身の愛着の読解、そして問いとしてはくだらないレベルに終わる」という典型なんでしょう。蓮実以降、そういう病気が漠然と広がってる可能性があるなあ、と思った。マッケイブだと、もうちょっと文化史的、政治経済との関連との射程でやってるからまだいいんだけどね。平倉は、個々の論文はあまり良くないけど、方向性としては必ずしも嫌いじゃない、と私は何度か言ったけど、それはそうした背景での評価です。とはいえ、問いとしてはあれも微妙なんだけど、ゴダールの(試みの限界を疑って)背後をつかもうとする、ってのはまだいい。
(...)ベケット/マリヴォー/ミュッセの複合体というか、重ね書きされている文書みたいな感じか。その間で切り返しみたいな齟齬を走らせていて、と。おっしゃるように、『ForEver Mozart』ではジャミラが重要でしょうね。オルガみたいな生き延び方をするし。オルガはまあ、死んで生き延びる、みたいなアンビヴァレンスなんですが。『愛の讃歌』はなんかするっと見てしまって、これという見方をしてないんですが、いろいろつながるんだろうな。(...)『私たちの音楽』や『ForEver Mozart』、『愛の讃歌』の後で見ると、時間軸の変動や構成の試行錯誤としては、映画史制作途中および完成以降は如実に一歩一歩進んできてたんだなあ、という感じですね。

2009年11月06日
 (...)ペレシャンの『始まり』をyoutubeで見ましたが、時系列上にファウンド・フッテージを並べていくという意味と、構成の若干のleadingのルーズさという意味で、『始まり』と地獄篇はよく似てますね。下敷きの作品だったのかな、ってぐらいに。ウィットがインタヴューでペレシャンについて言及したのは、おそらく単に「ペレシャン入ってましたね」ということを言いたかったのではなく、ペレシャンの作品に対してはどういう関係にあるのか? といったことを聞き出したかったのでしょう。

>Saint Joan
プレミンジャーの『聖女ジャンヌ』ですね。『勝手にしやがれ』に出演する前のセバーグの前史みたいな作品で、たしかゴダールを含めカイエで絶賛された作品だったかな。興行的には惨憺たるものだったらしいですが。
 まあ、セバーグと言ってもあんまりセバーグ自身にはこだわってなくて、こだわることで面白くつながるとしたら、『勝手にしやがれ』ラストショットのセバーグは、「自分が裏切った男の死を見つめている顔」なんですよね。裏切り者の顔が、ほとんど無時間的な感じの長さでショットが持続し、何ともいえない不穏なものになっていて、顔つきから何から、死人はむしろセバーグのようにも見えるような…。そういう、裏切り者/死者の顔であり、名も無き人々の顔であり(『21世紀の起源』で使ったように)、という振幅が面白いぐらいかなあ。実際、戦争なんてやむにやまれぬ裏切りが多発するものですし、生き延びる人間は事実はどうあれ、死なれた隣人に対しての裏切りのような後ろめたさがあるでしょうし。そういう意味で多義性を見出してゴダール自身はこだわったんじゃないかなあ、という気はする。まあ、あのショットは、セバーグ自身はどうあれ、ちょっと特異なんですよ。

 (...)ジガヴェルトフ時代、ミエヴィル時代、とあって、次にあるのはしばしば「映画史制作開始以降の時代」とされるんですが、ここにはもうちょっと多線的なものがあるように思うんですよ。まずは「冷戦崩壊以後」であり、その端緒として『新ドイツ零年』がある、そして92年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(と日本語では表記されますが、要はボスニア戦争(Bosnian War))、そしてその代表のごときサラエヴォがあり、上記のインタヴューでもウィットが暗に言いたそうにしているように「サラエヴォ以後」がこのとき始まるし、サラエヴォに言及した小作品がぽつぽつと出てくる。

 ざっと考えるだけでも、
映画史制作: 諸断片と構成の問題系がいまだかつてなく浮上する
冷戦崩壊: 歴史の問いが俄かに浮上する
サラエヴォ: 「ヨーロッパ」の全体性とそれによる逆説的な注目がはじまり、遠近は括弧に括られつつ(ウンハイムリッヒなものとしての「サラエヴォとここ」みたいな)戦争と日常の混在が全領域化するという視点が浮上する
 少なくともこうした三本の線が一気に炸裂しはじめ、90年代中期ぐらいからゴダールなりの歩みとその成果が出てくる、という姿がある気がするんですね。(...)

2009年11月08日
>ただオルガ/ジュディットの分身関係というのは必ずしもそうではない。(...)ジュディットには「犠牲」が無い(後略)
たしかに。私の中ではジュディットって存在感が一段落ちるんですよね。なんかこう、対等の分身というよりはサブユニット程度っていうかw 外見上の見分けのつきにくさの仕掛けという以上に、行動の筋があまり鮮明ではないという気がするし。オルガと対比すると、前段階的なステージって感じの扱いなのかな。

>「デジタルビデオは映画を救うか?』への沈黙について
 これはねぇ、文字通りの問いとして扱うと、「どう使うかの問題であって、そんな質問は意味が無い」ぐらいにしか言えないわけだし、デジタルだろうとアナログだろうとそれ自体でどうこうって問題じゃないでしょう、という話になる。
 あのシーンって、「でも何であんなシーンをゴダールは入れたんだろうね」ぐらいの話にしかできないと思うんですよね。私はそこに平倉のようにゴダールの特別な挙措を見出すのはどうもうなづけなくて(そもそもムーゼルマンとつなげる発想自体が、彼の類似性読解の路線に根拠付けられているし)、「無言+表情不明確」の顔でもって対峙させる、という試みをやってみたかったのか? ぐらいにしか感じないというか。質疑応答の場にあって穴を空ける行為を持ち込みたいという――見ようによっては三篇間のつながりの謎と同じようなタイプの間隙を持ち込むという――意志ぐらいなのかな、と。

>ゴダールのインタビューというのはすごくおもしろくて、つまりおもしろく語られていて、7の韜晦に3の本音という感じ。
 これは同感ですね。嘘言ってるんじゃないかって思うときはかなりあるし。彼のインタヴューで一番得られるのって制作進行の経緯とか、脇のことが多い気がする。あと、作品についてのコンセプトというよりは、彼自身の雑談を聞いているうちにふと漏れる1割ぐらいの心境告白的な独白というか思考の癖みたいなのをつかめるっていう感じかな。話している時点で、彼の体質的な思考の定型句をブリコラージュ的に用いてその場その場で作ってるような言い回しが多いと感じるというか(大半については「またこの話か」と思う)、即興でそれっぽいことを言ってるように思えることが多いというか。一つには、「作者の意図」として期待されたり、作品に対して牽制的な発言になってしまうのをかわしたいからというのがあるのでしょうし、また、一種の自己防衛的な身振りでもあるのでしょう。

>『男と女のいる舗道』でアンナ・カリーナが『裁かるゝジャンヌ』を観ている。ジャンヌ/セバーグ/ジャンヌ/カリーナ/ジャンヌ/オルガ、という切り返しショットが織られている。
これはねぇ、ドライヤーが晩年期にイエス伝みたいな作品を撮ろうとしたときにマリア役をカリーナにやらせる話があった(が、たしか着手するまもなくドライヤーが死んだ)とか、その手の接点はあちこちにあるんだけど、言い出したら切りがなくなるし、作品として提示された、イメージとしてそこに提示された、という良かれ悪しかれ輪郭や一定の構成がある範囲から外れすぎちゃうんで、波及させない方がいいと思うんですよ。セバーグを喚起させた私が言うのも何だけどw
 まあ、ショットの特性としての話法の一時中断的視線、視線の帰属先の抹消線の刻印、といった意味で『勝手にしやがれ』ラストショットの可能性とその発展的継承、ということであって、「裏切り者/死者の顔であり、名も無き人々の顔であり」というのは、『21世紀の起源』ではある程度合致するかもしれないけど、アワーミュージックでこれを絡めてもあまり面白くならないでしょうね。むしろ、一旦『勝手にしやがれ』ラストショットを序章的に引き合いに出しつつ、アワーミュージックでのオルガを見つめるあの二つのショットを精緻に分析する……といったシフトをした方がいいと思う。(...)

2009年11月08日
(...)
>「天国」はやはり、薄気味が悪い
 いろいろ奇妙な要素を故意に入れているのは間違いないのですが、しかし面白く展開して読めるかっていうと、なんか構成が今ひとつな気がするんですよね。ただ、言えるのは、あれはユートピアというよりはディストピアで、ほとんどアイロニーだっていうことでしょう。

>ペレシャンの『始まり』
 簡単にまとめると、十月革命→レーニン死去→計画経済開始→驀進するドイツ軍→独ソ戦争→もろもろ みたいな感じで振り返られる1918~1945って感じですよね。革命も労働も戦争も犠牲も、すべてはもはや粒子の運動のごとき群集の力能/犠牲なのである! みたいな。
 地獄篇の場合、注意して見ると、戦争が機械兵器に移行していくとか、大雑把な時系列があったりするのですが、映像が多彩になってしまった分、締まりをどう構築するかに迷った感がある。

>"ユダヤ人たちはフィクションの題材になり、パレスチナ人たちはドキュメンタリーの題材になる。"
 それは『JLG/JLG』以来あるモチーフですよね(『ヒア&ゼア』は知らないのでここでは除外)。表象の光学があり、national identificationとしての表象が生じて、その光ゆえに敵(パレスチナ側)もまた同じ道を辿る…という。『愛の讃歌』におけるその箇所の「フィクション」の意味合いは、表象されているイメージってことでしょう。対置されている「ドキュメンタリー」とは対抗的な事実、ってことでしょうね。

 ただ、何だろう。こういうくだりについて一々大げさに、あるいは軽率にゴダールを称賛するのは率直に言って少々馬鹿らしく感じていましてね。これって一次的/二次的、直接的/間接的、本質的/派生的といった序列を喚起させやすい含みがあるでしょう。フィクション=表象で、ドキュメント=真性? ふざけんな、と。ドキュメントかつフィクションであるような絡み合いは避けられないし、フィクションの生成力とか創出性とかもあるわけだし(「かくもドキュメンタリーであるがゆえに可能になる創造」といった口ぶりは容易に浮かびますよね)。ウィットによるインタヴューでの読む/見るにも言えることですが、単純な二元論や固有性の称揚をやりすぎなんですよ、ゴダールは。少なくとも、台詞や発言ではその種の甘さがあちこちにある。

 たとえば、じゃあ『愛の讃歌』におけるカラー/モノクロ/デジタル加工カラーは何らかの本質(真性)からの距離から序列になるのか、というと、そう考えても面白くならないでしょうし、むしろ、自然=カラーみたいなのを一旦崩すために色彩加工カラーを持ち込み、カラーとモノクロをともにフィクションの別々の相のもとに置こうとした、ってところでしょう。そしてそれは、単に順序の問題にとどまらない時制の複合状況と重なるわけです。
 ちょっとなあ、ゴダールは奮闘してるので、一定の好意はもちながら模索における可能性を選択して問うわけではありますが、実際のところ、ナイーブな二元論などもちらほらあるわけですよ。かつてゴダールファンがそういった二元論に平気でのっかかり、さらに馬鹿になった、というのを散々見てきたので、そういう警戒は適宜必要ですよ。結局、自分にとって何の糧にするために読むのか、ってのが重要になるわけです。(...)

[断片2へ続く]

0 件のコメント:

コメントを投稿