目次 2009.11.9-11.17
[断片1の続き]
・天国とretour、survie、証言について
・朗読の上演性と翻訳・多言語状況、顔-媒介、不可能性の可能性、亡霊ショット再読
・ゴダールが講義で語るテキスト/イメージと、ヴィジョンについてのテキストの位置、夜の主題
天国とretour、survie、証言について
2009年11月09日
(...)私はSans espoir de retourについて作中で出てきたのを完全に忘れてたんだけど、要はnon retourable pointってことかと。「決定的移行」の言い換えと理解できる範囲の語彙かと思った。移行ののち、survie(生存/余生)が無いかと言うと、そういうわけでもなく、むしろ移行ゆえにsurvieが可能になるのでは、と思ってたので。というわけで、retourの語は、survieの運動としての retourでありそれが不可能になる、という意味ではなく、survieを可能にするretourの「以後」に置かれていますよ、ってことかと。fatalなmomentによってsurvieが可能になるということでしょう。
>あれは「犠牲」を実行した人間が行く処です。もし「犠牲」ではなく「テロ」だったならばそこは「地獄」だったのです。
なるほど。その差が大きいという読解がありえるわけか。ほとんど偶然みたいな死に方なのに、同時に犠牲でもある(平和運動でもあるんだし)というのがキーになるんですね。
ただ、なんでアメリカ海兵隊がいるのか、そこが結局すっきりしないんですよ。あれは何なんだろう。ここが腑に落ちなくて、視線とオルガの関係に焦点を絞ってたんですよね。(...)で、あの海兵隊の要素がよくわからなかったんで、天国の位置づけの多義性を高めるため、または多義的な喚起性をさらに強化するための工夫として盛り込んだ、ということだったのかな、と思ったわけです。移行の後にあっても軍事的な力関係の不均衡もまた残る、ということなのか、海兵隊もまた天国の住人であって、ある意味で対等にそこにあるのだ、ということなのか。単に出てくるだけ、という扱いに見えたので、それ以上読解を進ませる契機を見つけ出せなかったのです。
>オルガの顔とドライヤー『裁かるゝジャンヌ』の一シーンのジャンヌの顔とは、コマレベルで厳密に対応するように重ねられている
なるほど。というか、上記のようにsurvieの論旨を整えてやっと受難・殉教の扱い方が腑に落ちた。suriveを可能にするmomentを、受難・殉教でもって作っているわけだ。デリダのブランショ論みたいな話だな。無理矢理世俗的に翻訳すると、passionの経験やpassivilityがもたらす時間-空間がmomentとなり、fatalな出来事が生じ、以後はsurvieが作動し始める、といったような。でもこう抽出すると、平和運動とかパレスチナとかもろもろの内容面が薄まりすぎるかな。
2009年11月09日 加筆修正
久しぶりに『私たちの音楽』を見ています。通しで見たのは、今までに3度もないのですが。――というのも、私はゴダールの作品構成では、積極的な意味でphrasesというかエクリチュールとなっている、すなわち断片やその負荷から問うことができるものになっているし、ゴダールが成し遂げた成果の一面はそれだと思っているからでもあるのですが。と同時にこの見方は、作品の全体構成としての線の収束と展開を時には見捨てる、読解放棄することにもつながちかねないリスクがある――というわけで今回も途中から唐突に見始めるのですが、1:01:36-あたりの〔PAL方式DVDではない海外盤では1:04:20-あたり〕キュルニエ/マイヤール/ゴダールの会話がちょっと面白い。
インタヴューでもダルウィーシュの発言はかつて別のインタヴューで言われたことの再演だと言われているように、おそらくゴダールはその筆者たちを起用させるに至った関心の出所だったテキストなり思考なりをピックアップし、それを再上演するというかたちで喋らせているのでしょう。その意味では、オルガやジュディットといったfictionalな登場人物では「一体何を彼女らは考えていたのか」という問いかけが可能であるのとはまた別に、彼ら著者は「なぜ・どのように再上演(演奏、翻訳)されたのか」という問いがありえている。
そこでこの三者シーンですが、証言者の話になった後では"絡みがない"。ルフォールのくだりと証言者のくだりである程度は別箇の話題に移行しちゃってますね。ゴダールの発言はないので実質二者シーンと言っていいのですが、その後のマイヤール/キュルニエが順々に喋ってる箇所では、応答として台詞が続いていない。二人ともがそれぞれ、一繋ぎの文章を再上演的に交代で話しているだけのようになっている(ここはちょっと『ウイークエンド』終わりごろの黒人労働者と白人労働者の分断的な併行語りを思わせる)。邦訳は英訳srtと対比する限り、どうも訳し下しすぎている。仏語採録欲しいなあ。
で、言われていることは、
・マイヤール「私が信じるのは、死を前にした証言者だ」
英訳srt:I only believe stories whose witnesses would have their throats cut.
重訳:「自らの首をかき切るであろうことを証言/目撃[witnesses]する物語/歴史だけを、私は信じる」。 histoire d'on temoigne...とか言ってる。
・キュルニエ「よほど皮肉な人でなければ、その意図と関係なく、怒りを表さない被害者は耐え難いものだ」
英訳srt:Without getting so cynical. It's virtually intolerable...to hear victims without anger or disgust be reduced to this. Due to, or despite, oneself.
重訳:「シニカルにならずとも、犠牲者(被害者)が犠牲を怒りや不満へと還元することなく話すのを聞くのは、潜在的には耐えがたい。〔その犠牲が〕犠牲者自身に基くにせよそうではないにせよ」
・キュルニエ「目の前にあるのは不可能な意志を受け継ぐ、思考なき物語のようだ。かつてないほどの空虚さだ」
英訳srt:What lies ahead of us now... is like a story without thought... as if bequeathed by an impossible will. More than ever, we're faced with the void.
重訳:「私たちの前に今あるのは、思考のない物語/歴史に似たものだ。まるで不可能な意志によって遺贈される/後世に残される[bequeathed]物語/歴史。今までになく私たちは〔思考のない物語/歴史という〕空隙・間隙[void]に直面している」
ということです。
これはまさに犠牲と証言と、それについての不可能性をめぐる語りの話で、作品におけるオルガのモチーフへの言及になってるんじゃないかな。ここまで明確に作中言及するのも珍しい。ほとんど「解題」に近いし、レヴィナスの引用箇所を継いでいる線でも読める。テクストの上演劇の最後尾にこれが置かれているという点でも、オルガが自殺の話をした後に配されているという意味でも、大きな重要性があると思う。
この3つで言われているのは、自殺についての証言の物語は特異性を持ち、その特異性は聞く人を限界に追いやるし、その怒りや不満に回収することなく話されたときにとりわけ開示され、それは語りや思考にとっての引き金にも決定的移行点にもなる不可能性-空隙として遺される、ということでしょう。survieについてほとんどもろに語ってる。
> そういえばオルガはゴダールの講義を受けている時もまぶたを閉じていました。あの時は、恐らく「天国」に思いを凝らしていたのでしょう。
今回はじめて気づきましたが、よく見てみると、「王国3 天国」が出る直前のファウンド・フッテージ[日本盤DVDの1:08:36-45]、目蓋を開いたかたちで映像が切り抜かれて戦死者を見つめているショットがありますね。あそこは地獄篇と煉獄篇/天国篇をつなぐ場所になってるんでしょうね。
>海兵隊ですが、まずエデンの守護天使ケルビムであるということ。
それは鮮烈な読解ですね。エデンだっていうのは何となく連想してはいたんですが…(『21世紀の起源』でも出てきているしこの作品でも重要なんですが、あれはセリーヌ的な俗語表記仏語を朗読するギヨタが把握できないのでちょっと放り投げている)。見返してみると、黒人海兵隊が出てくるのは3つの場所ですよね。川辺(での釣り)と、海辺あるいは湖畔(での防衛)と、同じく湖畔/海辺(でラジオのそばで子供と佇む検問役)。川はエデンにとっての外との境界ではなく、湖畔/海辺が境界になるんでしょう。そして検問を超えて通過した途端に「弟が生まれた」の声があがり、その後のシーンで黒人海兵隊は出てこなくなる。Sans espoir de retourが強調されるのも、リンゴを食べあうのも、この通過の後にある。
蛇足的にいうと、アイロニーと言ったのは、皮肉という意味ではなく、多義性のことです。ソクラテス/シュレーゲルあたりで形成された意味におけるアイロニーであって、意味A/意味Bの同居がそこから生じる。ズレを可能にする振動体として、一つのユニットとして機能するのではと。
私は天使について必要なはずの基本的知見がごっそり欠けていたりしているんですが(いつかしっかりやらんとと思いながら先延ばしにしてきている)、ミシェル・セールの『天使の伝説La légende des anges』をたまにざっと読むわけです。この本は対話体で進行する物語みたいなつくりになってるんですが、セールにあってはケルビムは「インターチェンジとしてのケルビム(...)ケルビムは水陸両棲なので、自分のなかのふたつの世界を接続している」(邦訳p.135)、「彼はその中に〔二つの世界のあいだ〕にさまざまの媒介物を統合している」(p.137)とされる。これはこれで整合的につながるような話ですね。おそらく防衛しているだけではなく、天国の外と内をつなぐ者なのでしょう。
『神曲』はいまだ読み通してないのですが、聞くところによると、『神曲』では煉獄山の山頂にエデンがあるそうですね。天国に一番近くはあるのでしょうが、天国そのものではない。エデンは地上にあるものとされているわけですが、検問の手前(の海兵隊)と向こう(回帰不能点以後[apre non-retourable point])というのは、この場合どうなっているのだろう。エデンの東にケルビムと炎の剣を神は置いたわけで、(エデンの)境界の外にあって防衛しているという意味であの海兵隊がケルビウだというのは筋が通りますね。
ただし、あの海兵隊がケルビムだとして、「なぜケルビムがアメリカ海兵隊なのか」。これは依然として多義的な作用のなかにあり続けているのではないでしょうか。
2009年11月11日 加筆修正
>例えばイスラエルの和平はアメリカの武力なくしては(いま)ありえない。アメリカが正義などではまったくないにもかかわらず、です。同時に、アメリカの世界戦略の最前線で戦っているのは誰なのか。そこで死んでいる兵士は何のために誰のために死んでいるのか。そこには若い黒人兵がいる。
なるほどなあ。つまり、アメリカ軍事戦略・政治の尖兵ってだけじゃなくて、アメリカの軍事力・政治力そのものに宿るアンビヴァレンスとしても読めるのだと。登場、防衛、検閲ぐらいの要素しかない海兵隊の身振りなので、読み込むのが難しいのですが、少ない描写のなかにあっても海兵服・黒人というふうにアメリカ軍そのものに多義性を充填させたりして、切り出そうとしたんでしょうね。説得的な読解だと思います。
>ギヨタと言えばまさに『エデン エデン エデン』ではありませんか。
いやあ、まだ読んでないんですよ。いろいろあって入手しないままに放置してて。『ヒア&ゼア』状態ですね。
持田さんへ
レウコ読解はおろかパヴェーゼ読解がろくに進んでないので、それではさすがに申し訳がない、せめて「月とかがり火」ぐらいは読んで応えよう…と思ったはいいけど、集英社版選集が見つからない。仕方ないので、持田さんの前述の引用箇所と持田さんの主旨からだけで話します。
ちょうどこのコメント欄でのnosさんと持田さんのやりとりが始まったときの不死者と死すべき運命をめぐる線が回帰し、唐突に始まったはずのForEver Mozartについてのやり取りだったはずがつながってきました。
>オルガの悲観的(=ロシア的?)あり方(...)
>パヴェーゼの『レウコとの対話』における「不死の生」の概念、「死にたくても死ねず、生きたくても生きられない」(...)
>カリュプソー: (...)ここだったら、なんにも起こらないのよ。(...)ここだったら、あなたはいつまでも生きていられるのよ。
>オデュッセウス: 不死なるものの暮らしか。
これは死の契機を失って、本来的な死への切迫性がなくなって停滞し、かつ、「閉じ込められている」みたいな意味合いが出てきているってことかな。境界の外にいるのが海兵隊なので、逆手に取れば、見ようによっては海兵隊によって封鎖されたゲットーにも読めちゃうんですよね。
パヴェーゼにおけるミュトスにかかわる対話、死の問題、oui/nonと出来事、という問題が絡み合いながら再浮上してきた感があるので、唐突に提起しますが、思うに、この問題に足を突っ込み始めると、ブランショのattendre(『期待 忘却』)と、ハイデガーの言う本来的な死に対する現存在の「己自身への切迫」[steht sich bevor]を翻訳するかたちでデリダが取り上げて論じたs'attendre(『アポリア』)のそれぞれの議論系をまずまとめ、かつ、『ForEver Mozart』がそれとは違うものとしてどういった可能性として読めるのか、はたしてそこまでいけてるのかどうか、というのを議論しなくちゃいけなくなる。しかも、ブランショにおけるヘーゲルとハイデガーの扱いと、デリダにおけるそれを吟味しなおし、かつ…、という矢鱈しんどい作業になります。さらにはそれらと、ミュトス、神話的なるものと、それについての作品とは何か、というパヴェーゼからヘルダーリン、『私たちの音楽』まで含む巨大な問題が出てきちゃうはずなんですが(キュルニエのいう思考なき歴史-物語というのは、要はロゴスを超えるミュトス、という昔ながらの議論の変奏でしょう)、私はヘルダーリンとハイデガーのヘルダーリン読解、パヴェーゼに、ほとんど触れてない段階なので、まだやれてない。ですが、一応言わないよりは言うべきことなのかな、と思い、拙速ながら書き込んでおきます。
ヘルダーリンからパヴェーゼへと、ミュトスをめぐる主題系として継承的に移行したと思われる持田さんは、おそらくこのへんの、やり出せば相当厄介な問題系に気づきつつも、半ば暗示的にウィとノンの相補性というところで一旦は議論を終え、「字幕の不備とそれに基づく読解(浅田)の不備の指摘」というかたちで文章を締めたのではないか、と思っていました。
朗読の上演性と翻訳・多言語状況、顔-媒介、不可能性の可能性、亡霊ショット再読
2009年11月11日 加筆修正
おそらくはあの作品で出てくる著者たちの発言には、露骨に彼ら自身の著書や発言などという出典があるにもかかわらず、採録および(とりあえず国内の)『私たちの音楽』読解において誰もこの点を明確にできていないんですよね。朗読・再上演という意味では、ストローブ&ユイレ的なやり方をゴダールなりに取り込んでるんじゃないの? って読み方も可能だと思うんですよ。インタヴュー中のウィットの発言で「え、そうなの?」と驚いたものでした。
特に、内容が内容だけにキュルニエとマイヤールの文章は出典を特定したいところなんですが、よくわからない。キュルニエはタイトルからして、著書ならば、La culture, suicidée par ses spectres, Editions (Sens & Tonka, 1998)かMontrer l’invisible. Écrits sur l’image, (éd. Jacqueline Chambon, janvier 2009)、雑誌寄稿であれば、"Il faut cesser d'être contemporain", revue Lignes, no.36, Editions Hazan, janvier 1999. "Le noir du vivant, la cruauté, encore", revue Lignes, no.03, Editions Leo Scheer, octobre 2000. "Oui", revue Lignes, no.04, fevrier 2001.あたりかとも思ったのですが。時期からして著書ならば前者の可能性が高い。cf. Jean-Paul Curnier - Wikipédia
国内公開時冊子の二つ目のフロドンによるインタヴューでは「例えば、ジャン=ポール・キュルニエは、彼が雑誌「Lignesリーニュ」に寄稿したテキストに興味を持ち、出演してもらいました」とあり、Lignes寄稿記事が出典である可能性が高い。ゴイティソーロの『包囲状態』、ダルウィーシュ『メタファーとしてのパレスチナ』を使ってるのだとほのめかしていますしね。『包囲状態』とは包囲下サラエヴォの経験をもとにした小説『包囲の包囲』(El sitio de los sitios, Alfaguara, 1995, 未邦訳)の仏訳書だと思います。
採録が出たとしても、Phrasesシリーズは句読点を剥ぎ取って改行しまくった、まさしくPhrases(楽句群・詩句群)といった類なので、文章の区切りの確定という意味ではそれぞれの著書に当たるしかないのでしょう。
>特定の人種かつフランス語を口にするものたちだと言う点です。『ストリート・オブ・ノー・リターン』のフランス語版を読んでいる男ははっきり「ボン・ジュール」とオルガに挨拶しています
ああ、そこは確かに重要だと思う。煉獄最初の空港あたりとか、ダルウィーシュインタヴューとか、完全に多言語空間と並行的関係、翻訳という問題があったはずなのに、対比されるようにしてそれらが消えてしまっている。ペシミスティックでシニカルな線として一度きっちり読み込む必要もあるでしょうね。
>自分たちのせい、とか、やむをえず、なんて言葉で片付けられているのを(...)
ああ、そっちのほうが的確な理解かもしれないですね。due to oneselfというのは、「犠牲者自身の自己責任」って意味か。
>自分たちの惨めな状況を声にするために列をなすものたちと、公開陳列された犠牲者を目にするものたちとにね。
これは、要するに証言者の語りが、第三者にとって利用されちゃうってことですよね。「不可能な意志によって遺贈される/後世に残される[bequeathed]物語/歴史」というのは、いわばそれを真摯に見つめるときの局面であり、という方だと思い、つまり、証言というのはかなり翻訳者・読解者側にとって左右されてしまう危うげなものだってことだろうと思い、とりあえずこっちの線を重視したわけですが。(...)
まあ、ヘーゲル/ハイデガー~ブランショ/デリダ/ラクーラバルトにのみこだわるべき、というわけではないのですが、概念的な背景を最大限に出すと、どうしてもこのようなプレッシャーが出てくると思うんですよ。「思考なき物語」としての歴史・語り、ロゴスなき思考としての神話、これは結構面倒な問題で、たとえばカッシーラーにあっては神話とは結合と分離である、しかし悟性による結合ではない、とか言う。新カント派的な発想だとこうなるし、バフチンにせよ神話を題材に始めたロシア・フォルマリズムにせよ、新カント派とのつながりが結構色濃い(まああの時代はどこを向いても新カント派がいるんですが)。ラクーラバルトなら神話はタイポグラフィック(類型記述的)な機能があり、存在-類型論によって裏打ちされている、といった議論を展開する(『ハイデガー 詩と政治』)。政治と神話という問題圏は、かなり厄介で、その神話の全体性とは何か、とかやりだすと、先に提起した歴史の問いやヨーロッパの全体性といった問題はまたしても密接な問題となって浮上する。多言語、他民族、という主題が出ている以上は、どうしてもこの種の込み入った難問になるんじゃないかな、と思いまして。
2009年11月12日
あまりに素朴な疑問ゆえか、誰も言ってないのですが、「なぜ、カトリックと無縁ではない『神曲』なのか」「その上なぜエデンなのか」という問題もありますよね。ユダヤ教やカトリックならばまだエデンでも話は通りますが――といっても、ユダヤ教でのエデンは神曲のそれはとは別物らしいですが――インディアン、パレスチナ人(つまりアラブ)、ムスリムなどともつながるはずのゴイティソーロを持ち出しておきながら、エデンでまとめあげる、あるいはエデンにはもはやインディアンもムスリムもいやしない、っていう。この点にこだわると、シニカルな位置づけなのかなあ、とどうしても思えてしまいますね。誰もが「まあゴダールだし、そのへんはかなり適当なんだろう」と済ませがちですが、よく考えたら無茶苦茶ですよねw (...)
2009年11月12日 加筆修正
(...)
a. 顔-死体の媒介性
持田さんが取り上げなおしたペクー/ジュディットの前の箇所に、レヴィナスのEntre nousをジュディットが取り出すとき、ペクーが(おそらくテキストを)話していますね。ここ、よく仏語を聞いてみて、英訳srtとも対照しましたが、邦訳字幕・邦訳採録(これは同一文章です)が間違ってます、あるいは訳し下しすぎです。
「苦しみと罪悪感とを結びつける」云々の後、ペクーはこう言う。「二つの岸と一つの真実。それが橋だ」(採録邦訳)。
仏語では、"Deux visages et une verite. Le pont."
英訳srtでは"Two faces and one truth.: the bridge."
岸じゃなくて顔ですね。だからこそ、レヴィナスがつなげられている。ペクー起用の動機は、レヴィナスへの接続のためでしょう。
で、その後で
>「For me, he's the one I'm responsible for. Here, a Muslim and a Croatian.」[英訳srt]
と、ムスリムとクロアチアの間の非対称的な関係(が「私」/「他者」間の非対称性と同じであるとして)提起されるわけで、つまりここで言っているのは、ムスリムの顔、クロアチアの顔、そして真理、という話です。
そのため、ジュディットは「どうやって石たちに顔を向けることができるのか?」[英訳"how can we make a face with stones?"]と問うわけで、採録の「石は何を表すのか?」はもはや誤訳でしょう。この英訳を読むかぎり、石は橋として紐帯になる、というよりは、むしろ鏡のような媒介性をなしていて、二つの顔のそれぞれが、石に顔を向け、そこに「一つの真理・真実」があるという話をしているわけですから。
”responsible for”を責任と訳すのも、このときやはり微妙です。「”私”にとって、”彼”は私が応答可能性=責任を負う者です」でいいと思う。鏡=石を介した応答可能性の責務を負うわけです。
そのあとのペクーの言葉で、こうある。”Each stone was identified on a card... on which each detail was noted. Its position in the water, its position in the structure... and a description of each face...”[英訳srt]。
「それぞれの石は、カードに同定=身分照合され[identified]、詳細を書きこまれた。水中での位置、構造上の位置、それぞれの顔の記述といった詳細を。」
これ、たぶん、アウシュヴィッツなど収容所の名簿と同じですよ。顔や特徴をまとめあげ、それをカルテにし、ダビデの星をつけるようにカードを作ったわけでしょう。ナンバリングされた石たちはほとんど死体じゃないですか。オルガではなく、大使にドイツ軍から逃げるユダヤ人の話を蒸し返すジュディットがこのシーンを担当しているのは、必然的なつながりがあるんじゃないかな。
で、そんな石が、橋の修復に使われるわけで、「過去の修復」という言葉にはかなりの負荷がこめられている。クロアチア/ムスリムをドイツ/ユダヤの延長線上に見ているわけで、だから「(被害者側の)苦しみと(加害者側の)罪を結びつける」となるわけです。結びつけるのは死体であり、死者たちの遺された記憶でしょうね。したがって、「どうやって(そんな痛ましい)石たちに顔を向けることができるのか?」なわけです。答えはないわけですが、応答可能性という/の責任を「私」となって負うしかない、ということでしょう。
さて、その石の説明の後に、ペクーはシュメール人は過去はavant、未来はapresと呼んでいたと言うわけですが(英訳ではそれぞれafter、before)、nosさんはこれを「後」「前」と訳しては逆だ、「前」「後」で訳さなくてはいけない、と言っていたわけですね。私はその見解に不満はないのですが、visage[face]の話がある以上、ここでは「眼前」「背後」がより適訳なのではないか、と思います。つまり、front/backの方に近いと思うんですね。過去(石=死体・記憶)が、眼前にあって、顔向けする対象になっている、という話なので。こうして読むとき、教室の後の川面からインディアンが出てくるまでの一続きのシークエンスは、しっかりと一つの主題で構築されているわけです。おそらくは過去のインディアンが、ふと「眼前」にいる、という。
こうしてみると、オルガとジュディットというのは、別の動的作用や別の経路をもつ観測機となって同じものをとらえている、みたいな関係なのかもしれませんね。犠牲と天国にまでいたるオルガがどうしても主線に見えちゃうから、ジュディットの影が薄くなっちゃいますけども。
b. 不可能性の可能性
>「We can consider death in two ways / the impossible of the possible / or the possible of the impossible」
ここですが、邦訳採録では出典を明らかにできていない箇所でして、『時間と他者』第3章のなかの「苦しみと死」の注3の文章を変形したのではないか、というふうに補注がつけられているだけです。
「ハイデッガーにおける死は、ジャン・ヴァール氏の言うように「可能性の不可能性」であるのではなく、「不可能性の可能性」なのである。一見したところ些末な区別であるように見えるが、この区別は根本的な重要性をもつものである」(原田訳、p.105)
※ちなみに合田正人訳が『レヴィナス・コレクション』にも入ってますが、いまざっと確認したかぎりでは、なぜか注が訳されていないし、原田よりも訳し下しすぎているので、大筋において原田版の方がいいと思います。
で、この可能性の不可能性、というのは、生という可能性―尽きる、死ぬ、という不可能性、という話で、要はコメント欄の最初にnosさんが言った本来的-固有なる死という契機を、契機として見ない発想ということなんですよ。レヴィナスはそれに対置して、不可能性の可能性、つまり、死による契機にはじまる可能性、を言うわけですね。この論脈はレヴィナス/デリダにあっては非常に重要で、「翻訳不可能性ゆえの翻訳可能性」というような「不可能性ゆえの可能性」みたいな議論となって継承されていくわけです。行為遂行性にとっての契機でもあるわけですね。
で、それはそれとして、ゴダールがここでやっているのは、文章からして、むしろ単なる併置ではなかろうか、というのは、説得的な読解ではあるんですが、それって果たして面白くなる読解なのかという疑問が…。
まあ、訳としてはまずいですね。「私たちは二通りで死を考える。可能性の不可能性として、あるいは、不可能性の可能性として」ぐらいでいい。レヴィナスの線に沿うにしても「死とはありうることが起こらないのではなく、むしろありえないことが起こることなのだ」じゃあ誤訳でしょう。レヴィナスの線で訳し下すなら、「死を生という可能性の終わりであり不可能性とする考えと、逆説的にではあるが、不可能性としての死の切迫による可能性の始まりとする考え」とかになるんじゃないかな。
さて、ここでまた一つ付け加えると…どうやらautreの負荷がかかってますね。英訳でorにあたる箇所が、", d'autre, "って区切りになってる。まあ普通に訳すと、「もう一つは」なわけですが、その直後に"Or, Je "est" un "autre"."なわけで、これはestへのランボー的負荷、かつ、autreへの負荷から、「不可能性の可能性として考える方だ」という二重の言い回しじゃないですかね。訳し下せば、「さて、私は一個の非人称的な他者であり、不可能性の可能性として死を考える側である」でしょう。
こうして考えると、ランボーを持ち出したのは、「不可能性の可能性として死を考える者」「非人称的(あるいは三人称的)他者」「"私"はそれである」が絡まっていて、この地獄篇の映像を見つめている・編んでいる話者である、ということでしょう。話者の立場規定をここでしている。ほとんど発話人称化された亡霊です。
c.
>『アワーミュージック』の思想的背景というのは僕はすべてはとても読めてはいませんが、ある線はなんとか感得しているつもりです。それはレヴィナスーハイデッガーです。
それはおおむねそうだと思うし、あと感じられるのは「昔は結構バタイユだったんじゃないか?」ぐらいの直感かな。『呪われた部分』とか意外に読んでるんじゃないかな、と。戦争と供犠(sacrifice)の議論とか結構あるんですよ。バタイユからヘーゲル、バタイユからハイデガー/レヴィナスに移ったのではないか……というのが私が抱いてる妄想です。
ただ、マッケイブがいろいろな人の発言を引いて、ゴランやゴダールの家族などの証言、初期作品の引用分析の結果から考える限り、ゴダールは必ずしもまともに読み込んでない、冒頭と終わりごろだけを読んで引用しているケースが多く、下手な推測ができない、と言ってるような危うさがあり、また、ゴダールの批評文も出典などを明確にするものではないですからね。つまるところ、読み手自身が決定し、それに基づいて問えばいいんじゃないか。そう割り切るしかないと思うんですよ。その上で、バタイユ/ヘーゲル/ハイデガー/レヴィナスは、変な読み方ではあるにせよ、ある程度以上は読んでいるだろう……と思います。1994年に、歴史とモンタージュについて語ったときに言った「私はかなりのヘーゲリアンです」(全評論・全発言III, p.464)、これは冗談じゃないと思う。
d. レヴィナスへの接合やイスラエル/パレスチナを担当していたジュディットからオルガへ 亡霊ショットの再読
(...)ところで、前にnosさんが
>ダーウィッシュへのインタビューでは彼女選任のカメラマンはピンポンとしての「切り返しショット」を撮ろうとするばかりです。モスタルではインディアンたちを撮ることができない。彼女はレヴィナスを読む。しかしオルガは本に対して命を賭す。
と対比したわけですが、上記のように顔、顔向けの主題をジュディットが担当しているにもかかわらず、そして講義で言及されたデジカメを持っているにもかかわらず、彼女は何も応答できていないわけですね。石の話をした後で、その石ではないのでしょうが、観光客だかヒッピーだかわからない怪しげな連中が川に投石してるのに、制止できず眺めてしまう。カメラまで持ってるのに、カメラが議題になってるのに、彼女の行動線の弱さは異様な欠落で、ちょっと不気味ですよ。インディアン出現とともにちょっとホラーっぽいBGMがかかった途端、ジュディットの存在は、作中ではインディアンとともにもう消滅してしまったかのようにいなくなってしまう。インディアンへのリアクションのショットすらない。そして、ジュディットがピンボケショットに映るのは、この直後でしょう。あたかもジュディットはインディアン出現の時点ですでに即死し、オルガに憑依したみたいな…w よく考えると、何が契機となってオルガがあのピンボケショットのような視線の対象になったのかは不明なわけです。講義によって「ジャンヌへの生成」を遂げたから、とも考えられますが、ジュディットが消えたから、みたいにも思える。
「1492年」にさまざまな局面を器のように盛り込んだ(かもしれなかった)のと同様に、サラエヴォに煉獄の住人を盛り込んだのと同様に、オルガはここで器のようにジャンヌやジュディットを盛り付けられていってるんじゃないか。それまでパレスチナやイスラエルの話なんてオルガは一度もしていないわけで、ジュディットが消えた後で、彼女は平和運動を単独敢行しちゃう。ジュディットが消える前、講義を受ける前のオルガは恋人と諍いしてるだけで、かぎりなく白紙状態なんじゃないかな。(...)
拙訳
「それは...まるで..イメージ。だが離れた・遠くの[loin]ところの。隣り合う二人がいる。彼女の横にいるのは私だ。彼女、これは見たことがない。自分、これはわかってる。だが何も思い出せない。ここからずっと離れている・遠いはずだ。あるいは後の。」
仏語
"C'est... comme... une image, mais qu'il'y a loin. Elles sont deux côté à côté. A côté d'elle, c'est moi. Elle, je n'ai jamais vu. Moi, je me connais. Mais tout ---je ne souvient pas. Ce doit être loin d'ici? Ou plus tard." [---は聴き取りできなかった箇所。Ils sontかとも思ったけど、Elles sontだと思う]
英訳srt
"It is... like... an image, but a distant one.There are two people side by side. / I'm next to her. I never saw her before. I recognize myself. But I have no memory of all that. It must be far from here. Or later on."
[英訳は英訳でloinをdistantやfarに分けちゃってるので微妙]
邦訳採録・字幕
「それは何かのイメージだ。ぼんやりしている。二人が横に並んでる。私の横に女性がいる。見知らぬ彼女だ。自分は分かる。だが私には覚えがない。はるか彼方の出来事? もっと先の?」
[「ぼんやりしている」は映像に引きずられすぎ。「自分は分かる」だと、Je la connaisかと思ってしまう。「彼女のことは知ってる」の意味で。Moi, Je me connaisでは「他方、自分のことはわかる」という意味合い。「だが私には覚えがない」では彼女についての記憶のように意味が限定されてしまう。「はるか彼方の出来事」では、loinであるはずのCe[It]をショットに近づけすぎ。「もっと先の」だと、時間軸だとわかりにくいし、plusを強調だと勘違いしている。plus tardはこれ一つで「後日」「後刻」「のちに」「将来」「あとで」といった慣用語。]
●A説 イメージとイメージが対岸のように向き合ってる、と仮定して読む場合
(Elles sont deux côté à côté.のEllesに、A côté d'elle, c'est moi.のelleが含まれていないとする場合。この「私」は此岸にいて、一文目で対岸について語り、一文目で此岸の「彼女」と「私」について語っている。この仮定では、ペクー/ジュディットの顔と媒介をめぐっているのだと継ぐことができる)
向こうにイメージがある。離れていて人影の数しかわからない。こちらにはもう一人女性がいる。併せて4人がいる。ただ、その場合、「ここからずっと離れている・遠いはずだ」のCeとの距離が、向こうのイメージとの距離を言ってるのか、「彼女」と「私」のいる「此岸」と話者の視点との距離を言っているのか、対岸と此岸の両方との視点との距離を言っているのか、わからない。
●B説 あるイメージがある。そこでは「私」の姿と「彼女」の姿がある、と仮定して読む場合
(二人のEllesを「私」と「彼女」とする場合。姿と発話視点が幽体離脱的に分離している。この仮定では、オルガ/ジュディットあるいはオルガ/ジャンヌといった憑依的二重性によって、像と視点が分離しているのだと継ぐことができる)
向こうにイメージがある。離れているが、顔立ちぐらいならわかる。「彼女」と像の「私」と視点の「私」の3人がいる。視点の「私」は、「だが何も思い出せない。ここからずっと離れている・遠いはずだ。あるいは後の。」からわかるように、記憶も失い、時間軸も遠く離れたところにいる。
大雑把に、二通りの読み方ができると思います。ただし、A説、B説のどちらであれ、「オルガの声」が語っているからといって、A説の「私」、B説での視点「私」のどちらも、私=オルガ、とはかぎりません。オルガの声を借りて別の誰かが言ってるという路線でも読めるのだから。再生したジャンヌが? ジュディットが? とも。
2009年11月13日
(...)
>私には「elles」 ではなく「ils」と聞こえます。
そこは私も迷ったんですよね。本当にどっちにも聞こえる。英訳のtwo peopleはそれに迷ったすえに、性別をぼかしてなんとか訳したんだと思う。
>彼女の隣にいるのは、僕。
あの声がオルガ声だからといってオルガだとは限らないんですよね。まず("彼女")(視点"Je")(像"Je")("Je"と語る声の正体)の4項があるんですが、(視点"Je")(像"Je")が同一人間ではないとも限らないし(A説でやってもこれはもちこめる)、(像"Je")("Je"と語る声の正体)が同一人間ではないとも限らない。と憑依的に分裂して錯視してるかもしれないんだから。というわけで、たとえこの4項目を女性キャラクターだけで振り分けて、
・地獄篇のJe-Autre ・オルガ ・ジュディット ・ジャンヌ
の、(同一重複の可能性のため)重複順列ありで順列で考えても、4の4乗で256通りがあるw 4項がJe-Autreでも、つじつま合わせて説を作ることぐらいできますよたぶん。で、10個ぐらい組み合わせを提示して、それぞれに説得的な読解を付して、多義的な作動をまさに再演してみようかとも思ったんですが、労力的にやる気なくしました。
で、Ils/Ellesの識別困難性もあって、男女も不確定だし、隣り合うイメージと言えば、なるほどたしかに林檎食ってるあのイメージもある。洒落にならない量の解が想定できちゃうんですよね。ここまで絞る材料が減らされてるのは、たぶん意図的だろうな。
テキストかヴィジョンか、という対立で考えるのは私は回避したいんですが、あの一つ目のピンボケショット(私は亡霊ショットと呼んでる)は、サイレント映画の映像/文字画面や、アフレコでの声の重ね方ぐらいに分裂してて、たとえば、テキストだけ精読して想起するイメージとはズレていたりと、齟齬が桁違いだと思います。
ペクー-レヴィナスにかけてる負荷というかトリックを1単位、マイヤール/キュルニエにかけてる負荷を1単位、ぐらいに考えると、3、4個ぶつけてるなーって感じ。相当練って作ってありますね。
唇が動いて、でもその声が無音になってて、そのあと後ろ向いた途端、"J'en ai rien a foutre."がくるわけでしょう。「誰が」「誰に向かって」「どこで」「いつ」言ってんの、って感じですが。これって、時差とか非同期性、つまり声と姿と発話者の非同期性、あるいは場所と時間の非同期性を明白にしてますね。なんかね、ある人が手紙書いて、その手紙が届くと同時に、当人が家に来て、「あれ、同時に来ちゃった」と面食らって、しかも会話の内容が"一部"重複してる、みたいな感じですよ。ここの箇所のオルガ声と映像は、転送経路が別のものがたまたま同時に並んでる、ぐらいの不均衡がありますね。
ゴダールが講義で語るテキスト/イメージと、ヴィジョンについてのテキストの位置、夜の主題
2009年11月15日
(...)
>「(...)だってテキストの領域は、ヴィジョンの領域をすでに覆ってしまっているんだものね。」
>「(...)Because the field of text had already covered the field of vision.」
ここですが、何度も仏語を聞きなおし、復元してみました。
"Parce que les champs de[?]... le champ du texte avait recouvert du champ de la vision."
(聴き取りにくいですが、"re"couvertだと思います。「再び覆われている」という意味もありますが、「すっかり覆われている」の意味もあるし、「覆い・包み隠す、秘める」の意味もあります。英訳は二つ目の意味に沿ったのでしょう。大過去なので過去完了で英訳するのは正しい。se couvrirを大過去にしたのかな、とも思いましたが…再帰動詞の大過去ってetre使うし、etreの前にseが来るはずなので、再帰動詞じゃないだろうな。ただ、couvrirは自動詞・他動詞両方使えますが、recouvrirって他動詞のみとあるのですが……。まあ、所詮辞書で確認しただけなので、実際は自動詞でも使われているのかも。
英訳ではalreadyとありますがこれは付加。les champs de[?]は聴き取りに少々自信なし。ただし、この瞬間にBGMが消えるのはちょっと意味深)
ちなみに私の聴き取り能力は犬猫並なんで、"C'est... comme... une image"以下もそうですが、一応10~20回聴いて確かめてはいるものの、あんまり信用しすぎてもだめですよ。
拙訳
「というのは、光景...テキストによる光景は、ヴィジョンによる光景を、再び/秘めて/すっかり覆ってしまっていたからだ」
邦訳採録・字幕
「すでに映像が言葉によって覆い隠されていた時代だった」
まあいろいろ駄目。ヴィジョン=映像にしてしまっているし、champも無視してしまっている。
----
<読解>
1. vision
visionについては「見者の手紙」を意識してると思う。『私たちの音楽』ではvisionなんて単語はここしか出ない。そもそもJe est un autreは「見者の手紙」で出てくる言葉です。そしてランボーにあっては見者[Voyant]は詩人のことで、二つ目の「見者の手紙」ではこうあるわけです。
"この「詩人」は、「あらゆる感覚tout les sens」の、長く、無制限なimmense、理性的なraisonne「錯乱dereglement」によって「見者」となります。〔tout les sensとは〕愛と苦痛と狂気のあらゆる形態toutes les formesです。自らを探求し、自らの中であらゆる毒を汲みつくしますepuise――精髄quintessencesだけを残すために。あらゆる信念と、あらゆる超人的な力が必要とされる、えも言われぬ拷問であり....."
見者の手紙/アルチュール・ランボー 手紙 - 門司邦雄による翻訳・解読
(手元に詩集がなかったので、この邦訳で代行し、ちょっと訳文変えました。Pocheの詩集を参照しましたが、そんなにおかしな訳文ではないと思います)
まさに地獄編の話者の使命を彷彿とさせるわけですね。二つ目の手紙の後の箇所では、「詩人は真に火を盗む者です」(これはプロメテウスのことでしょう)、「「彼方」から持ち帰ったものに、形があれば形を与え、形が定かでなければ、定かでない形を与えます。言葉を見つけることです」とあり、言語でありかつテクノロジーの問題となっているわけです。つまり、texte/visionは単に対立でないのだととらえた方がいい、少なくともそっちの方が面白いと思います。
2. champ
これは「ショット/光景」というchampの多義性を使ってます。shot/fieldやショット/領域、というふうに訳し分けても見えなくなっちゃうんですよ。おそらくはもうちょっと別の話であって、思うに、真理としてのヴィジョン=光景の話でしょう。
3. recouvenir
たぶんハイデガーです。伏蔵性、覆蔵性、とか訳されるあのへんの訳語の可能性がある。Google Booksが仏語著作も対応してきたので、適当に検索かけてみましたが、Verbergung(覆蔵性)の仏訳にはocculation, recelement, dissimulation、Verdeckung(隠蔽性)の仏訳にrecouvrementが、あるのがわかりました。
つまり、これはヴィジョン=真理を隠蔽するものがテキストなわけで、でも同時に開示もする蝶番的な層、champなのではないでしょうか。
1,3の点で私が関連付けるのは、映画史2Bの10:14-あたりの箇所です。ゴダールはこう言う。
fr.
"Longtemps je me suis couché de bonne heure", "longtemps je me suis couché de bonne heure." Je dis ça et tout à coup c’est Albertine qui disparaît. Et c’est le temps qui est retrouvé et c’est parce que c’est le romancier qui parle. Mais si c’était l’homme de cinéma, s’il fallait dire sans rien dire. Par exemple, "je me suis réveillé de malheur". Il faut le cinéma et pour les mots qui restent dans la gorge et pour désensevelir la vérité.
La « partition » des Histoire(s) du cinéma de Jean-Luc Godard[par Céline Scemama]
eng.tr
"For a long time, I went to bed early...". I say that and suddenly Albertine disappears. And time is regained. For the novelist is speaking. And the director? If we had to speak without saying anything. For example: "I woke up surly." Cinema must exist for words stuck in the throat and for the truth to be unearthed.
拙訳
「朝の早い時分から長く寝ていた」「朝の早い時分から長く寝ていた」。私がこう言うと、たちまちにアルベルティーヌは姿を消す。これは再び見出された時であり、なぜならこう語るのは小説家だからだ。だが映画の人は言うことなくして言わなくてはならない。たとえば、「朝の遅くに起きてしまった」と。映画が必要なのは、語を喉に残さなくては・留める[restent dans la gorge]ためであり、真理の覆いを剥ぎ取る・掘り出す[désensevelir]ためだ。
ここで言われているのは、言葉では駄目だ、ということではなく、「寝ていた」のような持続的時間を語るのではなく、瞬間性を語るべきであり、かつ、その時間性としては"de malheur"のようなタイミングを逸したものとして語らばければならない、その逸し方においてloinがあるのであり、「寝ていたこと」については間接的に示すだけでよいのだ、と。単に否定的関係ではないんですね。dire sans dire(言うなき言う)、ほとんどハイデゲリアンの仏語みたいな、思考なき言葉といったような言い回しになってる。とどめはdésensevelir。こんな仏語、辞書レベルでは載ってない。英訳すると、uncover, unburyということで、ensevelir(包み・覆いをかぶせる/埋める)に否定辞をつけた言葉。おそらく、ハイデガーの仏訳著作かフランス内ハイゲリアンの本から持ってきたのではないかと。「真理をdesensevelirする」なんてもろな使い方ですからね。
私がゴダールにおけるハイデガーと真理の問題がかなり根深くあちこちにあると確信したのは、この実に両義的な箇所を目にしたときからです。
先の箇所は、語彙レベルではかなり含意があると思った方がいい。真理としてのvisionの覆蔵性・隠蔽性でしょうね。
さて、ここに戻ります。
「というのは、光景...テキストによる光景は、ヴィジョンによる光景を、再び/秘めて/すっかり覆ってしまっていたからだ」
そもそもその直前の箇所は、ハイゼンベルクがそこにある城を見て「たいしたことない」と言い、ボーアが「いや、ハムレット城だ」と言う箇所でしょう。このボーアの言葉は単に滑稽な発言じゃない。ボーアの言葉が馬鹿げているという話なら、真理-ヴィジョンは「実際にそこに行けばある」というものになってしまうからです。真理をrecouvenirしつつ保持しているテキストを介して、真理-ヴィジョンに接近するのではないか。これは対立関係ではなく、媒介関係です。このとき、映像で示されているのが、エルノシア城の写真ではなく絵であったり、霧がかったように粒子の粗いザラついた挿画だったりすることも示唆的です。表象物でありつつ、それを介しなくてはならない、というものとしての真理-ヴィジョンがある。あるいは、現実性(realite)が「そこにある」という素朴なものと「真理・ヴィジョンとしての実在性」の二通りで出てくるわけです。
したがって、続くゴダールの語り、
拙訳
「エルノシア城、現実のもの[le réel]。ハムレット、想像/イメージのもの[l'imaginare]。champとcontre champ。想像/イメージのもの、確実性。現実のもの、不確実性」
fr.
Elsinore, le réel. Hamlet, l'imaginare. Champ et contre champ. L'imaginaire, certitude. Le réel, unceritude.
eng.tr
Elsinore the real, Hamlet the imaginary. Shot and reverse shot. Imaginary: certainty. Reality: uncertainty.
ここでの映像である、闇の中で揺れる裸電球と、続く「光[lumière]で私たちの夜[nuit]を照らす」という含意は結構厄介で、しかも『映画史』で繰り返される文字「闇からの応答[reponse des ténébres]」や『JLG/JLG』の冒頭箇所にもかかわります。
----
fr.
L’Espoir lui appartenait mais voilà le garçon ignorait que l’important était de savoir à qui il appartenait lui, quelles puissances ténébreuses étaient en droit de la réclamer lui.
D’habitude, cela commence comme cela. Il y a la mort qui arrive. Et puis l’on se met à porter le deuil. Je ne sais exactement pourquoi, mais j’ai fait l’inverse. J’ai porté le deuil, d’abord. Mais la mort n’est pas venue, ni dans les rues de Paris, ni sur les rivages de lac de Genève.
eng.
He possessed hope, but the boy didn't know that what counts is to know by whom he was possessed, what dark powers were entitled to lay claim to him.
Usually, it begins like this: Death arrives, then we put on mourning. I don't know exactly why, but I did the opposite. I first put on mourning, But death never came. Neither on the streets of Paris, nor on the shores of Lake Geneva.
拙訳
希望は少年のもとに現れたが、少年は肝心なこと、つまり自分が誰のもとに現れているのか知らなかった。彼を求め訴える権利を持つ闇の力がどのようなものかも知らなかった。
普通はこう始まる――死が到来し、人は喪に服す。だが、なぜか私は逆だった。私はまず喪に服した。だが死はパリの路上にも、ジュネーヴの湖畔にも訪れなかった。
------
ここで、少年、ゴダール少年は闇の下へと現れ、闇の力[puissances ténébreuses]は彼に対してréclamer(訴える・抗議する・騒ぐ)する権利をもつ。直後に服喪の話が出ているように、この闇とは死と深くかかわっています。
ここで闇と死の話をすると、ある時期以降の闇と死と応答の主題系をまとめる必要が出てくるので、ここではこのぐらいにとどめておきますが、certitude(確実性)も素朴な意味ではありません。同じく『JLG/JLG』ではまさに確実性の問題が触れられるからです。その直前のアトラン『結晶と煙のあいだ』を引用した直後のくだりも含めて引用しましょう。
------
00:12:39,560 --> 00:13:46,840
fr.
Quand on sait que les deux formes d’existence entre lesquelles navigue le vivant, cristal et fumée, désignent aussi le tragique des morts qui dans la génération de mes parents se sont abattues sur le individus, véhicules de cette tradition. "La nuit de cristal”... et le brouillard de la fumée.
eng.
When one knows that the two forms of existence between which a being navigates, Crystal and smoke, also signify the tragedy of the dead, which in my parent's generation struck down individuals, vehicles of this tradition. The 'Kristallnacht'... and... the fog of smoke.
拙訳
水晶と煙という、生命〔生者〕が航行するふたつの存在形態があると知るとき、その二つの存在形態は死者の悲劇を思い起こさせる。私の両親の世代に諸個人を襲った悲劇を。伝統の伝達手段・媒介手段[vehicules]を。「水晶の夜」……そして、煙の霧。
00:14:06,040 --> 00:14:45,319
fr.
121, Peut-on dire le manifeste des 121? "Peut-on dire où manque le doute manque aussi le savoir?" 125. “Si un aveugle me demandait "as-tu deux mains?", ce n’est pas en regardant que je m’en assurerais? Oui, je ne sais pas pourquoi j’irais faire confiance à mes yeux, si j’en étais à douter. Oui, pourquoi ne serait-ce pas mes yeux que j’irais vérifier en regardant, si je vois mes deux mains." Wittgenstein, de la certitude.
(extrait de Ludwig Wittgenstein, de la certitude, traduit de l'allemand par Jacques Fauve, Gallimard, Poche, coll."tel", 1976)
eng.
121, one might say, ''The Manifesto of 121 ''. "Might we say, that where doubt is lacking, knowledge, too, is lacking?" 125. A blind man asks me, ''Do you have two hands?'' Looking at my two hands would not reassure me. Yes, I do not know why I would trust my eyes, if I were in doubt. Yes, why woudn't I check my eyes by looking at whether I see my two hands?" Wittgenstein, ''On certitude''.
jp.
121、これは「121人宣言」とも言えるか。疑いのないところには知識もないと言えるだろうか。125、「両手はあるか?」と盲人に聞かれたら、私がそれを確かめるのは、見ることによってではないのではないか? そう、[そして]その目の存在を私が疑っているとしたら、どうして自分のその目を私が信頼しているのかわからない。そう、自分の両手を見ているのなら、私が見て確認している対象は私の視線の方ではないとどうして言えるのだろうか〔私が確認している対象は両手の方ではなく私の視線の方ではないか〕。ウィトゲンシュタイン、『確実性の問題』。
------
一つ目:
「水晶の夜」とある以上、Kristallnacht、ナチスによるという疑惑もある1938年のユダヤ人殺害の暴動ですよね。その死者の悲劇が伝統の伝達手段・媒介手段[véhicules]である。つまり、前に言った石=死体=媒介だというのは、ここから見て妥当性があるわけです。
二つ目:
確実性はこのとき、素朴に「そこにある」というものではなく、それを見る目すらも疑いの対象となり、対象を確認するとき、そこで起きているのは、見ることによって・見つつ[en regardant]おのれの目を確証する、という行為だ、となる。
ゴダールにあっては対象の実在性(realité)は最初から揺らいでいて、『私たちの音楽』のこの箇所は、「現実のもの[le réel]、不確実性」であり、媒介として介する表象物が、このとき相対的に確実性、とされている、というくだりなんですよ。ここでのテキストは「それはハムレット(城)である」という表象でしょう。テキストであれ、イメージであれ、l'imaginareとされている。この表象は重要なわけです。伝達・媒介の経路なのだから。
2009年11月17日
>> 「長いこと、私は早い時間に(de bonne heure)寝るのがつねであった。」
>というプルーストの小説『失われた時を求めて』の冒頭の一文と結びつけられるや否や、
>>不機嫌に(de malheure)起きる
あ、冒頭文だったか+そっちの訳のほうがどう考えてもまともだ…。でも、de bonne heure/de malheureで、ゴダールが後者の文を付加することで、前者の意味合いに別のものを持たせ、慣用的な意味合いを外させる作用を狙ってるのはあると思いますよ。
>19世紀末の辞書に出ているようです。
html版リトレには載ってるから、昔は使われた語彙ではありそうですね。フーコーが「Distance, aspecte, origine」(1963)でdegagerの言い換えの一つで使ってたりして、まれに現代に使う人がいるって程度。
まあ、証拠にするには弱いのはわかってるので、ほとんどフィクションの勢いでごまかして使う予定だったんですよ。闇、夜の主題にしてもレヴィナスでしばしば出てきますけど、出典であるという言質をとるのも難しいですしねぇ…。recouvenirのハイデガー説を冷静に突っ込まれると困るんですが、ここは強引に押し切りました。割と無理があるんですけどね。
>サイト、知りませんでした。これは素晴らしいです。
Celine Scemamaは楽譜みたいな資料本Histoire(s) du cinéma de Jean-Luc Godard. La force faible d’un art, (L’Harmattan, Paris, 2006)の著者でして、そのサイトver.がここです。40分以上ある1Aの部分が23分しかなく、あれ?ってな不備があったり、ものすごく細かくチェックするとECRITSのタイミングとかもろもろが遺漏があったりしてるんですが、それでも精度はかなり高い。
désensevelirもs'ensenvenirかどっちなのかと悩んだ挙句、セリーヌシェママ採録に従った、という経緯を辿りました。この本ははたして、ゴダールのチェックを経てるのかどうかは知らないですが。まあでも、POLのやつだって完全ではなかったり、まれに変な誤植あったはずので、気にしないことにしてますが。
○
モーツァルトで言うと、前に「私はかなりのヘーゲリアンです」(全評論・全発言III, p.464)を引きましたが、このアンドレ・S・ラバルトとの対談で「映画でモーツァルトに対応するのはチャップリンで」っていう一節がありましてね。そのくだりでは結局チャップリンについてさほど大したことは言ってないし、チャップリンで『フォーエヴァー・モォツアルト』を読めるかっていうといろいろ難しいんですが、「ゴダールにおけるチャップリン」というのはたぶん重要で、『JLG/JLG』読解の際に使える線になるとは思ってる。ロメールもそうなんですが、「キートンからチャップリンへ」という動きをとる人がたまにいて、実際ゴダールもある時期を境に「実はチャップリン、面白くないか?」というふうになっていくんですよね。
2009年11月17日
>「喉から出ない言葉=詩の言葉」こそが、「テキスト」に支配されることのない「ヴィジョン」を生み出すための契機になる
私はそうしたテキスト/詩の区別や、テキストによる支配関係で見ることには躊躇があって、2Bというのは言葉とイメージに関して両義的なんです。デルピーとゴダールが交互に語るシーンありますよね。そこではこうなっているわけです。
[手持ち英訳srtではデルピーの訳を漏らしてるので仏語/拙訳だけ併記。ここは邦訳字幕が理解をミスってる箇所です]
00:08:05,490 --> 00:08:19,087
fr.
- Oui, la nuit est venue. [Delpy]
chapitre 2 B [écrits]
- Et la caméra stylo, [Godard]
- Un autre monde se lève. [Delpy]
- C’est Sartre qui a refilé l’idée au jeune Alexandre Astruc [Godard]
- dur, cynique, analphabète, amnésique, [Delpy] [Celine-Schemama版では”dur, cynique”がfemmeとなっているがDelpyが正しい]
- pour que la caméra tombe sous la guillotine du sens [Godard]
- tournant sans raison [Delpy]
- et ne s’en relève pas. [Godard]
- étalé mis à plat comme si on avait supprimé la perspective, le point de fuite. [Delpy]
FATAL [écrits]
- Et le plus étrange, [Delpy]
L’INSTANT FATAL [écrits]
- c’est que les morts vivants de ce monde se construisent sur le monde d’avant leurs réflexions. Leurs réflexions, leurs sensations sont d’avant. [Delpy]
FATALE BEAUTÉ [écrits]
HISTOIRE(S) DU CINÉMA [écrits]
- “... Je parvins à saisir le pistolet de femme.” [son d’une femme] (d’Amants du Capricorne)
拙訳
- そう、夜が到来した。 [デルピー]
2Bの章 [文字]
- そして「カメラ=万年筆論」、 [ゴダール]
- 他なる世界が立ち上がる(注1)。 [デルピー]
- サルトルがアレクサンドル・アストリュックに吹き込んだアイデアだが、 [ゴダール]
- 耐え難く、シニカルで、文盲で、記憶喪失(健呆症)で、(注2)、 [デルピー]
- これはカメラを意味のギロチンにかけるものだった。 [ゴダール]
- 遠近法や消失点が廃されたように、 [デルピー]
- そしてもう立ち上がってこない〔出現しない〕 [ゴダール]
- 平面の上に配置される根拠-理性もなく、曲がりくねった世界。(注3) [デルピー]
命がけの〔宿命的な・致命的な〕 [文字]
- 最も奇妙な〔不気味な〕もの、 [デルピー]
命がけの〔宿命的・致命的な〕瞬間 [文字]
- それは、この世界の生ける死者が、前の世界[le monde d’avant](注4)の上に構築されているということだ。彼ら〔この世界の生ける死者〕の反射-投射〔réflexions〕も、彼らの感覚も、前にある[sont d’avant](注5)。
命がけの〔宿命的・致命的な〕美 [文字]
(複数の)映画史 [文字]
- 「...女の銃を止めようと頑張ったのに」[女声] (『山羊座のもとに』(ヒッチコック監督作、1949)より抜粋)
注1 un autre mondeには「来世・あの世」「大昔・太古」の意味もある。この主題系は、文字で示されるle monde perdu(失われた世界)、『古い場所』でのold、イマージュとイデーを収蔵するmuséeなどと連結する。また、ここでデルピーが言う「夜」「違う世界」は、劇場での映写の比喩にも読める。まず暗転(夜)が起こり、作品が上映されるのだと。
注2 この形容はゴダールの発言と絡み合っている。「耐え難く、シニカルで」の意味はわからないが、意味のギロチンなしでの映像は、「文盲[analphabète]で、記憶喪失(健呆症)[amnésique]」だというのは、文字による記憶補助を失い、諸細部の関係を保持することができず、構文的秩序がなくなっているということだろう。続く「遠近法や消失点が廃され」た状況とは、いわば表現主義絵画のように筆触が混沌としているということだろう。
注3 特にこの箇所は邦訳字幕が不完全。おそらく意味を読み取れていない。
注4 前=過去の世界、前世、眼前の世界〔目の前にあるスクリーン〕などに読める。
注5 事前に存在している/前の世界に・からある/前世に・からある/眼前の(スクリーン上の)世界に・からある ぐらいの幅で読める
ゴダール「カメラ-万年筆論→意味のギロチン」だけを見ると誤解してしまいますが、スクリーンのことを言ってると思われるle monde d’avantは同時に前世にも読めるし、デルピーの言い回しはle monde d’avantに対して楽天的ではない。
『私たちの音楽』でオルガが死んだのをガルシアに告げられるとき、彼が言ってるのは「dans le Cinema」で、映画館の中で/映画のなかでという意味があるし、本を持って死ぬわけですね。国内盤DVDで59:22-、海外盤で62:00-の箇所で、オルガはこう言う
fr.
L'Autre monde, l'autre modne, l'autre modne! (...) l'autre modne, unique l'autre modne.
eng.
The next world.(...)Just the next world.
jp.
来世、来世、来世よ! (...)来世、唯一の来世。
2Bにあってl'autre modneは夜(上映前の暗転)のあと到来する他なる世界であり(定冠詞/不定冠詞の差異はありますが)、映画です。そこでは記憶がないし、そこにいる生ける死者[les morts vivants de ce monde]は前の世界・前世[le monde d’avant]の上に打ち建てられている。これはスクリーン上の登場人物は白黒となっていたり(たしか映画史では白黒は喪に相応しいと言われている)スクリーンの上にいる、という意味もありますが、その世界の観客が生ける死者であり、眼前の世界[le monde d’avant]の上に打ち建てられているという逆の読みもできる。その間にあるのはreflexionsで、逆説的な意味にも読める。
ここでの言葉/イメージの両義的なモメント、前/後の両義的なモメントが、オルガの来世云々には引き継がれているのだと読める。そして、仏語で普通「来世」にあたるのはl’au-dela(彼方)なのですが、おそらくゴダールがこの語を使わなかったのは、”autre”に負荷をかけているからでしょう。
夜とは何か。『JLG/JLG』ではこういう音声が突如挟まれる(たぶんマルローの映画『希望』から)。35:00あたり
fr.
[un voix: Le début de cette histoire se situe pendant ces quelques minutes qui séparent la nuit du jour pendant le crépuscule du matin.]
eng.(srtから部分的に改訳)
[an voice: "The beginning of this story is set in the minutes separating night from day, during dawn."]
拙訳(邦訳採録では漏れてる)
[声: この歴史-物語の始まりは、暁の10分間が昼から夜を切り離している只中に身を置く。]
どうやらこの音声を断片化させるかたちで、レヴィナスの言う「イリア」の経験である夜が終わり、暁の到来とともにhistoireの開始がある、というふうにゴダールは読み替えてるんじゃないかと思います。ならば、夜の後に目覚める[se lève]Un autre mondeは映画であり、histoireでもあるわけです。そしておそらくはじめから、言葉による絡み合いがあり、しかしそれなくしては「文盲[analphabète]で、記憶喪失(健呆症)[amnésique]」であるのを免れない。天国の住人が本を読める以上(Sans espoir de retour)、ここが違うわけで、両義性は残存し続けているのでしょう。
ブログ アーカイブ
2009年11月17日火曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿