● W.G.ゼーバルトとの対比(2008.9.19-9.23)
わたしはこの世界を観察し、解読したのち記述することでよしとしよう。そしてわたしの人生の各節は、エクリチュールというあの軽労働に、言葉を選択し抹消し、個々の挿話を逆さまに読むだけのことになろう。それも超越的な目に映ずるような真実の挿話ではなく、このわたしが自分で挿話を選択し、解釈し、並べ方を決めるものである
ジュネ『恋する虜』
《結局、漂白者でありながら、真実すら裏切ってのがれてしまう「書く」》という側面でW.G.ゼーバルトと類似があるということですが、たしかにゼーバルトには偽記録ともつかぬ記録と挿話の配置や、話者と媒介を重ねた奇妙な裏切り、中間休止のようなものがある。『恋する虜』や「シャティーラの4時間」などの後期ジュネにもそういう展開があるということなのでしょう。《『アウステルリッツ』の誰にも知られず朽ちはててゆく布団》《『恋する虜』の、すでに肉のあぜのなかにきざまれていたように近しい、パレスチナの少年たちの歌声》というふうにジュネとゼーバルトの差異を強調することができるということですが、これは現前化への経路というか描く際に現前の構造のどこを切り取るかで違ってくるため、必ずしも差異として対比できないかもしれない。
ゼーバルトには《「回想」という行為そのものにまつわる登場人物の強迫観念に支えられていた一方》で、ジュネにはそうした強迫観念が無くあっけらかんとしているとされているが、私はゼーバルトにおける話法は一種の装置として勝手に動いてて、人物の葛藤などはむしろどうでもよく、(大文字のではない)歴史が人称のかたちをとって語ってるように読んだ。話者/アウステルリッツの、分離させる必要があるとも知れない二重体は、人称的なズレを出しながら、人称のかたちでやる上で要請されてるのではないか。
噛み砕いて説明すると、(大文字のではない)歴史と言ったのは、『アウステルリッツ』では非常に個人史に比重がかかおっており、しばしばアウシュヴィッツの背景がある云々と言われるが(しかしそんなのを全く意識せず読むこともできる)、他の作品、たとえば『移民たち』では名も無き老婆がただひたすら移民してきた頃、その記憶をつらつら語るみたいなところがある。アウステルリッツでも、人物アウステルリッツがごく個人的な話題である父や母と過ごした日々の回想や、学校時代の歴史教師との語らいなどが出たり、小さな個人史、地域的な風土史や建築物(要塞)のモチーフも出たりする。記述方法で匿名の話者や歴史家を置いたり、大きな政治的事件を語ることもなく進行してゆく。
歴史が人称のかたちをとって語ってるというときに念頭にあったのは、話者がエッセーや歴史読物のように語りだすのではなく、話者が人物アウステルリッツが語るのを語る、という二重性があって、『アウステルリッツ』ではよく顕著な特徴と言われるように、「と、アウステルリッツは言った」が、回想している過去の描写の中に通低音のように何度も何度も反復される。誰かが語った、という媒介性を何度も強調しながらも、かといってアウステルリッツや話者そのものが重要なのではなく、こうした躓きながらの話法が目指されていたんだと思う。そこで、歴史を「誰かのものとして」の歴史としてありありと出すために、「語る」人称性みたいなものが出てきているのかなと。人称については、ブランショの「ひと(On)」とか、それをやや継承的に議論していたドゥルーズ・ガタリの間接話法の非人称性などから発想していた。
人称のズレというのは、話者(作中の「私」)とアウステルリッツのズレのことであり、二重体といったのは、語られている内容だけで見れば、話者とアウステルリッツを別々の人物にする必要も無く感じるが、このセットで語らせることに主眼があったのだろう。読んでると、話者がアウステルリッツの言葉にどう相槌を打ってるのかすら不明確で、どんどん話者の存在感が希薄になり、=アウステルリッツなんじゃないの、という気になる。
話法が装置として勝手に動くと言ったのは、ゼーバルトはそのような登場人物の内面や衝動といったものを描きたかったというより、それを介して現れる歴史の姿の方に重点があるのではないかという意味で、「歴史を語る装置」として動いてるんじゃないかと。勝手に、と言うと、何やら自律的な意味合いが出てきてしまうけど、そこまでは言いすぎかな。また、小歴史のトラウマを抱え込む人物を描きたいってのもあったんだろう。
《ジュネがパレスチナの歴史的闘争にあってみずからを「夢のなかにおける、夢想家の機能」と捉えていたこと》《「語りを介して現れる歴史」が虚構であることをいささかも恐れていないかのよう》と語られ、そこがゼーバルトとの違いではないかと言われたわけですが、これは書く対象の違いに由来するものかもしれない。イスラエル/パレスチナという対立自体が、ナショナルな、あるいはエスノ-ナショナルな独立意識と国家の建設という、フィクションの相が大きいものなわけでしょう。
また、私はサルトルの『聖ジュネ』は積んだままでいまだ要約ぐらいしか知らないのだけれど、ジュネが自らを「自発的偽造者」として描くということがすでに、周囲や環境による間主観性から自己規定していること=虚構 とみなしているというかたちで、サルトルの言う「ユダヤ人はユダヤ人とされるがゆえにユダヤ人」といった論法を引きずってもいるのではないか。ひょっとするとその上で、さらにその圏域からも逃れて逸脱しているのかもしれないけれど。問題は、フィクションの相を導入するにしても、どういうレベル、どういう構造で考えるかであって、フィクションの要素が見られるというだけでは問題含みだと思います。
ただ、《唐突に政治家の状況分析やフェダイーンの論争を挿入》というのはいい。『アウステルリッツ』読んでるときにいつこうなるのか期待してたんだけど、そういう感じにはならず、どうも「雑学的」な余談のモザイク状の集積にも見えてしまうといった、ややつまらないところがあった。
また、ゼーバルトについて考えると、挿入される写真や図面によって読者が見返される感覚みたいなのもあって、結果的に妙にジュネ側の記述-読解関係に近しい効果もあったりするのかもしれないが、この議論はまだ棚上げとなることでしょう。
● 新訳『花のノートルダム』(鈴木創士)訳者解説と初期ジュネについて(2008.12.15-12.16)
《天国と地獄はこのカテドラルにおいてはあらゆる弁証法的な契機を奪われ、「ざらついて」、目を覆いたくなるような、あるいは歓喜に満ちた、分断され絶えず横滑りしていく現実の核心を喚起することによって、そのまま同時に二つの世界として現存している》(訳者解説)。これは、和解・止揚にむけた弁証法的な契機が奪われることで非和解のままに二者が共に出現している事態を言ってるのだろうか。明記はされていないが、この視点には、ヘーゲルとジュネをつなげるデリダのGlasや、止揚抜きの(留保なき)ヘーゲルを語るデリダを思い出される。
鈴木創士(レス番号237)
「現実の核心」というのは、この場合、「ごろつきたちの身振り」のことなのですが、いい表現とは言えないかもしれませんね。ただ「現実的なもの」とか、また意味はちがいますが、「実在性」という言葉を使いたくなかったのです。むしろこれはマラルメがいっていたような「サスペンスの中心」を絶えず逸脱していく「ざらついた現実」(ランボーの幻滅)に近い意味で使ったつもりでした。ジュネのゴロツキたちの「悪」はジュネ自身がそれを裏切ることによって書かれるものだからです。それが弁証法的にひとつの世界になることは、微妙ですが、ないと私は考えています。その点ではサルトルの見解にもバタイユの見解にも組みできないのです。
おそらくここで念頭に置かれているのはサルトル『聖ジュネ』とバタイユ『文学と悪』のことだとして、なるほど、サルトルでは間主観的な認識としての「悪」になっていて、容易に回収されるが、ジュネの悪はそういう視点以外からいまなお読めるということだろうか。初期ジュネと後期ジュネを分けて、後期にとりわけ可能性がある、という読解は多いが、のみならず、初期もサルトルでは済まないのだと。
鈴木創士(レス番号245)
私が解説で明言しなかったことですが、あなたの言うとおりです。「初期もサルトルでは済まないのだ」と私もますます考えるようになっています。後期のジュネにいたる空白は、サルトルが『聖ジュネ』を書いて彼を生きながらに解剖したせいだけではないということです。
《ジュネのゴロツキたちの「悪」はジュネ自身がそれを裏切ることによって書かれる》という箇所を見るならば、ジュネの描くゴロツキたちの悪/それを描くジュネによるさらなる裏切り といった構図をなし、弁証法的に統合できない運動がえがかれるとして読んでいるようですね。これはいささか乱暴すぎる整理かもしれないが、間主観的な悪ならば「ユダヤ人と思われている人がユダヤ人である」と同様に、「悪とみなされていることが悪である」という図に収まるのではないか。そしてその場合、ジュネの悪は、そうした認識を先取りする行為としてあって…と回収され、ある種の基底が避けられない。一旦描かれた悪、とさらにそれに対する裏切り、として展開されていくように、鈴木さんが関心があるのは、むしろ「裏切りとしての悪」というか、そうした基底、回収不可能性へ向けた運動として考えたいってことなんだろう。実在性という言い方を拒んでいるのもそのためなのだろう。
あと、鈴木さんが読んでるか、好ましいと思うかはともかくとして、十川幸司の新著『来るべき精神分析のプログラム』の末尾についてる付論では二度にわたるジュネの変貌の契機を読解しているんだけど、『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』に言及される二度目の変貌である、72年のジュネの啓示について、コミュニケーションの不可能性を基礎付ける「同一性」という視点が出ていて、ちょっと面白かった。identitéというよりle mêmeの方を感じさせる同一性となっており、相互循環的なナルシスの視線関係を破壊する、永遠回帰としての同一性、と扱われていた。
けれども、初期ジュネと後期ジュネを分けて、後期にとりわけ可能性がある、という読解は多いが、のみならず、初期もサルトルでは済まないとするとき、十川もまた初期ジュネをサルトルで整理しているわけで、「後期のジュネにいたる空白」と言われている視点から見ると、ナルシスからナルシス脱却という図式じゃ済まない異なった連続性や変化から考える余地もありそうだ。
ゴロツキの身振りの悪があり、ジュネは魅了されている。そしてそれを書くことにおいて身振りが裏切られる。そうしたとき、いわば重要になるのは、書くということのステータスを、実定させた扱いをすることなくどう考えるか、ということなのだろう。弁証法に関しては、サルトル的な弁証法はヘーゲルと関係ないと喝破したアドルノに沿って、理論的な思弁だけでは掴めないステータスを考えるために、弁証法に寄り添って(簡単に離脱することなく)考えたい。それはまたいつかの機会になり、またしても棚上げされてしまいそうではあるが……。
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