(2010.8.12のログから。若干の加筆修正。cineeyeさん・tysmtさんとのやりとりのめいたものに。cineeyeさんの言っている『アニメルカ』寄稿の記事とは2号所収の「手がイメージを見る」のこと。)
cineeye: 『アニメルカ』では、まさにこのことを空気系アニメとの関連で書きました。 RT @ttt_ceinture: その軽さゆえに、スクリーンセイバーのように画面上で放置しやすいんだろうな。注意力を集中させなくてもよいと最初からされているような…。ベンヤミンの「気散じ」…?(URL)
空気系=気散じ? 対項は何なのだろう。
cineeye: 対項はシネフィル的な「注視」ですかね。映画批評もアニメ批評も「画面をよく見ろ」ばかり言うので、むしろ情報量が少なくて、気を抜いて見れるものの方がすごくね?という単純な論ですw(URL)
注視/弛緩の対立を崩してもいいかもね。前にこのまとめ内で言ったけど、観想-集中と気散じ-習慣は一回性と反復可能性にある程度対応しているのでしょう。で、この二つはむしろ対立してないととらえることもできると思っているので、いわば、習慣や反復可能性の中でこそ作品の細部が別の見え方をするというのもあると思う。蓮実は劇場での一回的経験を強調するけれど、細部の発見には気散じのもとで反復させていた方が効果的だったりする。そのため、注視と反復可能性は実のところ混ざり合っていて、そもそも蓮実の映画の語り方は一種の反復可能性のもとで語りなおす面もあるように思う。つまり、言動不一致がある。そう考えると一回性のアジテーションとは無縁にシネフィルは行動しているとも言えるかも。注視の条件は気散じであるとか、そういう攻め方もできるかも、と思った。でも、そこでの「注視」は一般的にみなされているようなものとはかなり変わるかもしれないけど。でも、こうやって気散じを語るだけだとなんか片手落ちかもしれないな…。注視の方を組み立てなおすまでやった方がいいのか。
cineeye: なるほどー。たしかに蓮實は一回的な体験を強調することで、細部を「映画史的記憶」に回収してしまいますね。そこがある種のトリックというか、レトリックといえるかもしれない。気散じと反復可能性についても論じたので、わが意を得たりという感じです。細部を細部のまま、「強い主題」に回収されない形で、反復的に受容することとして「萌え」を捉えました。注意の条件は気散じである、これはまさにクレーリー『知覚の宙吊り』の主題で、そのクレーリーも大いに参照しました。まあ、主に参照したのは『観察者の系譜』ですが、もちろん前者も意識しています。(URL: 1, 2, 3)
それってめっちゃテマティスム=萌え要素の話ではないかと…。蓮実の言う「官能」とテマティスムの両方を萌えの対象/要素に投入させたわけね。そこで蓮実相対化をしつつつなげるのはわかるけど、話がそこで終わりそうな気がして私はやる気がなかった点だった。ああ、『知覚の宙吊り』ってそんな話をやってたの。知らなかった。
cineeye: いや、萌えにおいて、テマティスム/官能性が崩れていくというところまで論じたので、もうちょっと先までいったのではないかと思います(まあ、それほど自信はないけれど…)。詳しくは読んでくださいと言う他ないのですが。(URL)
へえ、それは面白い! 読んでみたいな。
cineeye: 主題にしても、官能にしても、それは「目」を引き付けるという意味で視覚性に基礎付けられていると思うのですが、空気系アニメはこの視覚性という基盤をも揺るがしているのではないかと考えています。(URL)
tyskmt: 部分が全体を内包する萌え要素となるのかな?(URL)
部分と全体の議論って映画-蓮実にあっては、鬼門のように触れられてこなかった問題圏。全体の内包として突っ切った議論は見たことがないな…。私は部分と全体を分けて考えてた。部分と全体の関係って、実際どうなんだろう。私はここが最大のホットポイントだと睨んでいたんだけど、まだ思考がまとまらない。アルチュセールの最終審級と重層決定の分裂みたいに考えてたな。
cineeye: 部分と全体ということについては論じていないけど、今後考えるべき問題だと思います。(URL)
tyskmt: 局所と大域が被るというラカン的構造……(URL)
部分(細部や要素)と全体は重要だと思う。蓮実にあってはテマティスムやジャンル論が全体性を確保する手段だったと思うわけね。私の大雑把な整理についてはブログにある蓮実まとめ参照。
cineeye: tttさんの蓮實論は前に読ませていただいて、大いに啓発されました。テマティスムとジャンル論で全体性を確保しているというのは、その通りだと思いました。私はそこを「ゆるさ」や「相対的」という言葉でずらそうと思っているのですが、うまくいっているかどうか…。(URL)
tyskmt: 部分と全体を離散的総合させればいいんでしょうね……(URL)
cineeye: 「部分が全体を内包する」と言うとき、全体がすっかり部分に収まってしまっている(モナド論)と考えるのだけは避けたいと思う。ドゥルーズは『シネマ』で「開かれた全体」と言っているけれど、全体と部分がどちらにも回収されないような構造を考えたい。(URL)
蓮実においては被るようにはしてあるんだけど、かぶり方が独特すぎるし、限界があるという認識。どうかぶるか、どう連動するかってあたりをつめていく必要があると思ってる。そうするとその産物の一つとして蓮実を割とあっさり相対化できるんじゃないかなと。
ゆるさをどこに仕込むかによって議論が違ってきそう。私のまとめは「5分でわかる蓮実システム」状態になってるけど、何気にイメージ個々の取り扱いなどの話はしてないんだよね。というかぶっちゃけ、蓮実はイメージ単体があるように見せかけたんじゃないかと思う。
cineeye: イメージにすべてがある、といういつもの断定ですね。官能やテマティスムもそこにつながっているのだと思います。(後略)(URL)
蓮実には指差して同定可能なショットなり画面なりを単位にできるという身振りがあると思う。あのまとめではレイヤー間の賦活によって錯覚が成立しているとしたけど、レイヤー単体というのはほんとに抽出できるのだろうか、という発想もあり、そうした課題設定において蓮実を引きずってるのだろうと思う。そこで、私はレイヤー個々の分割と相対的自律性といったアプローチとはやや異なる発想をしている。たとえばエリア・スレイマンの『DI』を私が偏愛してるのは、レイヤーが同型性をもって反響してるような構造があると見てるからだった。つまり、レイヤー間関係を変える作品の構成を求めていた路線。私はおそらく、レイヤー個々を取り扱うのではなく、レイヤーの別の総合を求めているという意味では蓮実の影響が濃く残存しているんだと思う。ただし、映画は短くていいし構成があればそれでいい、みたいな路線なんだけど。
前にストローブ&ユイレについてゴダールからの発展だと見ればわかりやすいと言ったけど、あの件はテキストや構成の手順からだったけど、スレイマンはテキストは無いんだけど、構成の手順をゴダールのような小単位から作っていく路線で、ショートレンジの構成方法がそのまま全レイヤーの構成と同じになる。ゴダールは大抵、AからBへ、で済む話で、東独から西独へ(『新ドイツ零年』)、パリから親類の家へ(『ウィークエンド』)、フランスからサラエヴォへ(『フォーエヴァーモーツァルト』)、煉獄から天国へ(『アワーミュージック』)となる。で、途中で何かが起こって失敗する。なので、A/B間の境界と移行過程の構成だと見ればわかりやすい。で、A/B間の関係を、Aにいる私がBについて考える、みたいになると『ヴェトナムから遠く離れて』になる。そういうA/B間の境界と移動の構成が『DI』には露骨なのね。しかもAとBが判別できないような展開をしている。四方田犬彦が『パレスチナ・ナウ』でスレイマン初期について『ヒア&ゼア』の残響が見られると言っていたけれど、『DI』だけを見てもスレイマンがゴダールから継承的課題を抱えていることが見て取れる。『DI』は、簡単に言うと、ショット間関係がA/B(男/女)間の切り返しなどのレンジでできてる+二項間の距離がメロドラマとしてジャンルをなしているが、二項以外がものすごくシンプルに削り落とされている+境界の往復と非対称性だけが話の原動力になってる。二項問題に同心円状に貫徹されている。細部単位の最小要素の構成の仕方を、そのまま全体構成にまで貫徹する路線。部分から組み立てる意味ではゴダール路線で、ゴダールが構成しきれなかったやり方をとっていると見ている。
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2010年8月20日金曜日
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