2010年8月20日金曜日

ゴダールの構成 1

2010.8.3のログから。若干の加筆修正)

 80年代後半の後期ゴダールからゴダールを見始めた私は、初期作をあまり見直してない。『勝手にしやがれ』を見るとあまり乗れず、初期作には映像の溌剌さが特徴とされるが、むしろセバーグショットなどに関心が向く。大きく後期と異なるのは、使用されている音楽の趣味やショットのリズムなどだろう。『勝手にしやがれ』の場合、移動カメラで活発に動き回って撮っているため、ショットの持続性やショットごとのつながりが人物の行動に沿って数珠繋ぎにされたものとして見えすぎる。
 ゴダール作品の構成を、しばしば取り上げられる映像上の短絡・圧縮(ジャンプカット)、生き生きしていること(カメラワーク)、とは別視点から読みたくなる。たとえば、「最低 dégueulasse」はポワカールが最初に金をせびりに行った女から言われる台詞で、ポワカールは勝手に財布から盗み取るけれど、そのままパトリシアに密告として反転してる、といった視点から。映画館入り口のハンフリー・ボガートのブロマイドとにらめっこして、独りポワカールが眉間に皺を寄せて「俺、似てね?」というふうに切り返しがおきるのは面白い。当人は鏡のつもりで見ているような180度切り返しがある。
 ただし、構成がシンプルすぎて発展性がほとんど出てこないのもゴダールの悪癖だ。ゴダールの作品の大半は「A地点からB地点へ」でまとまる。今回は、ローマから来たポワカールがパリで事件を起こして、別のところへ逃亡しようとするけどそれが躓く構成。多くの作品の構成は、頓挫する過程になっている。

 ゴダールの欠点は退屈さというより、むしろ「ぱっと見で楽しすぎる」ことにある。見てるだけで妙に収まりがよくなってしまう。そこで、シンプルな構成単位をうまく反復させてそれ自体で組織化させるところまでにはいたってないのだが、その点が気にならなくなってしまう。その乖離が欠点。古典映画とか初期映画は、とりあえず見てればいい代物が多いので似てると言えば似てるけれども。
 シンプルな構成要素のまま、『「マリア」のためのシナリオ』など、エッセイを書くように思考している後期では展開が見られる。語彙や事物をつなげたり飛躍させる作業。初期ゴダールに物足りなさを感じるのは、プロットがただショットを詰め込む器になってて相互関係が薄いからなんだろう。それと同時にショートレンジの思考に陥ってしまい、断章群の集積でしかないような限界も明らかになっているが、初期がショットの美学にたやすく回収されてしまうのに比べれば刺激的だ。エッセイ路線では思考と構成の連結が不足し(思考作業と製作が一体になっている意味では間違ってないのだろうが)、一方、『アワーミュージック』『フォーエヴァーモォツアルト』『愛の讃歌』では、複数の編や登場人物たちのユニットや時間の層が、構成要素の別のレイヤーを作りかけてもいる。しかし悪戦苦闘中でもあり扱いが難しい。

 ショットとプロットの双方を二者択一ではない絡ませ方において、シンプルさと構成をいかに同時に実現するか。ショットの成立条件をむき出しにし、最小限に抑えることで、自由度が高まったようにしばしば感じられるが、同時にショットがショットとなる成立条件は頑なに保守される逆転も生じる。ショットとプロットという分け方は、カメラ・脚本というそれぞれの生産手段や生産物に依拠しているが、作品の構想-構成においてプロットは文字通り構成というよりも、交渉や媒介の手段になることもあり、notationそのものではないのだろう。ショットもプロットも、何らかの帰着点や開始点にしないような議論の仕組みが必要になるんだろうが、採録の際にはつねにプロットが産物となり、見る際にはショットから見ることを経由することになってしまう。絵画の写真と筆触みたいなものか。
 しかしこのとき、そうした読解に見合う作品が必要なのか、そうした読解のための思考が必要なのか、どっちなのだろう。ショットはつねに見てしまう入り口になるのだからその場所が無くなるわけではないけれど、ショットに中心化させずにショットの生産を取り扱うにはどうすればいいのだろうか。作品から「プロットを読む」というとき、別種の言語に一旦還元しなおすことを意味する。テマティスムだって還元手法の一つだ。テマティスムが還元に思われてないのは、画面から可視的な要素を拾ってきてそれらを組み合わせて、要素によるプロットを作り上げ、前述のプロットを保存しつつ部分的に絡ませることで、可視的要素だけで作品をもう一度作り上げことができるように錯覚させることができるからだろう。単に要素や要素の関係性を拾い上げ、プロットと再度絡ませるのではなく、ショットを成立させる、選択された環境のように編み上げることはできるのだろうか。そのとき、可視的要素の列挙というよりむしろ、関係性を規定する要素の抽出が必要になる。
 『勝手にしやがれ』は、独り(ポワカール)→ペア(ポワカールと女友達)→ペア(ポワカールとフランキーニ)→独り(ポワカール)→ペア(ポワカールとフランキーニ)→別のペア(刑事とポワカール)→ペア(ポワカールとフランキーニ)→独り(フランキーニ) の推移がある。独りのときにポワカールは独り言を繰り返し、助手席に人がいるかのようにしゃべり続けたり、鏡に向かうように映画俳優のブロマイドとにらめっこして写真を見つめながら表情を変えていく。フランキーニが最後には独りになるときは、ポワカールが残した言葉で自問自答し、誰でもない方向を見つめて終わる。男女のペアのときは、金銭や服、新聞、記事を書く約束、寝るか寝ないかをめぐって、言葉の上か手を用いて、奪取したり据え置いたり先延ばしにし、一方から他方への何かの移送が起きているか阻止されている。刑事とポワカールのペアの場合、刑事が獲得しようとしているのはポワカールの身柄自身なのだから、追う/逃げるという非対称な構図が生じる。フランキーニが気を持たせ先延ばしにされ続ける男女のペアの進行は、刑事とポワカールの構図が終点を迎えることで、成就されることなく区切りをつけられる。相手の気持ちを尋ねるときには台詞が(何度も繰り返される「愛」のフレーズは目に見えない物品のようだ)、もののやり取りには手の動きが手段となっているが、画面では歩行による移動がカメラの動きを導いている。人物間の駆け引きでは台詞が、人物間での動作では手と物が、画面と人物との間での相互関係では歩行や車の走行が、それぞれの関係性や構図を成立させている。

 テマティスムというよりは、テマティスムが扱う素材を配置させるそれぞれの層における関係性の構成、諸構成の相互関係、構成において何が終始点をなすか、というふうに見ていくこともできるのだろう。しかし下記の規則のような考え方は、ショットへの求心力といわば「ショットへの還元」が際立つゴダールからこそ別方向に引き戻すために意味ありげには見えても、ここまで雑駁だと一般性のある分析手法にはまるでならないな…まあ、画面上の可視的要素、人物間の諸関係性、画面と事物・人物の相関関係を画面の現れに対してより先行的に把握、のみならず作品や作家や領域ごとにレイヤーを考えて、それぞれの複合状態を見ればいいか。

0 件のコメント:

コメントを投稿