2008年12月10日水曜日

ウィリアム・フォーサイスの現在

 2005年3月にフランクフルトのフォーサイスカンパニーで1週間のワークショップを行った日野晃とそのときの記録である日野晃・押切伸一『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』(白水社、2005.8)を読んで以来、フォーサイスの作品とその組織化、現在にいたるまでのプロセスを支えた制作モチーフなどを再考する衝動に駆られている。この本は怪しげな表紙写真といい、ピンクの文字といい、内容を知らずにタイトルだけを見ると来日時のイベント本か何かかとずっと誤解したままだったのだがまったくの勘違いであり、この1,2年でも屈指の拾い物の本だった。(内容紹介は省略)

 フォーサイスとそのダンサーにフランクフルトバレエ団解散からフォーサイスカンパニーへの移行が生じていたことはよく知られているし、フランクフルト市財政上の理由から団の危機が起きた際、桜井圭一らをはじめとしてメールで反対署名を集める動きがたしか2002年前後にあったことは記憶に残っていた。
 人が知るその後の経緯は、カンパニーに変化してその後、2004年に来日し安藤洋子をメインに据えた公演「WEAR」をおこない、また2006年にはさいたま芸術劇場で「one flat thing, reproduced」「7 to 10 Passages」「Clouds after Cranach」を上演、2008年になって「one flat thing, reproduced」と「From a classical position」の日本版DVDが発売(one flat thing, reproducedの方は英仏版DVDと同時発売)、しかし最近日本に来るという情報も無いなあ、といったところだろう。そして映像版の「one flat thing, reproduced」を見るかぎり、多人数・同時進行・高速複雑動作といった大雑把な面ではフォーサイスダンスの印象の差がなく、一見齟齬は無いように見える。が、どうやらそうでもないようなのだ。というわけで、以下はいろいろ考えた内容。

・私は未見だが「WEAR」上演のさいに出ていた評価はこんな感じだったと思う。
1.「安藤のようなバレエトレーニングの経ていない身体が浮きすぎだ。坂本のオペラ「LIFE」の頃から安藤のダンスには「大母の大地」的な、舞踏的な面があり、フォーサイスが安藤を好むのには懸念が。これまでの「超絶技巧」スタイルからするとこれは一体どうしたことなのか。やっつけ仕事なのか?」
2.「バレエ団解散とともに30人以上いたダンサーたちも10数人に減り、身体技能の低下が目に付く(1999年時点と2006年時点で比較すると残っているのはダナ・カスパーセン、フランチェスカ・カロティ、ジョーン・サン・マルティン、ファブリス・マツリアの4人のみ)。今回上演された過去の演目(N.N.N.N.やクインテット)にしても以前の1999年公演の方が際立ってしまっている。今後のフォーサイスはどうなるのか不安だ」
3.「パフォーマンスアートっぽくなってる。メディアインスタレーション作家の方向がより顕著になってきた? あの超絶複雑な身体文法の構築からのこの転身は一体どうなることなのか」

 1と2は重なる項目だが、ここで共通しているフォーサイスの思惑は、抽象的な身体から各々固有なる身体を活かしていこうという方向性の強化によるものだ。こう考えたとき、カンパニーから「バレエ」という文字が消え、少人数体制になったことも単に縮小を意味するのではなく、フォーサイスの関心が明確になったことでもある。いわゆる「モダンダンスの脱構築の人フォーサイス」ではなく、よりトリシャ・ブラウンやマース・カニングハムの系譜に連なるコンテンポラリー・ダンスの相貌が明白になった結果なのだろう。したがって、身体固有性と即興性をどう接続させ、組織化させていくかという課題が生じていた。また、ここで3が飾りや余分なものではなくもう一度関係してくる。コンタクト・インプロヴィゼーションに関与させる事物としてさまざまな仕掛けが凝らされてきたということなのだろう。

 こうして、いくつかの線が見えてくる
・コンタクトインプロヴィゼーションと身体固有性をどう考えるか
・それらの中で仕掛けや空間の設計、振付をどうするか
 この二面性はこれまでのフォーサイスにもあったものだが、アルゴリズムに基づき振付を自在に接続するといったコンセプトが際立っていたが、コンタクトインプロヴィゼーションと振付との関係は十分に言説にされてきたわけではなかったと言ってよいのではないか。

 日野が2003年にフォーサイスに着目され、親密になる背景はここにある。相手の身体作動、筋肉の緊張などを察知する高感度カウンター型の武道を培ってきた日野は同時にフリージャズの経験者であり、ベジャール「ボレロ」のジョルジュ・ドンから肘の操作による腕使用や胸骨操作による背骨使用を吸収し、ダンスに興味を示していた(とりわけシルヴィ・ギエムを彼は評価している)。身体の形態操作をよりミクロに力学分析したかのような日野の身体理論は、「形象化して残るのではなく(...)瞬間ごとに変容し消滅する」身体観をもっていたフォーサイスには、ましてやバレエ団から心機一転の端緒についたフォーサイスには心を射止めるものがあったに違いない(「interview ウィリアム・フォーサイス」(聞き手:立木燁子)、堤広志編『現代ドイツのパフォーミングアーツ』(三元社、2006.3))。「深く根源的な水準に達した知覚単位(a degree of perceptual unity so profoundly fundamental)」とフォーサイスが日野を激賞するのはこういった模索ゆえだった。

 ダンスへの身体技術貢献ができると感じた日野は、2005年の横浜BankArtでの安藤とおこなったワークショップをはじめとして毎年コンテンポラリーダンスのワークショップを開講している。最も最近開催されたものでは今年11月に神戸での佐藤健大郎やフォーサイスカンパニーのIoannis Mantafounisを交えたショーケースがあるが、これも大成功だったようだ。「ねじれ」トレーニングによる身体連動、「正面向かい合い」トレーニングによるコンタクト知覚の習得を下地とし、複数グループを組み合わせて高密度の空間を実現しているとのことだ。
 ただし、日野の日記による記述では「振付をどう設計するのか」という問題はボキャブラリー上、得意分野でなないからかあまり言葉にされて掘り下げられているとは言えない。日野のフォーサイスとの出会いの記録である上記書籍でも欠けている視点はこれだ。

 日野トレーニング以後のフォーサイス、日野以後の国内ダンサーにおいて重要な問題は、空間や事物の設計や振付をどう考えるかということである。つまり上の二面が再浮上することになる。思うにこの構造はダンサーと振付という要素を不可避とするダンスにつきまとうものなのだろう。この意味で再び「現在のフォーサイス作品」および「現在にいたるまでのフォーサイスにおける二面性」を考える必要がある。

■ 追記(12.19)
 日野晃のHP付属BBSで告知されたところによると、2004年末から2008年12月上旬まで続いていた日野晃の日記は残念ながら誤って削除されてしまったらしく、新規に12.11からブログがオープンした。過去ログの復旧は行う予定が立てられていないのか、そうした告知はない。開講したワークショップの日野自身によるレポートはHPに転載されているので読むことができる。本文中の日野日記のリンクは新ブログのものに代えておいた。

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