(最終更新2008.7.17)
ボリス・グロイスBoris Groys『全体芸術様式スターリン』は面白い。ロシア研究・ロシア文学研究の人しか読んでないのではないかと思うほどに日本では不当に読まれていない美学者なのだが、彼はZKMの姉妹組織であるカールスルーエ造形大学の「哲学とメディア理論」部門の教授で、この部門の学部長はスローターダイクだったりするのだ。つまりドイツ現代美学とロシアの交差線にいる人でもあり、2002年のドクメンタ11のカタログにも論文を寄稿している。Multitude webの22号ではエリック・アリエズも寄稿しているヴァイベル小特集が組まれておりグロイスも文章を載せてもいる(ヴァイベルはメディア理論、知覚理論の研究者であり、90年代にアルス・エレクトロニカのディレクターも勤めた)。グロイスがドクメンタ11で書いた文章は「Art in the Age of Biopolitics: From Artwork to Art Documentation」というのだが、彼のロシア・アヴァンギャルド論自体、党=芸術家による生・生活の技術設計主義というアプローチであり、その彼が生政治における芸術を論じるのは適役だろう。『全体芸術様式スターリン』の初読の際、党組織を外して考えたらこの問題はいまなお現代的なのではないかなどとしばし思った。今年初頭にグロイスはArt Powerという英語新刊を出したが、カタログでしか読めなかった上記論文が掲載されているようなので注文。
・『全体芸術様式スターリン』以外の邦訳済みのグロイスの論文には以下のものがある:ボリス・グロイス「ユダヤの逆説、ヨーロッパの逆説:テーオドール・レッシングの『ユダヤ人の自己憎悪』によせて」(1991、中澤英雄訳);「新しさについて」(鷲江めるろ訳)[pdf]、金沢21世紀美術館研究紀要『R』issue 2, 2003
・ヴァイベルについては:「知性的イメージ──神経(ニューロ)映画か、量子(クォンタム)映画か?」(堀潤之訳)、『Future cinema 来たるべき時代の映像表現に向けて』NTT出版、2003、pp.26-37.;「速度の時代における巨大写真像」(前川修訳); NTT ICCのHIVEにあるビデオインタヴュー(1997年製作?)
グロイス関係で調べていたら、いくつかのサイト・記事を見つけた。
・アトミック・サンシャイン - 九条と日本
(キュレーターの渡辺真也のブログ。グロイスとの会談の記事(08.3.4)、酒井直樹研究室への訪問(08.6.01)、近代と法制度やヨーロッパにおける宗教/世俗性によるその下地という視点(いい線いってると思う)、などなど興味を引く。こういう人いるんですねぇ)
・■[本]スローターダイク『デリダ、一人のエジプト人』 - もぐらの国
(スローターダイクの仏訳新刊Derrida, un Egyptien(Maren Sell, 2006)の雑駁な書評。デリダ/グロイスの対比が論じられているらしく、興味を引く)
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積んだままだったラクー=ラバルトの本を読んでいる。連動させてハイデガーのニーチェ論、ヘルダーリン論を読もうと思っている。ちょうど増田靖彦「思考と哲学 ドゥルーズとハイデガーにおける」(『ドゥルーズ/ガタリの現在』)がニーチェ読解を軸にして、ドゥルーズ/ハイデガーの対比を行っていて興味深い。なにしろドゥルーズもまたヘルダーリンに相当のこだわりを持っているのだ。ヘルダーリン全集を買おうかと思いつつある。ベンヤミンの未読・既読テキストを再び読みたいと思っている。
Bygの文中のtwofoldを二重襞と訳したのは蛇足だったかな。別にあれは存在論的差異でもなさそうだし。
●7/4追記部
Bygの翻訳ではlanguageを原則として「言語」に、wordを「言葉」(文脈によっては「語」)に訳し分ける。Bygがどの程度ハイデガーの議論を意識しているのか。ハイデガーは、たとえば『言葉についての対話』で「言葉」に相当する、Sprache/Wortが出てくるが(高田珠樹訳ではそれぞれ言語/(単)語か言葉。従来の訳語では前者は言葉)、英語訳ではlanguage/word(Peter D. Hertzによる英訳)、通常、仏訳語ではlangueかparole/motが相当する。
●7/7追記部、7/11加筆
現在までに訳文は16段落ぐらいまで来ているのだが、11段落目以後出てくるド・マン、ベンヤミンの注記に該当邦訳ページ数を記そうと、投稿を先送りにしている。それぞれをある程度読み終えてから投稿を続行する。
「目次」の方に乗せるのはある程度訳の投稿記事がたまってから。最終的には、現在やっている対訳記事は投稿日付を数年前に飛ばし(最終更新・初投稿の日付は注記に残す)、 読みやすく邦訳文だけをまとめたものを目次に置くかたちにするかも。
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アントワーヌ・ベルマン『他者という試練:ロマン主義ドイツの文化と翻訳』(藤田省一訳、みすず書房、2008)を読んでいる。面白い。ドイツ・ロマン主義において詩・翻訳がいかに絡み合っていたかについて議論している。ベンヤミンを相当意識しながら書かれており、かつ、こうした主題に関しては著者の発表時点(1984)においても、ロマン主義でいわれていたことのパラフレーズを超える水準での充実はほとんどなかったらしい。例外的にアンドレアス・ヒュイッセンの60年代末の著書が挙げられているが。
完全に蛇足の指摘をすると、巻末のBibliographyにちょっと穴があって気になった。ジョージ・スタイナーのAfter Babelは上巻のみだが邦訳がある(永久に2巻が出ないかと思われていたガダマー『真理と方法』2巻が、上巻から20年を隔てて先ごろ出たのだから、『バベル以後』も下巻が出る可能性だってある)。あとは挙げられていたデリダの『プシュケ』所収論文のいくつかも邦訳が別の単行本・雑誌に存在している(「隠喩の退-引」「バベルの塔」など)。このへんを訳者には記してほしかった。 なお、藤田氏がブログで乗せている破棄された訳者あとがき第一稿の一部でBygの本が触れられているので、最初藤田氏がみすずで翻訳中なのかと勘違いしてしまった。
ところで、ベンヤミンとドイツロマン主義に関する議論の書籍(メニングハウスなど多数)や、ベンヤミンとカフカおよびユダヤ性に関する議論の書籍(ハンデルマンやモーゼスなど)が、訳者とその協力者によって作成されたBibliography追加箇所にあまり見当たらないように思った。文学と多言語使用に関わる翻訳、という軸に関しては上記の追加一覧でフォローされており、その一環としてBygの本も挙げられているのだが。
非常に面白い本なので、読了次第何か論点をピックアップして書くかも。
●7/17追記
ド・マン、ベンヤミンの邦訳頁数の注記は後回しで、作成済みの邦訳段落を載せることにした。対応頁数は追々加筆する。それまでは「p.-」とでも仮においておこう。
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2008年7月1日火曜日
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