2015年7月4日土曜日

レジュメ 岡崎乾二郎・浅田彰・磯崎新「日本語版特別座談会:〈Anyway〉を終えて」

『Anyway』所収座談会はモダニズムのハードコアとほぼ同時期に行われ、論点も重なるものだった。そのため、当時松岡新一郎は二冊両方をとりあげる書評を書いていた(「モダニズムのハード・コアといかに付き合うか」 , 『InterCommunication』no.13, Summer 1995, NTT出版, pp.106-108)。こちらは『Anyway』所収座談会の方の縮約形。

レジュメ
岡崎乾二郎・浅田彰・磯崎新「日本語版特別座談会:〈Anyway〉を終えて」
(浅田彰・磯崎新監修『Anyway:方法の諸問題』NTT出版、1995pp.264-285
 


美敵領域、用と美のレトリック、美を見出す主体の立場
美的領域、道徳的領域、科学的領域は、相互に自立・連係しあっているわけではなく、美敵領域は道徳や科学に依存して正当性を求めている。そのため、ワトキン『モラリティと建築』が言うように、神学、社会的プログラム、工学的プログラムへと建築理論は根拠を見出そうとする。この三つは、磯崎にとっては「ユートピア、国家、テクノロジー」とも言い換えられる。
他方、美的領域の自立が主張されたときには形態から建築が言及されることになる。与件によって輪郭を限定された形態が自立しうるのか、普遍的を獲得できるのか、と。そこで、美と形態が用との関係をもつとき、民芸運動においての美と用のレトリックは見直される必要がある。
 コールハースの問題。与えられた大文字の社会のプログラムを代弁すると言うけれども、代表としてふるまっている。各々の正当性をもった小文字の建築を破壊するのではなく、守ってやろう、守る主体(大文字の社会)を代表しよう、と。ユニヴァーサル・スペースという名の均質空間のなかにパティキュラーなものを、少々コンフリクトを起こそうが全体的に包み込む主体を代表しようとする。これはある意味で非常に官僚的な立場である。
 正当性を保証しようと、小さな個人的な偏差の原理として官僚はこうした言い方をする。このとき用いられるのが民芸運動での論理である。柳宗悦は二枚舌で使い分ける、「この芸術作品は、芸術でありながら役に立つからいい」「この道具は役に立つけれど美しいからいい」。美と用は無条件で結びつかないからこそ、有効なレトリックを構成する。この論理では、この美と用の分割にしたがって主体も二つに分割される。①美しいものを作ったという自覚をもたずにオートマティックに制作する人間と、②その美しい使い方をする人間に。このレトリックでは、宮沢賢治の「デクノボウ」と同様に、あくまで「無名の陶工」が「無心に」「無目的に」つくるとされる。ハイデガー的な目的論で言うと、手段へと転化させないために、「生きるために生きている」「これはこれ自体で美しい」といった自己目的的に完結することが求められる。
 コールハースは同様に、美に顔を与えるのではなく、美を見出し保護する、使用する主体を自称する。ヒューマン・スケールを超えたビッグなメガストラクチャーの中では、小さなヒューマンな美をなんでも差別なく収納できる、と。ブルータリズムが生の素材を美として発見することや安藤忠雄の素材操作もまた、偏在する美を活かすという意味で同じ論理であり、ここでは用と美が共存するという欺瞞がはたらいている。
 鶴見俊輔『限界芸術論』。柳宗悦や宮沢賢治は芸術家になりたかったのだが、表現したい、代表したいという自分の欲望に対して倫理的に悩む。そこで、専門家が作って専門家が享受する純粋芸術でもなく、専門家が作って大衆が享受する大衆芸術でもなく、自己完結型に自分が作って自分で享受する限界芸術(周縁芸術)という立場に向かう。周縁的なところで大衆が作って大衆が享受する。芸術は、目的に従属する普通の記号ではなく、それ自体を目的とする楽しい記号である。食べるための二次的な労働ではなく、それ自体が目的である一次的な労働。こうした疎外論的なモデルから倫理性な正当性を与える。こうなると、作ること自体が目的になっているのでPCだから批判できなくなる。柳宗悦の主張とは、作り手が専門家として自覚しないで作ったにもかかわらず、質だけが分離して高くなり専門的な領域にまで達しているものを見出すのが自分の務めである、不当に抑圧されているものを見出すのが私の立場である、というものだった。芸術家や建築家には、美を受動的な対象とすることと美を提示することの二つの必要から、このように受動性を他者にゆだねたふりをして他者を引っ張ってきて囲い込むレトリックがある。
コールハースの言うプログラミングもそれに近いのではないか。一人一人が何をしてもいい、ただしそれが言いか悪いかは判断するな、それを美を目的として作ってはならない、ただ作ることを楽しみなさい、それを選ぶのは美術館や博物館、民芸運動の民芸館である、と官僚的にふるまっている。このようにメタ・レヴェルに主体を置き、オブジェクト・レヴェルの小さな主体はみんな好きにやって市場で競争せよというのは、官僚主義であり資本主義の論理なのだ。

デミウルゴス的な名人、多元的決定にさらされる技法・形態操作へ
 だが、これらは形態を括弧に入れるための弁解、エクスキューズにすぎない。弁解の理屈を言うのではなく、形態を多元決定する主体を演じてしまえばどうか。本物の神でもなく、大文字のアーティストでもなく、しかし与えられた与件から無私で奉仕しているわけではない、そのつど根拠を捏造しながらモノにこだわって作り続ける…デミウルゴスとしてふるまえばよい。依然としてプログラミングから一義的に形態を決定することはできない以上、なぜこの形態かという問題はつきまとう。建築家の主体を完全に機械的なメディウムに置き換えることはできない。むしろその主張は、機会を総括するメタ・レヴェルの私へと主体を持ち上げて温存するレトリックとして機能してしまう。いまや、代表の論理に対する抵抗の拠点にできるものは、現場の一個一個の判断にはシンプルには一貫していない多元的決定があるという部分だけになってしまった。
 エクスキューズから無関係にコールハースの形態を見るなら、アイゼンマンに比べることも、スターリングやイームズと比べることもできる。コースハースの語彙はしばしば共通しているし、彼の言う理屈もスターリングとイームズの折衷とみなすこともできる。その点を見落として建築家がだまされてしまうのは、1930年代のように非常に危険な状況である。日本の戦争期には、民芸運動や宮沢賢治こそが共感を誘うもっとも強力なナショナリズムとして機能していた。この状況を回避するためにも、多元的決定として形態の問題が前景化されるべきだ。
 コールハースがエクスキューズとして言うような主体の分割にしたがうならば、①オブジェクト・レヴェルにおける無自覚な他者としての美(代入可能な項、便利屋)、②メタ・レヴェルにおいてそれを見出す主体(代入可能な枠を作るキュレーター)、という現在の美術作品展示の問題規制に陥る。そのうち、アーティストがキュレーターとなってオルタナティヴ・スペースを自分で確保して作品を発表するようになるだろう。だがこれはストレスが多く、消耗していくばかり。やはりもう一度名人となって(しかも誰に認定されずとも名人を自称しながら)、もっともラディカルに主体の分裂を引き受けるのがよいのではないか。本当はわかっていても、代表の論理を口にすることなく、技法を単純化することなく、わからないと言うようにして。

テクノロジー、複数のシステムからなる語彙と用法のインタラクティヴィティ、変動する与件のもとで
 20世紀初頭に自動車や飛行機など人間を外部空間へと拡張させるマシン・エイジのテクノロジーが出現し、60年代末にはロケットで月にいくことで頂点に達する。戦前のバウハウスの作業は、そうしたテクノロジーをいかに建築言語へ翻訳するかというなかで、社会的な革命や改革のヴィジョンへとつながって構想された。それが戦後アメリカでイデオロギー抜きでスタイライズされ、50-60年代に一般化されたものがアメリカ型のモダニズム。だが、70年代以降は、人間の内部に折れ込んでくるような質の異なるテクノロジー(ex. 脳内の情報処理のシミュレーション、細胞内の情報処理を研究などの情報科学や生命科学)が出てきて、それが電子情報網やバイオ・エンジニアリングとなって生活の現実を再編しつつある。このテクノロジーはかつてのテクノロジーと比べて、可視性が低く、建築言語やデザイン言語に取り込む試みはなされてはいるが容易には進行していないようだ。
建築であれ何であれ、すべてを覆い尽くそうとしても、すべての建築家がその同じ欲望をもっているゆえに、それを覆うような屋根は架けられない。小文字の形態や戦略的にミニマルな語彙にまで減退された形態、分散されてしまった技術を統合しようという誇大妄想がバウハウスにしてもあったわけだが、それは不可能である。それに代えて、具体的な輪郭、フォルムをいかに引き受けるか、ということが課題となる。
フォーマリズムは閉じた、限定された場所でこそ成立する手法だった。限定された語彙、つまり閉じた集合を開く手法にはブリコラージュもある。だがこれには的確な説明原理がまだない。説明するにはプログラムに基づいた言い方になるが、現在このプログラムを構成している要素は、クライアントの要請とか容積比など不適当なままになっている。ゲーリーの名人芸には説明原理があるけれども、それを言えないのはあくまで説明原理の方に問題があるのだ。説明原理がうまく成立しないため、社会的に開き直れないことに、1930年代に表現主義が成立するのに失敗した理由があった。
 ブリコラージュでも、語彙は閉じた集合であっても話され方は開いている。つまり、語彙が形成する集合とそれを使用する用法の集合の二つの形式が必要であり、この二つの形式からなる複合的判断がある。だが、従来のインタラクティヴ・システムと呼ばれているものは、単に選択肢の集合を広げてユーザーが選択できるようにしたというだけで、作っている方はその全体を見渡すことができていてインタラクティヴでもなんでもない。そうではなく、作っているときに組み合わせる複数の言語やシステムによって、使うときに予期しないことが起きてしまうというのがインタラクティヴである。言語ゲームにおける「暗闇への飛躍」。これは、カオス理論におけるカオスと同様に、そのつど一応部分的な理屈や方法の集合が成立するということであり、ブリコラージュとはそうしたもの。
現状で言われているプログラムとは、デュシャンの言う与件(後から「与えられたからやりました」と説明するための与件を周到に捏造すること)に近い。現段階のプログラミング論は、どこか大文字の社会に責任を預けたところから、社会でなされている操作に対してディスプログラミングを提示することにとどまっている。必ずしも正当性をもってはいないギヴンのプログラムに対して、カウンター・プロポーザルをおこない、批判的に再編制することが現行のプログラミング論であり、全体の組み建て直しにまでは及んでいないのだ。
そうした不徹底を排し、真のディスプログラミング論へ向かわなければならない。社会的なインフラストラクチャーのネットワークに頼ることなく、物質=エネルギーよりもソフトウェアに重点を置いたシステムを構想する必要がある。サラエヴォはその実験場ともみなせるだろう。フラーのダイマキシオン・ドームは、形態をリテラルにとらえるのではなく、その発想から見ること。与件がないと言ってしまうと、ない空間が考えられてしまうので、与件は安定していないと言った方がよい。私たちが主体と同一化しているヴィジブルな形態は、与えられた条件によって受動的に発生してきたものであって、あえてニーチェ的、クールベ的にその与件を抵抗のあるものへとすり替え、主体を変更可能なものにする。サラエヴォを待つのではなく、サラエヴォ的状況に自分をもっていくという自己鍛錬。ブリコラージュを形式的に記述するなら、そうした方法があるのではないか。
ブリコラージュにまだ可能性があるとしたら、変化する与件のなかで能力を問うということにある。実際、戦争などで与件が変化したときにどう生き延びたかという点が、テラーニやミース、ジョンソン、丹下らの評価では焦点となる。今まで自明としていた前提が露呈し変換されたとき、今までの方法論が自立して生き延びられるかということが問われるのなら、それを先取りし、その方法論で主体を分裂させ、自分をいたぶるような与件のもとで自分を組み替えていくしかない。能力の訓練方法にはスポーツや舞台演技と同様にメソッドがあるし、いくつかのセオリーも分散的にあるだろう。
 

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