2015年7月4日土曜日

レジュメのレジュメ 「モダニズムの再検討」(『モダニズムのハードコア』太田出版、1995)

最初のレジュメ(モダニズムのハードコアの座談会)の方のver.2

論点に沿ってさらに再構成、「モダニズムの再検討」(『モダニズムのハードコア』太田出版、1995
《基底面/実在、エクスキューズ、形態》
 想像=知覚される複数の基底面(面)のあいだの矛盾(その効果を「透明性」と呼ぶ)
 →実在を、ガラスの実在(リテラルな透明性)というかたちにではなく、知覚される複数の基底面(面)の矛盾というかたちで事後的に要請されたもの、と考えること。
  =客体的にある事物/複数の基底面が知覚され、その間に矛盾が生じる。この経験を実在と考える。
  →グリンバーグの言うような[図=交換可能なもの/地=基底面=交換不可能なもの]という対立ではなく
(その場合だと、後者が単一性を保証するもの、建築においては均質空間のようなものと考えられてしまう)、
   複数の・交換可能な地・基底面をどう考えるか、という問いになる。
   →ex. ●アイゼンマン
:基底面を複数煮するために、都市には複数の軸線があるというかたちで与件を捏造し、その矛盾において作品を成立させようとしている。時代の層を矛盾するかたちで提示させている。ただし、時代の層を(捏造するにせよ)提示するという手法は、「場」を作品が成立するための前提としている。
●コールハース
       :同様に与件を捏造する。両立しない諸部分を矛盾させたままに共存させ、社会的機能から決定されるなプログラムからグリッドで並列させる。だが、このときの諸部分/グリッドでは、近代的な実在する均質空間(ex.オスマンの都市計画)と同じことになるのではないか。
また、このときの表象する主体の分割は、[①美しいもの・人/②それを見出す人]になっており、同様に建築家自身の[①形態をプログラムとは別に操作する/しかし、プログラムで構成したとエクスキューズをつける]でもある。このズレゆえに有効なレトリックとして受容されてしまう。これは、グリンバーグ~フリードが、彫刻・絵画・家具というジャンルが複数のコンテクストとして重なり合っている過程(なりそこない)こそを芸術とした、世俗的総合(①作品の属性は観客に依存しており、②ジャンルという複数のコンテクストが重なっている過程、これを芸術とする)と同じことになる。
とはいえ、主体の表象というエクスキューズを無視して形態から、コールハースの建築を見ることも可能で、その場合にはアイゼンマンやジェームズ・スターリング、イームズと比べることもできる。
      ……この、エクスキューズにかかわらず見ることができる「形態」とは、「場」や、そこに蓄積した歴史性、主体の表象、基底面と無関係なものなのか? なお、「いかにして舞台から消え去るか」「技法を明示的に発言することなく、形態を多元決定する主体を演ずること」とは、制作者が代表をしないために採るべき次善策として主張されている。
      ●ジャッド
       :他方、ジャッドは、彫刻・絵画・家具などにまたがって制作したが、それぞれのジャンルの区別を認めないようなものにしていた。基底面さえも排除して、予め単一性(図と地が対立しない一つのunity)へと作品を物象化している。そのため、実在はなく、感覚与件としてのオブジェがあるだけ。
      ……この、基底面を複数であろうと単数であろうと示さずに、単一性へと物象化された作品の感覚与件と「形態」とはどういう関係か。どう見ようとフェノメナルな矛盾や変化のない、リテラルな単一体?
      ●カロ
       :断片的な諸部分の接合だけ。接合=ずれを解釈すると、複数のコンテクストが、複数の基底面が要請される。つまり、諸部分を選択することで複数の[部分/全体]という与件が成立しており、これはアイゼンマンの手法と同じ。
                           
    →・[与件の選択/複数の基底面が要請される]→何を与件に選択するか、という問いになる。
・形態を決定するエクスキューズに回収させないように、二つの主体/観察者で「形態」から見ること。見させるため採られるべき作家のふるまい
・コンテクストの重なり合いを利用せず、予め単一性へと物象化して提示
   ……交換可能な地として考えられた「基底面」と、「形態」とをそれぞれ位置づけするパースペクティブは?

《基本アルゴリズムの検討と「複数の言語ゲーム」のあいだ》
浅田の見解。対位法の基本アルゴリズムはx-x1/x-1/x(原型、逆行型、倒置型、逆倒置型)の単純なクラインの四元群となっている。この単純さを残しながら単純に見えないために、表面において複雑なセリーを施して構造を形成していた。だが、現在では基本アルゴリズム自体を複雑に設計できる。模索する余地がある。たとえば、対位法にとらわれることなく、偶然のコインシデンスさえもジェネレートできるようにアルゴリズム(組織化のプログラム)を複雑化させること。
 岡崎の案。〈先験的な前提を回避〉 コールハースのような社会的機能から決定させるものだけではなく、フラーのように外部環境をまったく無視したものを考えることもできる。いわば、ここでは先験的な空間を前提にしないで住宅を自立させている。また、経験の主体を自称することもないので名前を持たない。
 〈複数の言語ゲーム〉 ヴェネツィア派、とりわけティツィアーノの制作手法では、前景/光景、人物/背景、明暗、奥行、色相といった諸秩序が複数の言語ゲームとなって、アーティキュレーション(分節化=接合)の様子が分かりにくいままに分散・溶融しあっている。これが「見尽くせない・記憶しきれない」魅力となる。複数のシェーマが階層化されずに重ね合わされ、シンタグムがあることがわかり、「読むに値する」ことを知らせる。全体を統合する空間軸や時間軸を成立させることなく、確率的なかたちで相互に矛盾する複数の全体性を喚起し、ジェネレートさせる。そのために、パラディグムの広さや矛盾した重ね合わせをおこなう。こうして喚起された複数の全体性は、異なる事物が確率分布となって配置される、「濃度」としての構造なのだ。決定は、構造的布置がそれ自体を決定する。構造のなかにヴァリアントとして形態があるのではなく、形態から構造を見ること。
 だが、基本アルゴリズムの模索は岡崎の方法だけではないはずだ。「複数の言語ゲーム」とそれが「読むに値する」のを知らせること。確率分布と構造的決定としての美的判断。これ以外の可能性を検討するためにも、これらの厳正な位置づけが必要とされる。


0 件のコメント:

コメントを投稿