マゾヒズム的段階
ベルサーニ『フロイト的身体』で論じられる、エディプス的抑圧なき多形倒錯のマゾヒズム的段階は、蓮實の「まず画面を見よ」が要求する状態とよく似てますね。映画紹介者としてのみ蓮實を通過するとマゾヒズム的段階にはピンと来ないかもしれないけれど、蓮實はまず画面より始めよ、と零度の状態から始めさせるんですが、これを文字通りにやると制御不可能な膨大な刺激量のカオスに直面する。そこで、蓮實はその宣言と「同時に」整流させる秩序を与えることで読者を染めた、というのが私の見立てなんですね。また、その秩序は経験の追体験的記述であったと。「視聴チューターとしての蓮實」というわけです。マゾヒズムとカオス/秩序とその非明示、はドヤ顔で今言わなくともブログ記事の方で書きましたが。
欲動の組織
なぜ文体やイディオムにおいて蓮實の模倣がああも生じるかというと、刷り込みが生じてるというか、リビドーのレベルで「経験」の枠組みが規定されてるというか…。前は精神分析における分析家の系譜(教育分析によって一対一で分析家を養成する)に似てるんだろうなとみなしてました。蓮實というのは、経験と文体を絡め合わせて、真理の運動であるかのような欲望を組織し得た奇妙な人なんですね。褒めるとそう言えるけど、停滞がひどいので勘弁してほしくはある。
真似する雛形が蓮實として与えられ、そこで「映画経験」を見つけたから反復になるわけです。おのれの経験を賦活するための文体操作にしか向かわないから、研究の視点において不十分でごまかしがあると見られる細部指摘の不十分さは、いわば二次的なものゆえなんですね。彼らが、蓮實や特定の映画をけなされると我がことのようにキレたりヘイトを噴出したりすることがありますが、それは自分をけなされたと同然に受け止める程度に主客がまざっていたり自分の「経験」の構成に絡まってるからでしょう。追体験記述の文体という一部系統を除くと、シネフィルの大半は趣味のコミュニティであり、ヘイトをぶちまけて嬉々とするナイーブな擬似エリート気分の連中にすぎないですし、真なるシネマの輝きがあれば人は正しく生きるのである、といった言説で満足する人が多い。リシャールや詩学では起きなかった経験の激しい転移がなぜ蓮實の場合起きたかというと、テキストとちがって眼前に存在しない映画を想起や想像的なものを経由して個々人において立ち上がらせる段取りだったためでもあるんでしょうね。精神分析で言われる転移の局面は映画批評のみならず批評ではしばしば生じることなんですが、蓮實圏域では特徴的な現れ方をしていたわけです。
経験・記述の話を踏まえると、よく言われる「作品内在的である・ではない」承認は、その上記の賦活形式の話なんだろうと思うわけです。蓮實近辺から演出分析にまで含む「内在」は、多くの場合、特定のイディオム運用や経験追体験喚起的な記述方法をとりつつ一定の展開を持たせることなどへの、生理的反応か研究領域のセグメンテーションとの呼応であるものが多いんじゃないかな。
精神分析と蓮實
私は、経験をめぐる変なシステムとして映画や映画の語り方に興味をもったし、認知訓練のようなものとして蓮實チューターを使った。私は、あまり裏付けなく、精神分析の運動自体(理論や現場というより)と映画の言葉がすごく似てるという認識からシネフィル経験がはじまってるんですよ。その前にヌーヴォーロマン好きだったから、再現記述の関心が先行してたのも大きかった。一度蓮實のチュータープロセスを潜ったわけですが、その私の経験を再構成すればこんな感じになります。
精神分析の類似性とは、フーコー図式でいうならば非理性との対話に駆動されているとも言えるし、大雑把に言うにしても、言語以前を含む主体形成を、言語から遡行するようにして探求する目的のセッティングがあるでしょう。フロイトならば死の欲動や反復強迫など、医学や心理学を逸脱するような概念群にいたる。あと、患者や症例の一回性を認めるでしょう。症例の示す出来事の真理みたいな局面もある。これって映画経験をめぐる文彩に似てるというか、蓮實は密輸入して盛り込んだんじゃないかと。患者=作品の一回的経験から語る分析家=映画批評、とね。私はラカンより先に赤間啓之や十川幸司を読んでたから、ラカン共同体とラカン臨床の絡み合いをイメージしてた。
精神分析と現象学のもつれた系譜からヌーヴェルクリティックが生まれたという認識は、ヌーヴェルクリティックのみならず広く考え直すにはよいかもなあと思ってる。
サスペンス形式
蓮実にあってメロドラマ=サスペンス形式は、過剰のための予期の包囲と、その上での過剰との接触の前準備になるから構造に対する外部=過剰という枠組みと連結してる。他ジャンルへの規定は知らないけれど蓮實は基本的にサスペンス形式の全面化の人です。蓮實特有イディオムである「出会い損ね」「待機・予期」「宙吊り」とかはそのサスペンス形式において先取りされた形式のもとで個々のショットの位置づけながら、ショットを追体験喚起的に記述するときの構成にかかわってる。
上記の過剰というのは、構造から漏れて、構造を釣り支える一点として機能するものですね。「構造とその外部」と言われるとき「外部」やゼロ記号とか。哲学寄りで精神分析やフロイトが読まれるときに、超越論的なものとか言われる。
蓮實における過剰とは、要するに特定のショットで、それを浮かび上がらせるためにジャンルじみた枠を召喚するわけです。といってもサスペンス形式。超越論的な思弁の枠組みをサスペンス形式捏造の際に密輸入したんじゃないかな。この種の超越論的なものとは、経験的には存在しないが、経験を条件付け、構造化するものですが、こういう枠組みを換骨奪胎してるから、蓮實が組織した欲動は「シネマの真理」の闘争みたいになっているのでしょう。彼のサスペンス形式は、通常サスペンスとみなされていないものを飲み込むのが特徴的で、たとえばロメールの『グレースと公爵』ですらショットのサスペンス的到来と待機の空間として読むわけです。もはやシステマティックな手続き。内在的と声高に言われもしますが、作品に外挿されるメソッドである面もあるわけです。メソッドといってもショットの経験の仕方をレイアウトしてるという手の込みようがあるので、一見してわかりにくいだけで。
私の考えてる蓮實と精神分析との並行性は、精神分析そのものを応用するというよりは、テクストを構成するレベルの類似といった感じなんですよ。まあ、蓮實を語るにあたって精神分析について拒否されうるけど、蓮實もまた精神分析から何らかの密輸入を図ったのかもしれず、しかし黙然としていたのであれば、精神分析との並行性を、「著者の意図」とは別に回復させて読むのは一考に値するだろう、と言えるのでは。
(注 前に書いた蓮實素描の補完的記事)
(注 前に書いた蓮實素描の補完的記事)
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