2008年8月20日水曜日

交渉 - 勇午1

「勇午」(真刈信二・赤名修)の中で出色のシーンは21巻(第10部[パリにおけるイスラエル-パレスチナ編])にある。アメリカ国務長官を殺害するために走り抜けようとするTGVの当該車両を狙って線路をまたがる高架橋からロープを結わえて飛び降りるパレスチナ人の子供は、イスラエル側の秘密部員によって飛び降りの直後射殺される。TGVの当該車両への巻き込みは成功せず、ロープに下がったまま、撃ち抜かれた頭部から子供は血を流す。
 勇午は秘密部員を問い詰める。イスラエル国家を安住の地というが、こんな子供たちの犠牲の上に成り立っているんじゃないかと。しかしこう返される。「だからどうだ。お前たちはいつもそうだ、血を流すこともなく安全な場所から奇麗事を言うだけ。お前があの子たちの側じゃないことぐらい本当はわかっているはずだ。弱者を力でねじ伏せ、安寧と富の生を生きているのはお前も一緒だ。いま私が撃たなければ私もお前も死んでいただろう。子供を殺してまで守るべきものがあるだなんて考えたくないのは私だって一緒だ。だが、お前が私たちに何を言えることがあるんだ?」

 語る側について即座に返される、語る側自身への叱責、立場の違いという残酷な差の露呈。22巻の第11部(中国編)でも勇午は、誰の立場でもないような交渉人、容易に依頼者の立場を代理できるかのような交渉人という欺瞞から外れ、何がしかの立場に立たざるをえないことをあらわにする。

 文革のときに母を殺し父を廃人にし父の論文を略取し(その論文が今後の中国のためになると考え)父に成り代わった張紫功はそのことを娘の前で暴露される。謝罪し、私を父と呼ばないでくれと繰り返す張は、怒りに駆られてシャベルを振りかざす娘の美々に対して目を閉じ抵抗せず振り下ろされるシャベルを待つ。それを止めることなく勇午は「殴りなさい」と言い、美々はシャベルを下ろし、知らなきゃよかった、最愛の父が両親を殺したも同然の人間で、その男にぬくぬくと育てられてきたなんて、今日からこの男を憎んであの廃人を愛して生きろとでもいうのかと泣き崩れる。
 後日、「殴りなさい」となぜ言ったのか、そう言うことで父に成り代わった偽者を殺すことに躊躇することを狙ったのか、美々にそう問われて勇午は「もし殴れるなら殴ったほうがいいと思った。そのほうが中国の人々ためになる」と返し(どういう意味での「中国のため」なのかが不穏なのだが)、美々の、苛立ち、憮然としているような表情が突きつけられるとともに(実質的には)物語が終わる。

 勇午の交渉はつねに、長年にわたる非和解、亀裂を和解にもちこめることには成功していない。それは最初のパキスタン編のころからであり、ダコイット(山賊)とパキスタン政府の抗争に終止符を打つことはできず、当初の依頼内容である人質を救出することで終了する。ダコイットの首領と互いに神と名誉を祈り、別れを告げる。和解そのものは達成されることなく、ある小さな交渉内容の終止があり、和解は祈られるにとどまる。こうした、交渉内容は成功するが、和解や未来に向けた陰謀・構想の直接的な阻止・解決には失敗するという構成は、第3部(ロシア編)や第5部(イギリス-北アイルランド編)の時点で明瞭だった。第3部。ロマノフ王朝の隠し遺産は適切な使われ方のために未来に向けて凍結され、当座の使用は保留される(ただし、依頼内容は「依頼人自身の意図よりも遺産遺言者の遺志を継ぐ」というかたちで、依頼内容の文面を読み替えられ、依頼者の望む資産の私的利用は、交渉人自身の意図から阻止されている)。第5部。IRA分派によるEU外相会議の会議場爆破が死傷者を出すことを阻止するという依頼内容は達成するが、その過程でIRAへの共感者を生み出すIRA分派党首の策の阻止には失敗し、IRAとイギリスとの亀裂を埋めるどころか逆の事態を未来に先送りしてしまう。

 イブニング連載第1部(下北半島編)ではアメリカへの亡命を望む北朝鮮工作員ユン・ミッチョルと勇午はこう会話を交わす。(抜粋ではなく文脈に合わせて箇所によっては大幅に修正した大意)

 ユン 君はなぜ交渉をするように?
 勇午 僕も訊きたかった。あなたはなぜ対日工作を?
 ユン 北と日本は敵同士だ。日本は植民地時代の清算を済ませていない。だから志願した。
    敵に損害を与え未来の国交交渉を有利に導く。
 勇午 それで交渉が有利になるとでも?
 ユン 日本人は想像力が欠けている。「今日本人が怒っている」。
    なるほど、ならばわかるだろう、我々の怒り悲しみ憎しみの深さが。
 勇午 理解したいと思っている。
 ユン 私の質問に答えろ。
 勇午 交渉は最後には和解に終わる。それを信じたい。
 ユン …そう思えるのは幸せだ。

 和解に向けての一歩としてしか行為はできないが、現在時においてそれは、未来における和解の実現への「祈り」としてあるほかないという構図はここで明確に出ている。第10部、第11部、日本編第1部はシリーズ制作時期において連続しているのだが、この3作において両立場の齟齬、両立場そのものには立てない交渉人自身の立場という齟齬、しかし余白としてある交渉人の立場ゆえに言われもする「幸せ」な「傲慢」でも同時にあるような希望の表明(そしてそれは祈りとしてしか提出しえない)は濃厚になっていく。認識においてはペシミスト、しかしながら行動においてはオプティミストであれ、と説いたのはロマン・ロランを引いてこう言うグラムシだが、遺産相続的な翻訳であり交渉であるような介入作業は、つねにこうした立場への分け入りと、未来に向けられた場のオプティミスティックな創出としてあるほかない。蛇足的に対比するならば、これが、たとえば浦沢の「モンスター」では遂に回避し続け、描きえなかったものであり、渾然一体に雰囲気に飲み込むような演出に傾いてしまって全く現れなかったものだった。

 第10部、秘密部員に問い返されて勇午はこう応える。「せめて忘れないでいよう、あの子がいたことを、あの子を救えなかったことを」。死者は亡霊となり私たちのもとに住み着いている。

■追記
 上に書いた文章は、友達に単に勇午を読ませて、是々非々にその模索点と読める箇所とその限界について話し合ってみようかと思って走り書きしたようなもの。書いた後で読み返すと、無駄に気取ってるし、限界について触れていない(あんまり考えきれてない)文章になってて駄文と感じた。まあ、記憶殺し(ゴイティソーロ)や終わりなき交渉-折衝の線で読んでみた、というぐらいか。

 こういうとき、興味深い読解がすでにあるのなら、と調べるのだが、文学研究や文学批評と違って漫画に関してはどうアクセスしていいのかわかりにくくて難しい。そもそも刺激的な議論がすでに1つでもあるのかどうかすら疑わしいし。
 しばし調べてこんなレヴューを見つけたが、まあよく言われる側面はこの「相手との信頼関係の構築」なんだろう。そしてそのためにできるだけ下準備をし、相手の情勢を把握し、先手を取ることと、相手からの協力を互いの利益になるよう交換として行うかプロフェッショナルな間柄同士の友情に基づいていること。麻生外相がなぜか勇午を好きだという(こんなんウィキにわざわざ載せんなと思うが)のもこういう工夫と努力に基づく信頼関係や友情、さらには、それらをアドホックに打ち立てることに可能にする構えについて外交とのアナロジーを見ているからなのだろう。そういえば、かつて私はゴダールの言う行商人としての映画と柄谷の言う交通を混ぜたような発想から、(実際的な事柄や組織的制約などを全部捨象して)外交官としての翻訳者-批評家というモデルを考えていたのだが、念頭にあったのはこういう事例や人類学者の参与観察の概念からだったように思う。

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