2008年8月30日土曜日

「殴れ」? - 勇午2

(投稿:8.30、加筆:9.1)
『勇午』では字義通りの依頼遂行と根本的問題への対処が分けられている。ただし、この場合、a.字義通りの依頼、b.依頼者の意図、c.根本的問題への対処、の区別が大事で、しかもc.は勇午自身が独自に、依頼引き受けの時点では明確に語られることなく選択されている。a/bに対してcが独自の運きをするのがいわばドラマを形成しているところがある。この場合、c.は勇午の意図でも言うべき感じになる。交渉人を素材にした物語が他にどれだけあるのか知らないけど、「勇午」の特色ってこのあたりだと思う。

ロシア:
 資金凍結というかたちで、使用法の保留・先送りではあれ、遺産を真にロシアのために使おう、という問題の前進(c達成)に。激怒し地団駄を踏むに違いない(bは思いっきり裏切られている)アンドレイが最後に出てこないのが惜しいぐらい。
インド:
 ヒンドゥーとイスラムの和解(c)に向けた歩みに向かって、火種の着火を一つ防いだ、しかし和解の未来はまだ遠い、ミシュラのような人に期待しよう…というものだね。解決には長期を要するが、その一歩となることを祈ろう、という勇午の交渉の成功パターン。

 LA編は契約遂行に関して他よりちょっと複雑で、マケインが言うタフトの依頼は「スーザンを無事に連れ戻せ」(17巻p.184)、タフト「連れ戻してくれたまえ」(17巻p.218)となってて、bは鮮明なんだけどそいつもの勇午の「わかりました、~~を遂行するという意味でなら引き受けます」のくだりがないので、aが何なのか不鮮明。これは最後になってようやく暗に示される。
「既にスーザンがイベットを殺害したという確信を持っていた勇午は、スーザンの意思を考え彼女の幸せと人生を最重要視して(c1)スーザンが新しい人生を生きれるようにする(c2)という目的に向けて、死体というかたちではあれ連れ戻し(タフトの言葉だけで考えてa=bとする)、自分は殺人犯として刑を受ける」というふうになってる。さらに、「連れ戻す」前提には、マクスウェル・ビッカーズのオーナーである事実がある以上、自由の身にはなれないから、というのがあって、「オーナーではなくなってスーザンとしてではなく新たな人生を与えられれば、連れ戻す必要はない」ということも意味している。これはa(=b)ではないんだが、cの基礎となる。しかしマケインの必死の行動がスーザンの気持ちを変え、勇午の念頭にあったc1とc2が矛盾し、彼女は殺人犯として刑に服すことを選ぶ(c1)。その結果、勇午がとった「スーザンの新しい自身」(c2)のための行動がご破算になるわけだ。ただし、そうしたスーザンの意思は重んじることを勇午は選ぶ。LA編は、勇午は何のために動いているのかが謎のまま進行し、それが明かされるまでの話で、結構異色なんだ。

 他方、パリ編は、aが明かされるまでに(21巻p.82)事態が動き回り、おそらく勇午自身のcは強いて言うなら「イスラエルとパレスチナの別の共存を目指す一歩となる」なのだろうと読者には推測がつくんだけど、aが謎だから勇午がなんでテロ活動に加わっているのかわからない、ということになる。aとcの見せ方の進行の点では、LA編とパリ編は真逆の構成になってて対照的。

 上海編は、a=松木夫人が郭波心に会見し謝罪すること(誤解を解けるか否かは問わない)で、美々の依頼はa=母親の居所を突き止めること。それぞれ、廃人となった郭波心に会うことはでき、謝罪はできた(が、意思が伝わったかどうかも定かではない)、母親の死体の埋められた場所は突き止められた(が、依頼の念頭にあった、母親に悪態をつくとか謝罪させるといった意図の前提が、母親の死の経緯を知らされることで崩壊)。
 変化球になってるのは、LA編と同じく勇午の意図(c)がどこにあるのかということ。最後の最後で暗示されるだけにとどまるのだが、「文革でおきた悲劇を経て、中国の人々の未来への一歩になる」とでもいう感じなのか、かなり晦渋なニュアンスになってる。殴ることで過去を清算できるのならば、殴りなさい、ってことなんだろうが、本来、依頼内容と勇午の意図からいって美々が真相を知る羽目になり、葛藤をする必然性がない(これは物語構成上必要だったのだろう)。あと、シャベル持って力いっぱい殴ったら死ぬだろうと思うんだが、殺すな=殴れ って意味で言ってるのか、殺してお前の好きなようにしろ=力いっぱい殴れ と言ってるのか、かなり多義的になってる。
 これは、文革の悲劇を経て、世代間の格差、齟齬、葛藤が険しくなっている中国、というモチーフがまずあって、そこにダブルミーニングな「殴れ」という言葉を放り込む。そして、その言葉に対して美々が苛立ったような表情で返しているのが面白い。
 偽であれ誇りえないものであれ過去はあり、過去から綺麗に生まれ育ったわけではない現在があり、現在はその過去に対して和解し清算しなくてはならないが、多義的で葛藤をはらんだものになる、という構図を、偽郭波心/美々という世代間対比のかたちにしたんだろうね。U.K.編のイングランドと北アイルランドのような対立を、中国国内の世代差、年代差でもって扱ってる。

 対比的にここから考えると面白くなってくるのは、オーストリア編で、ザルツマンはある意味で、勇午みたいな役柄をやってる。彼はいわば和解と調停のための実践(キリストによる統合)をやろうとしたわけで、勇午との違いは、手法や調和の構想と、ノエミの人生への配慮でしかないのでは、というものになってる。U.K.編とオーストリア編は、勇午以外にも調停役が出現することによって、それぞれにとってのcとその手法が際立って対立しているところが面白いね。

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