2008年12月29日月曜日

心惹かれるブログ 二つ

1.
(最終更新08.12.29)

 nos氏のブログdaily report from mt.oliveをちらちらと読んでいる。このブログはパヴェーゼやストローブ&ユイレへの持続的関心が光っており刺激されていたのだが、最初の記事から読み直して着眼点に驚いた。更新速度の速さや記事の分量から想像するに、文章執筆にはさほど長時間はかけていないのだろう。しかし、長きにわたって思考してきたらしき足取りが短い短評にも生かされている。こうしたブログを見ると、人間、蓄積がないと思考の出汁もでないものだと思う。
 興味を引かれた論点にかぎり、しばらくにわたっていくつか抽出し、できれば小見出し作成のごとき一言コメントのみならずじっくり加筆考察していきたい。

ブログで注目した論点
●ベンヤミン-クロソウスキーへの関心:
 シミュラクルとアレゴリーを接続
 シミュラクルの複数性が、同時に同一性でもあり、そこに複数神学を見出す(フーコーのクロソウスキー論)
 ※ただしこれはグロイス/ジジェクの言う単一性と多様性は表裏一体という議論と同じ道に嵌らないか
  あるいはこの議論とさらに別の射程が今からでも引けるのだろうか
 (07.5.22a07.5.22b
 ・ドゥルーズ『シネマ』におけるウェルズ評価についてこの線で読む
  ウェルズの偽なるものをベンヤミン~クロソウスキーのアレゴリー/シミュラクルであるとする。
  そのため、『市民ケーン』の「薔薇の蕾」を「結晶核」と見るのは偽なるものの力を取りこぼしていると指摘。
 (07.07.1007.7.24、再論:07.11.10
 ・平倉圭のゴダール理解、ドゥルーズ読解を「類似」では同一性に回収されてしまうものであり、
  切り返しショットを類似ではなくそこにおける間隙として見ないとまずい、という指摘。
  ※ これは平倉論文評としては納得できるものだった。
    イメージ/言語にして、外的であるイメージを言語に回収するとまずい、
    という平倉は素朴すぎるのではないか。
 (07.07.0607.07.07
 ・ベンヤミンのカイロス的時間から『帝国』の時間論的展開としてのネグリTime for Revolutionへ注目
  ただの左翼ロマンティシズムだとする、よくあるネグリ誤解に嵌らないためにも重要な書とする
 (07.5.1507.10.30
 ・樺山三英『ジャン=ジャックの自意識の場合』をデリダ/ルソー、ドゥルーズ/トゥルニエ、ベンヤミンから注目
  ※議論らしい議論にはなってないがこうした着目の線を作る記事には惹かれてしまう 
  (07.5.23、再論:07.07.19

●マルレーネ・デュマスの絵画作品からまなざしとアイロニーを考える
 視線の非対称性、モデルのまなざし、見られているのに見られていない観客の関係
 (07.6.11
 ・ゴダール『アワーミュージック』や下記の小津読解は同様の視線関係の問題として展開されている

●ハイデガーのハイマート/ウンハイムリッヒを西谷修では済まないとし、故郷/異郷の問題を考える。
 ※ここでのギリシアーヘルダーリンとする視覚、およびフィクションの問題を考えるのは鋭い。
  ファリアスでも、リンギスやナンシーでも、ラクーラバルトでもハイデガーの故郷問題は
  まだ片付いていないというのはそのとおりだと思う。
 (07.7.21
 ・四方田犬彦『先生とわたし』で漏れ落ちる由良君美について
  ※ これは今まで見た本書の評としては最もいいものだった。
    高山、田中純の評はまだセンチメンタルな面が残りすぎているし、
    それ以外の好評となると、師匠/弟子の関係に共感している程度の域を出ない。
    哲次を父としたがゆえにロマン主義の問題にああもかじりつき、メタフィクション論から神話論、
    デリダやド・マンの読者にもなり、葛藤のなかにあったはずだという指摘にはうならされた。
    本書の評の多くで欠けていたのはこうした世界史的文脈における視点である。
    ただし、その上で今どこまで由良が読めるものであるのかが焦点になるだろうとは思うが。
    四方田には三木清、西田、由良哲次を含めた、京都学派の技術論やハイデガーとの共振問題が
    根本的に抜け落ちていて、哲次に関する章は「秀才の書いた体のいい伝記」程度のものだ。
  (07.8.17
 ・賈樟柯(ジャ・ジャンクー)『長江哀歌』読解
  ※ ここで論じられている男女は、いわば、別の錯時性のある時間が堆積した地層が
    人称化され、ドラマとして展開されているということだ。これはきわめて興味深い。
    本作は私は未見なのだが、言及されているCG映像とこの男女ペアの扱い方は、
    私にとってスレイマンの『D.I.』を考えるために発想した視点とほぼ重なり、
    この作品を見てみたいと思わせられた。nos氏が「みごとな韜晦」と呼んだ監督の発言は、
    スレイマンが『撮影ノート』で記した「ユダヤ系イスラエル人」への屈託と奇妙に重なる面がある。
  (07.08.30a07.08.30b
  ローカリティ/世界という対比からヴェンダースの軌跡とジャ・ジャンクーの軌跡を見る。
  ※ だがこの「世界」は全体小説における「全体性」とどう違うのか。
    世界都市=国際性という混交を導入しているのは理解できるが、
    こうした「世界」とは、世界=映画=ゲーム とし、そこからの脱出として
    アルトマンを読み(07.07.1307.07.1907.11.10)、トゥルニエ/ドゥルーズを読むnos氏の姿勢
    につながっているのだろうが、少々留保を置きたい。
    (中原・松浦の趣味的な言説など心底どうでもいいのだが、
    複製としてクロースアップやクレーンショットを用いるアルトマンの抵抗もまたシニカルなのではないかと疑問がある。
    とはいえ、nos氏のアルトマン評はポール・トーマス・アンダーソンの先駆者かつ、
    アンダーソンよりも優れた作家とするものであり、腑に落ちる議論であった)
    ただし、ヴェンダース評としては「今読めるヴェンダース」になっており、未見作品を含め興味を引かれた
  (07.09.29
 ・ストローブ&ユイレ『彼らとの出会い』『ヨーロッパ 2005年10月27日』の読解
  開かれとしてのカイロス(希望の時)、いまと永遠(クロノス)との間の間隙としてのカイロスの回路。
  そして、間隙を導入するためのゴダールの切り返しショットと、
  ストローブ&ユイレの視線の交差なき向かい合いを、問題設定を同じくするものとして読む。
  いわばここにもまた、天使の問題があるのだと。
    ※ 失われた神話とその出会いの想起という軸。
    これはまさにハイデガーの故郷/異郷、ギリシアとその翻訳(ミメーシスとしての翻訳)である。
    この点で、ストローブ&ユイレはロマン主義と単に無縁であろうとしているという藤井仁子の指摘は
    かなりまずいものがあり、nos氏の指摘は浅田でも藤井でも漏れてしまう重大な問題を見ている。
    (藤井の視点にはマッケイブの語るゴダールにハイデガー/ベンヤミン的なロマン主義が抜けているのに似たところがある)
    そもそも、アファナシエフとの対談でヴィーゼルが、ゴダールがどこかで語った
    「儀式の喪失と、その喪失の記憶」のユダヤの寓話に触れる浅田が
    まずもってこの問題を無視しているのがおかしいのだが。
    (2005年の講演のように)旧左翼の歴史的弁証法/新左翼のミクロ政治力学 を
    ストローブ&ユイレ/ゴダールに当てはめてしまっては、双方ともに見えてこなくなる局面が多く、
    むしろゴダールもストローブ&ユイレもともに翻訳の問題に取り組んでいるとみなすべき。
    ただしその介入局面、制作プロセスとの関係はかなり違うものであり、
    かつ、原作のアダプテーションとしては双方ともに「正しさ」が基準ではないのだと。
    これのみならず、浅田のこの講演は問題が多いのだが以下略。
    浅田-蓮實を「各ショットのトポロジカルな既成の美学に押し込んでしまう」と指弾する
    nos氏の見切りかたには共感を覚える。
    トポロジカルな分析に代えてストローブ&ユイレを「ショットの光と音が明確に切断/接合されていく」と指摘するのだが、
    同様の発想から私はフォーサイスをかつてストローブ&ユイレに見出していた。
    高速/低速という対比は二次的な差異に過ぎない。あるいは、速度を知覚能力に沿って考えすぎなのではないか。
  (07.10.08a
  ロッセリーニ『ヨーロッパ 1951年』は「死者、つまり「過去」をも救済することを目指」したものであり
  イングリット・バーグマンは「世界そのものとの切り返しショットのごとき向き=合いを見せる」。
  (「戦後映画」としてのnos氏のこの着眼は小津論における原節子の取り上げ方と好一対となっている)
  この継承、続編として『ヨーロッパ 2005年10月27日』があるのだとする。
  クロノス的には単なる同一物の反復でしかない同じショットを、
  同じものではないとして見るために5回の反復が要請されている。
  かつて言った「1968年5月についての映画を撮ることはできない」という発言。
  その姿勢は出来事の再現、再演奏に対しての留保であっただろう。
  晩年において日付を冠した『ヨーロッパ 2005年10月27日』を少年の死を再現するのではなく撮ろうと、
  日付の固有性/脱固有性とともにストローブ&ユイレは模索したのだろう。
  ※ これは同じく遺棄されたがごとき「少年の死」でもって終わる『ドイツ零年』に対して
    東西ドイツの終焉において歴史の間隙を見取る『新ドイツ零年』を撮ったゴダールと対比するとき、
    ストローブ&ユイレのペアとしての最後の作品になる『ヨーロッパ 2005年10月27日』は興味深い軌跡だ。
    変電所というそれ自体は歴史的固有性が希薄な土地・建造物を映しだしながら、
    日付の刻印とともに不在の少年の死を反復とともに提示しようとしている。
    ただ、この二つの日記は、「それはカイロス的時間である」で止まってるな。
    もうちょっと論を展開させることができるように思う。それは私の関心であるが。
  (07.10.08b



mixiの方
・小津「東京物語」の紀子(原節子)を情が凍結された空虚であり、紀子のショットは無限を見ている
 あるいは何も見てはいない、亡夫を愛してもいない、という指摘(mixi05.4.23-5.1)
 ※ここで思考されているのは、山中がこだわった原節子と言及されているように、
  時間をとめたように亡夫の写真を飾り「歳をとらないことに」決めたという紀子は
  いわば戦争後遺症のような巨大な穴として描かれているのだという視点にほかならない
 義母の紀子宅での宿泊後の死は紀子の嘘に由来した犠牲なのだが、
 その贖いのために本当のことを言おうとする紀子を義父は肯定するという転換がある
 「許されるはずのないことが、許されるはずのない人間が、許されてしまうのである。
 ありえざることが、起こっている。」と氏は言う。義父が肯定するのは
 彼もまた時の止まった尾道に生きているからであるのだと。
 小津の時無き人口世界はこうして必然性をもって成立している。
 終わりもまた紀子の顔はそら恐ろしいのだと。
 ※もはやこの段にいたって戦争後遺症などと(ドゥルーズがネオリアリスモについて語るようには)
  うまく回収されない。虚空に向かって突き抜けているような無のみが口をあけている。
  ここにいたって、もはや東京物語読解はジュネを語るバタイユよりもなお無性の露呈と化している。
・井筒~スフラワルディーのラインからイスラム神秘主義への関心
・エラノス会議、ショーレム/アドルノ/ベンヤミンにいたるメシアニズム・ユダヤ時間観への関心
(以上の二つはmixiのa:b:r:a:x:a:sトピック、エラノス会議トピック、ショーレムトピックなどで言及)

感傷的想起
 読んでいくうちにnos氏がmixiをやっているとの記述に出くわし、はたと気づいた。私はこの人の名をかつて何度か目にしていたのだと。たしか彼の『アワーミュージック』評を最初に目にしたのだ。そしてまるで日記の多くをチェックしないままにお気に入り登録だけはしていたのだった。きっと何か気にかかるところがあったのだろう。お気に入りにはおよそ登録されていないのに残っていたのだから。なぜか記憶の中ではパラジャーノフやビクトル・エリセの印象とつながってすらいた。しかしそれは日記とは何の関係もない印章のごときイメージだったのだろう。2,3年ぶりに彼の日記欄を再び開いてみる。2004年から2005年にわたって詩のような語りのような作品があった。光景が立ち上がる詩をネットで偶然見つけて胸打たれたのは久しぶりだ。いや、気取るのはよそう。おそらく初めてのことだ。そして彼がドゥルーズとベンヤミンを愛するのを、昔の友達と再開したように得心した。それはかつて見た文章だったからではない。
 思うに文章の淀みのなさに私は感銘を受けていた。数年前、私がチャットと掲示板だけで何がしかのことを議論しあっていたとき、ある種の流れのある文体が書けていた。その文章は今読み返すと、無用な気取りと拙速な結論、力量不足のために当時どのような文字の走らせ方をしていたのかを取り違える。自分の過去は幼さばかりが目に付いてしまう。だが、私もある種の文章の思い切った走らせ方に賭けていたときがあった。論理的展開にとって一見これは些事に思える。だが、筆の進み具合が持ち込むリズムは不意に書き手の思考を喚起させるものがあり、文章への姿勢を貧しくさせ切断しようとしていた私には、その絡み合ったものを忘れていたようだった。そう、私はnos氏の文章を読んで何かを取り戻したのだろう。

※nos氏はmixiにおけるエラノス会議、山城むつみ、『エデン・エデン・エデン』、メルヴィル、クライスト、フラナリー・オコナー、ロバート・アルトマン、ユジャン・バフチャル、ハンス・ヘニー・ヤーン、ヤコブ・ベーメ、a:b:r:a:x:a:s、などをはじめとするトピック主でもある。

2.
Uoh!というブログがある。
 パヴェーゼに興味を持ち、岩波書店によるパヴェーゼ全集企画を耳にしたことをきっかけに(ただし残念ながら選集といった企画である)、一体いままでの訳にはどんなものがあるのかと探している途中で見つけた。そのときに他に出会ったのがnos氏のブログだった。Uohの持田氏は未だ未邦訳のパヴェーゼ『レウコとの対話』を2008年6月から断続的にブログ上で邦訳しており(2008年12月現在、27編中9編が邦訳されている)、その持続性、パヴェーゼを読むためにイタリア語をやり出したという歩みには驚嘆させられる。
 とりわけ注目すべきは、ヘルダーリン、ハイデガーに親しみ、パヴェーゼと厳しく格闘するさなかにある者ゆえのストローブ単独監督作『アルテミスの膝』への鋭い指摘である(08.12.15)。かくも目を開かしめるストローブ作品評に出会うのはきわめて稀なことであり、私自身すら力強く叱咤されたかのような気持ちになった。ストローブ&ユイレ作品はいまなおろくに議論されていないのだと言ってよい。

 「分からないことを口にするのはよろしくないことです。分からないことを分かっているかのような口ぶりで語るのはさらによろしくありません。だからと言って分からないことを分からないままにして押し黙るのも意気地のないことですし、分からないことから完全に目を背けてしまうのは卑怯な場合さえあるでしょう。分からないことを前にしたら分かろうとしなければなりません。分かるまでその場に立ちつづけなければなりません。」(08.12.20)。
 この一節には少なからず心を揺さぶられ、泣きそうになった。感動のみならず自らの羞恥心によって。

 ピンダロス/ヘルダリン『第三オリュンピア/ピューティア祝勝歌』を原案とする戯曲『SoPrates』に持田氏は演出・翻訳・編集として参加しているようだ。一体どんな作品なのだろう。

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