以下は『アワーミュージック』を見た当時、2005.11.15に書かれ、2005.11.17-18に追記された文章の転載である。持田睦氏の「かすかに聞こえる「ノン」の響き」(『Divagation』5号、2009年夏)およびblogコメント欄での興味深い読解に刺激されたので、その当時の考えをもう一度練り直し再考するために引っ張り出した。今後、補注は増やしていくかも。小見出しは今回新たに付し、文章以外の書式はいくぶん改めた。
[2005.11.15]
●映画『アワーミュージック』(Notre Musique, 監督:ジャン=リュック・ゴダール, 2004)
非対称な要素群の配置
ゴダール新作の『アワーミュージック』を見ました。ゴダールが途中で放置していたと思われるいくつかの問題設定が再び一堂に会しているという印象があり、その点で好感を持ったのですが、だからといって何事かの進展や新たな模索がなされたというふうには見えない。
・『For Ever Mozart』ではフランスとサラエヴォの境界が大きかったのですが、今作ではサラエヴォとフランスという二つの場所はそうしたものになっておらず、むしろ煉獄と天国との境界が大きなものになっている。
・ユダヤ人と表象の相互作用
・視線の双方向性と非対称性
・『勝手にしやがれ』ラストのセバーグのショットの問い直しとも見えるショット(今作のキーはこのショットと天国篇の位置付けでしょう)
・外国語が字幕なしで頻出することや仏語が翻訳される言葉として登場すること(車内のシーンから推測できるように、オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』が意識されているのは間違いないと思われる)
・執拗な二者関係の設定とその非対称性の提示(オルガとセバーグ(あるいは死者である女性の視線)、フランス系ユダヤ人オルガとスイス人ゴダール、観衆とゴダール、通訳であるレルネルとオルガ、非対称性をめぐるレヴィナスの引用、亡命者たちが会するホテルという場所、アメリカ人&イスラエル人とインディアン&パレスチナ人、死者と死者をとらえるカメラ…etc.)
ゴダールの核心であるこれらの問題設定がこうもはっきり出ているにもかかわらず、何か手ごたえが薄いのが難点に思います。この作品を見たからといってゴダールの可能性と限界をめぐる認識を修正する必要に迫られるような驚きはない。三部構成という、これまでのゴダールの傾向からすると奇妙に思えることや天国篇が短いことや全体構成のバランスの奇妙さにおいて(3つに分ける点では『愛の讃歌』でもそうだったわけですが)、一体次の作品はどうやるのかと興味深くは思えますし、驚きもないわけではないですが、どうしても見なくてはならないほどのものかというと、そうとまでは言えないというところでしょうか[1]。
[2005.11.17追記]
非対称的な要素群から歴史や生存=余生(survie)への接続としての「天国篇」へ
ただし、焦点になるのは来世の話をどう処理するかでしょうね。作中ではオルガの自殺の動機として来世が語られるにすぎないわけですが、これを単に個人的なものとして来世を考えるのか、それとも何らかの歴史性につながるものとして考えるのかで、可能性を模索させれるのではないか。
たまたま、とあるSF小説を読んでいたところだったのですが、未来をどう語るか、未来に対して責任が担保されるようにすることで自殺を抑止することができるのではないか、という一節があり、そこで来世と前世を遺伝子レベルで導入すればいい、という冗談とも本気ともつかない考えが出ていて、奇妙に問題設定が似ているのを感じながら読んでいました。遺伝子レベルの処置がどういうものを指しているのかよくわからないのですが、次世代に向けて破滅を先送りして責任を放棄することがそれによってできなくなるだろう、というような小噺として出てきている。
もともと、『JLG/JLG』でもゴダールは死後の生と文字としてのビデオを重ねていたわけですし、今作においても、かつての死者(セバーグ)と新たな死者(オルガ)が出会う――しかし天国にさえあっても二人は互いを視認することはできない。地獄篇の声はセバーグに相当するのかオルガのものなのかは判然とせず、煉獄篇で「それは何かのイメージだ(…)二人が並んでいる」と語る声はオルガのものだが、ショットの視線はオルガを見ている眼になっている。天国篇のラストのオルガの声にしても、「オルガのいるところまでは見えない」なのであって、この声もまたオルガの声でありながら、おそらくオルガの声ではない。
ならば、この天国の位置は、死後の生=ビデオ・文字としての再生=決定的にすれ違いながら二人が死者となって出会い、同時にそれは前世と現世と来世の接続になっている場所(前世がセバーグあるいは何者かの死者であろうと見ることができても、来世が何者なのかは確定されていない) ということなのでしょう。
というわけで、あの来世云々、自殺云々というのは字面通りに受け止めるよりは、再生とか歴史として接続されることの話なのだ、と試行錯誤したほうが面白くなるのではないか、と思います。その上で、あまりそうは見えない、および、模索や進展があったのかは微妙、というところです。
[2005.11.18追記]
「視点人物」的なものの措定と語りのあり方
・古谷利裕氏が日記で書いている指摘(05/11/10(木))を読んで
> 正直言って、最初の地獄編はまったくのれなくて、本当にゴダールがモンタージュしたのかと疑うくらいの、たんなる「殺戮映像集」にしか思えず、もし「音」がなければどうなっていただろうと思い、凄く嫌な予感がはしったのだけど、
地獄篇というのは一見『映画史』と同じ手法で映像を構成しているようですが、実はやや異なった試みになっているのではないか。
『映画史』では、作業台に載せられる映像群⇔ゴダール というふうにこの間で切り返しが起きているわけですが、地獄篇では姿が映し出されることのない何者かの話者の声が対比されるのみであり、また、映像の特徴が異なっているように見えます。
色彩の調整と構図の変化、挿入される暗転、音楽の起伏によってのみ緊張を持続させているので、単調な印象は確かにあるのですが、地獄篇の半ばあたりから【撮影している側/被写体の死体】という関係を見せる映像が続きます。たとえば、兵士の戯れを撮るカメラ側への兵士の振舞いや、道沿いに積まれた死体を兵士を乗せたトラック側から撮っている映像など。つまり、地獄篇は【不在の声の話者による語り/やや単調な殺戮シーン/死体や殺戮を映している撮影サイドからの一方向的な視線の存在】 というふうに3層構成になっているのではないか。
この3層構成を束ねる声は、はたして何者なのか。映像を作ったオルガ自身の声があのDVDに挿入されていたのか、それとも、あのDVDとは関係のない映像なのか、あの語り手はオルガではない死者である何者かなのか、というふうに宙吊りにされています。
私の自信のない記憶によれば、『映画史』においてそのような関係性を組み上げていく試みはありませんでした。もちろん、この試みがどこまで模索可能なのか、どこまで成功しているのか、さらに試行錯誤できるとすればどのようなものになるのか、と問いは続くのですが。
語りと視線における非人称性、残余となる亡霊
・『勝手にしやがれ』ラストのショットについて
ベルモンドの死の後で、奇妙に表情を欠いたセバーグを真正面からアップで撮っているショットがあります。ゴダール作品のショットというのは、誰かの視点としての主観ショットだとみなせるものは少なく、映っている対象が何かの動作をおこなっているかぎり映像があり、視点が誰であるかはあまり問題ではないのですが、このショットにおいては例外的に、誰かの視点であるかのような印象を強く感じさせるものになっています。
細川晋氏、松浦寿輝氏の両氏もまた、このショットに腑に落ちない引っ掛かりを感じていたようで、かつて言及していたのですが(細川晋『ヌーヴェルヴァーグの時代』エスクァイアマガジンジャパン、1999、pp.22-23;松浦寿輝『ゴダール』筑摩書房、1997、p.119)、このショットは一体誰が見ているのか、観客と映像を媒介している関係は何なのかと戸惑わせる効果があり、いわば映像と観客の間ではしごを外されて空白として突き出されるような感触がある。
『パゾリーニ・ルネサンス』においてパゾリーニショットについて語られている箇所では、ゴダールの試みとは対比されて語られているわけですが、かつてそれを読んだときこう思ったものでした。いや、ゴダールにだってパゾリーニショットと同じ問題系を扱っているショットがあったではないか、あのセバーグのショットはそういうものだったではないか、確かにその後のゴダールにおいてはこの試みは捨てられているようだが、セバーグのショットはパゾリーニショットよりも興味深いものだったのではないか、観客としては「あのショットをさらに模索し、ありえたもう一つのゴダール」を考え、本当に現在のゴダールには接続できるのか考える方が、下手に両者を対立にしてしまうよりよほど試行錯誤のしがいがあるのではないか、と。
松浦氏の『ゴダール』のそれに続くⅤ・Ⅵ章で『JLG/JLG』『新ドイツ零年』を重点的に考察し、『新ドイツ零年』を「ここで世界を見ているのは亡霊だ」と言う(p.159)。風景にひそむ孤独を、世界そのものの孤独とみなし、ベンヤミンの「歴史の天使」を想起させる口調で亡霊の視線が漂っているのだと考察しているわけですが、私はこれを「亡霊」と名指すだけではやや片手落ちなのではないかという疑問をもっていました。
別のかたちでのショットと話者や視点(のような何か)への関係のつけ方がありえずはずで、ゴダールにはそうした模索が失われてしまったのではないか。数々のゴダール作品で【(声を発している)話者=ゴダール】と陥ってしまった陥穽をこえてそれを構想できるのではないか。
そうした意味で、今作『アワーミュージック』でずいぶん久しぶりに取り組まれた「何者かの視線」(地獄篇および煉獄篇のピンボケショット)には好感をもちました。あのピンポケショットは、いわば死者であるセバーグ、あるいはセバーグに特定されない死者である何者か、からの視線によってオルガが見つめられるというショットだったのでしょう。いわば、あのセバーグショットを一旦裏返してさらに新たな問題系を追加したものだったのだと思います。
コメント欄での応答1[2005.11.18]
>ところで、なんでジーン・セバーグなんでしょうか
オルガを見ている人・目線=セバーグ、とまで断言するのは、作品をゴダールの個人史と感傷で回収することになりそうですし、大体セバーグだったとしたらサラエヴォでオルガを見ているというのは理由がないので、「セバーグのショットを連想した」というのが正直なところでした。
ですので、パンフの青山氏の文章を読んだときには、ああ似たような着目をしているな、とは思いましたが、あの目線自体はセバーグと特定することもないんじゃないかと思います。戦地となったサラエヴォの数々の死者たちが、生死の境界にいるオルガを見ているというのが無理のない読解なのではないでしょうか。
ただしそれだと、横にいる目に見えないイメージのことを「見知らぬ女性だ」と女性に特定する理由も薄くなってしまうので、あのイメージはセバーグでもあるのかな、と。
一つ引っかかったのは、来世について語っているオルガが、他方で前世のことは一切気にもとめていないことでした。来世を信じたいのならば、気付いていないだけで自分がまた誰かの来世でもあることを考えそうなものなのですが。
そこで、もしサラエヴォでの戦争だけが戦争ではないという視線がゴダールにあったのならば、オルガ自身も知らない前世であり、オルガの生涯よりも前に死んだ死者であり、かつユダヤ人でもパレスチナ人でもない死者という存在もあるはずで、ゴダールはオルガの二重写しになっている輪郭のあやふやなイメージに、そうした姿のとらえようのない死者を重ねたかったのではないか、と。
80年代以後、『勝手にしやがれ』のラストを見返したゴダールが、早死にしたセバーグの死者としての存在をそのショットから強く喚起され、何らかのモチーフとなって残っていたというシチュエーションは想像しやすい。
とはいえ、同時にあれは名もなく輪郭もはっきりしない死者であることが重要なのだろうと思います[2]。
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現在時点での補注[2009.11.3]
[1] なぜこのように異様に厳しい口ぶりをとっているのかを説明すると、この当時私が考えていた問題は錯綜していて、今読んでも謎めいた文章になっている上に、断片的な文書からしか読み直しできないのだが、構成とショットとの関係、「ショット」への帰属への軽減とそれによる画面外との経路の作り方、再現前性と観者が翻訳せざるをえない状況にいかに追い込むか、といった問題設定のもとで、(ゴダールに限ったことではないが)ゴダールは奮闘しつつもゴダール自身の手癖や限界などもまた同時にあり、問いを継承しつつも、ゴダールの限界を指摘しつつかたちを変えて再開すべきだ、ということだった。ショット間関係としてのchamp/contre champをめぐる『アワーミュージック』でのくだりは、『映画史』以降明確になるゴダール流のモンタージュ論とゴダールの「ショット」をめぐる手つきからすれば、別段『アワーミュジック』においてわざわざ驚くことでもなく、その意味で私は「手法、モチーフの集大成的なもの」と呼びつつ一蹴することを選んでいた。
私が議論の継続ができていない理由は、つまるところ、わかりにくい問題なので十分に明確に理論的に示すための準備中だから。翻訳と経路と諸構成を問い直す議論をしなくてはならない。
たとえば、近い時期にはこのようなことを発言/記述している。本文を食い尽くすような分量になるが、断片的に並べてみる。灰色字は抜粋箇所、黒字は現在時点での要約や位置づけの類。
"「ゴダールとその作品について語ると、さながらゴダールのようにカッコがつく」んですよ。ほら、いろんなセンスのいい作家を思い出してください、彼らは「ゴダールのようなカッコよさとともにゴダールを語ってしまえている」でしょう。でも、前途を憂うならば、ゴダールをゴールにしない闘争が必要だと思うんです。(...)こうした「語りなおし」さえも巻き込んでしまって、非常に強力な規範になっているでしょう。作品・語り・語り直し・「今こそ」「快活な」…と、あの手この手で魅力的になってて、誰もが規範にしてしまったんです。しかも、一人の講演の語りでも解きほぐしきれないゴダールの織物について語っているという前提でなされているから、[慧眼ある人によってありうる一つとしてその一端を触れる/別の読みを夢想する]という二段構えになっていて、必ずしも「共有・参加」とみなさくても否定しきれない、という気持ちが成立しやすくなっていると思います。"(2004.2.7)
※ 要は、「ゴダール作品を解読」するときに生じやすい罠についての警戒。浅田を筆頭として語ることに淫しているというか、何を問うことを念頭に置いて作品読解をしているのか不明となっているものが多いことについて疑問を持っていた。蓮実・浅田以降、作品読解が「ショットの強度の美学」とでも言うものに一気に傾斜したことが、そうした傾向に拍車を掛けているように思う。また、この頃はまだダニエル・シュミットもダニエル・ユイレも死んでおらず、ロメールが引退してもいなかったが、彼らやゴダールもいつ死んでもおかしくはない、死んだ後で悲哀に満ちた文章や追悼文を書くのは実に容易だが、問いと模索の継承、展開をどうやってするのか、それは現在の惨状からはとても考えられないだろう、騒々しく追悼劇が繰り広げられるような醜態が待ち受けているに違いない、とひしひしと感じていた。病気が噂されていたデリダが他界したのはこの年の後半のことであった。
" 見たところスレイマンの『D.I.』の面白いところは、位置の相互参照性がつかめにくく、老人たちや人種の区別もつきにくく、他方、検問は仮設性が強いし、何度も出てくる検問は実は違う場所なのかもしれないとさえ思えちゃう。また、言葉の交換や移送というのが非常に意図的に導入されているでしょう。バス停の壁にかかれている「あなたに狂ってる」とかの落書きは、誰のものともわからない事態が生じたり、次々、カードとなって病院の壁に貼ってあったり、主人公は気軽にそれを入れ替えたりしちゃう。(...)基本的にある時期以降のゴダールは、どのくらい前のシーンと時間が隔たっているのか・どこなのか、というのがわかんないしね。表示されてても気付かなかったりもするし。名指し・仮設性/無名orどこかわからない場所]での、これまただれなんだかよく分からない人物群による喜劇なのか悲劇なのか判然としないまま滑走する、というやり口はゴダールにもスレイマンにも共通しているのかな。ゴダールのように、モノローグを使わない、だからと言って、ストローブの視線のあり方とも違う、というところでスレイマンは面白い位置にいると思うんですけどね。細かいショットの関係が、不必要に錯綜していて位置がつかみづらい、という側面はスレイマンの方が強いと思いますけどね。ゴダールのは、一つのシーンではショットとショットの位置関係はある程度つかめると思う。(...)ただ、「移動や亡命、時間や記憶の問いを~」と言うだけならたやすい口ぶりなんですよ。どうやって話法を読み直しておくか、ということになるんでしょうね。"(同日)
※ まず、ゴダールのある時期以降の過密な進行の結果、ショット個々が場所や人物の特定性を不分明にしながら疾走することになった。そのとき、そうした特性に陥ったショットのままに、いわゆるゴダールのショットの強度=速度を剥奪させながら、ゴダールはやらないであろう再構築をした場合、どうなるのか。そのような視点で、エリア・スレイマンは明白なゴダールの継承的な作家であるとまず当時みなしている(『パレスチナ・ナウ』で四方田の語る『暗殺へのオマージュ』の特徴を見るかぎり、これは的確な判断だったようだ)。スレイマンの場合、イスラエル/パレスチナという境界の向こう(A)/手前(B)の往復と通過というプロセスが物語を牽引し、このあり方はゴダールの映画の大半で見られる場所A→場所Bというプロットからの変形だろう。『D.I.』に顕著なのは、A/Bの見た目上の識別困難性や、配置される場所の相互関係性・参照性がつかみにくくなっていることだ。また、視点人物の一種の空洞にしてしまう手際が目立ち、これは明らかにモノローグの回避から生じている。そうしたショットと全体的な構図の連関はどのようにありうるか、構図に収束するとは一体何か、そのとき人物はどのように作動させる=戯れさせることが可能になるか、こうしたことを考えていた。
"不在とか画面の外との交渉関係という問題で言うと、(...)「無はゼロじゃなくて、むしろ打ち消しあう緊張状態であって、そうしたかたちで存在と関係をもっている」と(....)。問題は、「画面の外を」作り出すにいたる、画面・音響に現われる諸事物・諸動作や諸音声と、それが画面の外へと糸が放たれて成立するネットワークのプロセスを、どのようにつかみとるか、になるんでしょう。"(2004.2.24)
※ これはたしか、岡崎乾二郎の絵画作品におけるフレームが喪失する感覚や、ゲルハルト・リヒターのアトラス前後期の9枚組写真作品などのようなそれ自体一つのショットとしての輪郭が微振動を続けたまま安定していない作品を念頭に置いて、画面を「画面」として指示できないものにするために、まず画面外という余白で絶えざる作動を続ける差延のようなものを置き、そしてそこから画面をどう位置づけしなおすか、というような話。
"キャメラの問題は、「いかにして見ることを許させるような関係をキャメラと作るか」という問題でもあって、ドキュメンタリーなどでは露骨に撮っていいのか撮ってはいけないのかという選択にもなるわけですが(村落の儀礼とか、人類学で問題になるものでは特に)、それだけではなくロッセリーニのキャメラというのは、「なぜだかポコンと人がいる、それは起こってしまった」というかたちで人が出てくるでしょう、でも、難しいのはそういうショットだけを置いてそれが成り立つのかと言うとどうもそうじゃないんじゃないか、ある種のプロセスの蓄積や組織があって、そういう現われ方をするんじゃないか、とも考えられる。(...)ゴダールでは初期から、『勝手にしやがれ』の時点で、ベルモンドが死ぬときにセバーグがアップで出てくるでしょう。あのショットは「誰が見ているのか・誰を見ているのか」と当惑させるような、立ち止まってしまうようなところがある。あれは、媒介だったものとか、媒介を介してみていたこちら側とかが、ドンと背中を叩かれてしまうようなところがあるんですよね。まぁ、裏にはベルイマンからの系譜もあるのでしょうが…。(...)ゴダールは多分、①ロッセリーニの拡大ともはや媒介さえ見えにくくなる方向、②セバーグのシーンの立ち止まり、③モンタージュと歴史と引用、という方向に展開し、こうしたものが絡み合ってて、それが[見る人が]ゴダールに対峙するときにどこから踏み込めばいいかわかりにくくなっているんじゃないかな。(...)一方で、「誰が媒介しているのか・誰の目か・誰が見ることを許しているのか」という問いをうまく外したかたちで、まず被写体から、という順にしているのがストローブ&ユイレになると思うわけです。つまり、関係の作り方において、順序や許しや契約みたいなものを成立させる過程やその関係がちがっているんだろう。"(2004.3.2)
"「ある光景をみて、「あ、これは映画になりうる」とみなすような目」とは、いわばすべてがショットである、映画とはショットであると受容した結果だとも言える。ただ、私はそのショットにおける時間関係をひたすら組み込みたいんです。一つのショットが一つになりようがないようなかたちで提示することによって、ゴダールの編集の手つきの提示化とは違うかたちで、ショットへの自己言及性を与えれるんじゃないかと思うんですが…。その意味で、交錯してはいるが運動としてはかぎりなく凝固に近い印象を与えるショットの時間としてストローブ作品があるんだと思う。(...)ただ、その場合、ストローブにも限界があるわけですけどね。あの時間進行でなくともよい。止まっていてもいいくらいですから(まあ『セザンヌ』とかだと、映像としては作品の写真があって、言葉が進行するだけだったりしますが……しかし、その「言葉の進行スピード」に頼ってショットが成立している気がする。)(...)あとは速度の問題として音楽が出ているんで、これをより掘り下げるとか。あと、映画における音楽という話には不思議になってないですよね、これ…。あれも不思議なものだというか、私はよくわかんないものなんだけど…。"(2004.10.17)
"ショットとショットの間、ぐらいの集積であれば、話法を成型するまでの自重が生じないのではないか、と思いつつあるんですよ。つまり、ゴダールにおいて話法への問題設定や模索が無いというのは、この意味ではわかりやすい。ゴダールはショットとショットの間のスパンでしか、構成がとれなくなっているのではないか、ということです。スレイマンは、ショットとショットの間の関係を反復させることで話法を形成しましたが、反復のためにはスパンのある作品としての自重が役に立った、と。つまりですね、話法といっても、ショットとショットの間との関連は無いわけではないのですが、ショットとショットの間に視線が行き過ぎると、話法として立ち上がってくる密度の勾配みたいなものまでいたらないうちに模索してしまって、結構危ういのではないか、と思うんですね。(...)
最近、「あれ」と「これ」と視認可能な距離(作品と見るものとの距離 と ショットとショットの間の距離 の二つの意味での距離)だけで問うていると、引っかかる落とし穴もあるのではないか、と疑問に感じているんですよ。前者においては、この「ショット」やこの「マチエル」に目が行き過ぎてしまうのであり、後者においては時間軸に沿った「このショットとあのショット」「このマチエルとあのマチエル」に向かいすぎてしまう。人は、それを見る人の観察力に沿うがゆえに必然だと感じているのですが、私はこれに大きな疑問を感じているのです。(...)
スレイマンとゴダールにおいて、どちらもショットとショットの間があることを振り返って言うと、「ショットとショットの間」においても、話法へと接続するものとそうでないものがあるということです。 そしてその際、おそらく、「「ショットとショットの間」の集積」への連動があるかないか、が鍵になるのではないでしょうか。しかし、そうした多量(無原則に多量であるのではなく適切な量というものがありうるはずですが)/ショットとショットの間、という連動のあり方が、「ショットとショットの間」を集めていけば成立する、といった段階的な処理だけではないのではないか、と思いつつあるわけです。とはいえ、一挙に多量な集積があって、それに触知できるというわけではない。構成要素は、「ショットとショットの間」だけではなく、これまで扱われにくかったような単位も絡んでくるような気がするんです。
(...)つまり、すでにして、ある特定のフレームともう一つの特定のフレームとの交渉関係だけではない、と(...)。と、なると、一度「ショットとショットの間」の集積が密度勾配をなした上で、ふたたび「ショットとショットの間」がその上に乗ってくるといった意味での、話だったわけですね。
(...)「ショットとショットの間」と言ったときにですね、やっぱり私はゴダールの手つきを思い出していたわけですね。ランボーとヴィシーを並べるとき、どっちもプレザンスみたいになっているのだし、非対称な二者が映し出されたとしても、どちらもがプレザンスであるようなところがあるわけですよ。つまり、再演の折込みが実に乏しかった。しかし、1「ショットとショットの間」と、2「「ショットとショットの間」の集積」とを一旦分けて、3「「「ショットとショットの間」の集積」における「ショットとショットの間」」を問わないと、どうにもこうにもやりにくいという感触はあるんですよね。最終的には1と3は絡まりあっているわけですが(4)、いきなり4を語ることは難しく、誤解が多く、また、軽率な混同を生じやすいように思ったのです。"(2005.12.18)
[2] 『21世紀の起源』でセバーグのショットをもって戦争による死者たちをまとめて表象したかのような試みを見るかぎり、ここで推測されたゴダールのこだわり方はおおよそ的を射ていたようだ。
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2009年11月3日火曜日
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