第11段落~第15段落
(最終更新:2008.7.17)
(原文 第10章第11段落p.202.)
Translation and its impossibility are of great importance to both Hölderlin and Benjamin. What we will see is that the problems and virtues of translation form much of the interest that Straub/Huillet bring to bear in the cinema, both in the area of so-called adaptation and in the question of fiction versus documentary and the ontology or truth of the cinematic/photographic image. If we examine the scarring of the text by translation, we will get closer to the issues that these texts and these films raise.
(第10章第11段落)
翻訳とその不可能性はヘルダーリンとベンヤミンにとってきわめて重要だ。翻訳の諸問題と諸力は、ストローブ&ユイレが惹起させた関心の多くを形成している。彼らは映画において、いわゆる改作〔翻案、編曲〕の領域、フィクション対ドキュメンタリーという問い、映画的/写真的イメージの存在論や真理といった関心を惹起したのだ。翻訳がテクストに傷跡〔瘢痕〕を与えることについて分析するとき、これらテクストと映画作品によって生じる問題設定[issues]にさらに接近することだろう。
(原文 第10章第12段落p.202.)
We turn here to Benjamin's essay "The Task of the Translation" as well as Paul de Man's reading of it in The Resistance to Theory . In general, we can postulate that Straub/Huillet's method of filmmaking is quite analogous to the act of translating as Benjamin describes it. De Man points out that Benjamin's text is in fact a "poetics," investigating the relationship of poetic language, intentionality and meaning, and history. Many of Benjamin's observations about poetic language, as revealed through the task of the translator, apply directly to the filmmaking of Straub/Huillet.
(第10章第11段落)
さて、ポール・ド・マンが『理論への抵抗』で読解したようにベンヤミンの試論「翻訳者の使命」に立ち戻ろう。おおよそストローブ&ユイレの映画制作の手法はかなりのところ、ベンヤミンが描く翻訳行為に類似しているのだと仮定できる。ド・マンはベンヤミンのこのテクストにおける詩的言語、言葉が意図するところ〔志向性〕[intentionality]、意味作用、歴史がどのような関係を作っているのかを吟味し、このテクストは内実において「詩学」なのだと指摘する。詩的言語は翻訳者の使命を通して露呈されるというベンヤミンの見解の多くが、直接にストローブ&ユイレの映画制作へと適用されている。
(原文 第10章第13段落pp.202-203.)
First of all is Benjamin's insistence that the translation, as de Man puts it, "per definition fails."[19] It is not the task of the translator to express anything but merely to demonstrate the relationship between languages. This, in turn, does not reveal the meaning of the original but instead shows its "temporary" quality: the original, too, is "foreign."
[19]. Paul de Man, "Conclusions: Walter Benjamin's 'The Task of the Translator,'" in The Resistance to Theory (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1986), 80. The troubling revelations, after de Man's death, of his wartime journalism in Belgium have produced much published discussion of questions of guilt, collaboration, anti-Semitism, and the relation of de Man's silence about his past to his practice as a critic. Although it is poignant that de Man's last essay treats Walter Benjamin, who committed suicide in 1940 while fleeing Nazi persecution as a Jew and a Marxist, I believe one can find de Man's interpretation of Benjamin useful without either demonizing its author or stylizing him as a tragic brother figure of Benjamin. For a discussion of these issues, see Shoshana Felman, "Paul de Man's Silence," Critical Inquiry 15, no. 4 (Summer 1989):704-744 (followed by a group of related essays in the same journal); and Responses: On Paul de Man's Wartime Journalism , ed. Werner Hamacher, Neil Hertz, and Thomas Keenan (Lincoln: University of Nebraska Press, 1989).
(第10章第13段落)
まず第一にベンヤミンの主張では、ド・マンが言うように、翻訳とは「定義の機能不全を介する」ものだ(19)。翻訳者の使命とは、何かを表現することなのではなく、単に諸言語のあいだの関係を実演することなのだ。起源の〔本来の〕意味を露呈させ、これまでの読解に成り代わることではなく、むしろ「一過的」な特性を提示する――そう、起源がすでに「異邦の〔外国の〕」ものなのだ、と。
(19). ポール・ド・マン「結論:ヴァルター・ベンヤミンの「翻訳者の使命」」、富山太佳夫・大河内昌訳『理論への抵抗』(国文社、1992)。ド・マンの死後、厄介な事実が暴露された。それは、彼が戦時中にベルギーにいたころ、ジャーナリズムで対独協力や反ユダヤ主義といった罪深い論点の議論を数多く雑誌に寄稿していたことであり、彼が批評家としておのれの過去の実践について沈黙し続けたことだ。ド・マンの最後のエッセイがヴァルター・ベンヤミンを論じたものだというのは痛烈なことだが――ベンヤミンはナチからのユダヤ人迫害およびマルクス主義者迫害から逃れるなかで1940年に自殺する――、彼のベンヤミン解釈は有用だと私は信じているし、ド・マンを悪魔化すること必要も、ベンヤミンと〔真逆のものとして対比させて〕悲劇的な兄弟の肖像の型にはめてしまう必要もないと信じている。この一連の議論についてはショシャナ・フェルマン「ポール・ド・マンの沈黙」、『クリティカル・インクアイアリー』第15巻第4号(1989年夏号)pp.704-744(この号には本論文を含むもろもろの関係論文も載っている)や、ヴェルナー・ハーマッハー、ネイル・ヘルツ、トマス・キーナン編『それぞれの応答 ポール・ド・マンの戦時中ジャーナリズムについて』(リンカーン:ネブラスカ大学出版、1989)を参照。
(原文 第10章第14段落p.203.)
To give honor to this reality, Benjamin proposes a number of rather provocative "givens." The first is the categorical assertion that a work of art has nothing to do with an audience. Benjamin reduces the postulation of an audience to the postulation that humans exist at all, which becomes meaningless. Straub/Huillet's persistent refusal to manipulate the grammar of "film language" to reach a bigger audience is entirely consistent with Benjamin's position.
(第10章第14段落)
〔テクストの意味がつねにすでに異邦であるという〕このリアリティに敬意を示すベンヤミンは多くの挑発的な「与件」を提案する。まず主張される定言的な〔無条件な〕原理は、芸術作品を考える際に観衆のことなど何ら考慮する必要はない、ということだ*6。ベンヤミンは観衆がおこなう要求を人間の存在がおこなう要求に帰し、そんなことはまったく無意味だと言う*7。より多くの慣習に届けるために「映画言語」を操作するのをストローブ&ユイレは粘り強く拒否しているが、その姿勢はまったくベンヤミンの立場と一致している。
*6. categoricalはカントの定言命法(kategorischer Imperativ)の意味で使われているようだ。givenは認識上のアプリオリな前提、という意味に読み、与件と訳した。
*7. 「翻訳者の使命」冒頭部ではこう語られる。「芸術作品ないし芸術形式について考察しようとするとき、受容者を考慮することは、それらの理解ににとっていかなる場合にも決して実りあるものとはならない。(…)〈理想的な〉受容者という概念ですら、あらゆる芸術理論的な論究においては有害である。なぜなら、芸術理論的な論究というものは、もっぱら人間一般の存在と本質を前提としなければならないからである」。「悪しき翻訳は、非本質的な内容を厳密さを欠くままに伝達することと定義できる。その際、翻訳が読者のへの奉仕を事としているかぎり、事態は変わらない。(…)〔というのは〕翻訳が読者のためにあるとするなら、原作もまたそうでなけばならない〔からだ〕」。内村博信訳「翻訳者の使命」、『ベンヤミン・コレクション2』ちくま学芸文庫、1996、p.388-389
(原文 第10章第15段落p.203.)
Straub/Huillet's position on the translation of the subtitles for their films reveals both their affinity for Benjamin's position on translation and its relevance for their cinematic adaptation of texts as well. In her own translations into French and in her requests to me in making the English translation of the subtitles beginning with Class Relations , Huillet insisted, as does Benjamin, that "the word is the primary element of translation."[20] Using word-for-word translation and respecting the original syntax wherever possible, metaphor and equivalent expressions in the second language were to be avoided at all times.[21] The translation was to be neither a replacement of the original nor an "interpretation" of it. This method pushes comprehensibility to its limits, since, as de Man points out, the German word for translate is a version of the word metaphor : "It is a curious assumption to say übersetzen is not metaphorical, übersetzen is not based on resemblance, there is no resemblance between the translation and the original."[22] Indeed, the French of Huillet's subtitles (for Antigone ), in the view of Laurence Giavarini, lets the verse form of the German and the Greek show through.[23]
[20]. Walter Benjamin, Illuminations , ed. Hannah Arendt, trans. Harry Zohn (New York: Schocken, 1969), 79 (translation altered); Illuminationen (Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1955), 66. Cited hereafter with page numbers from the English edition first, followed by those of the German.
[21]. See Joël Magny, "Lecture d'Empédocle," Cahiers du cinéma 402 (December 1987):xiv.
[22]. de Man, Resistance to Theory , 83.
[23]. Laurence Giavarini, "Antigone, sauvage!" Cahiers du cinéma 459:38-40.
ストローブ&ユイレが自身の作品の字幕翻訳に対してとる立場によって露呈されるのは、それが翻訳についてのベンヤミンの立場と類縁性があることと、彼らがテクストを映画に翻案するのが翻訳と関連性があるということだ。ドイツ語からフランス語への字幕翻訳はユイレがおこない、『階級関係』以来は私がドイツ語から英語への字幕翻訳をユイレから依頼されているのだが、その作業にあってユイレが主張することは「翻訳の原初的なエレメントは語にある」と、さながらベンヤミンのようなのだ(20)。語を語でもって翻訳し、かつ、できるかぎり全面的に原文の構文を尊重しながら、翻訳言語において比喩や等価表現を用いて変形してしまうことを絶えず回避しようとする(21)。翻訳は原作の置換物でもなく*8、原作の「解釈」でもない。こうした方法は、原作の理解可能性を限界に追いこみ、ド・マンが指摘するように、翻訳にとってドイツ語の語は一種の比喩語にまでなってしまうのだ。「übersetzen(翻訳)*9は比喩的なものではないと言うのは好奇心を惹く仮定だ。übersetzenは類似に基づかず、翻訳と原作との間には類似はないのだと」(22)。実際ローレンス・ジャヴァリーニが見るには、ユイレによる(『アンティゴネー』の)仏訳字幕はドイツ語とギリシア語の詩形をあらわにする[show through]ものとなっている(23)。
(20). ベンヤミン「翻訳者の使命」p.79〔-〕。ハンナ・アレント編『イルミネーション』に入っている英訳版は、ズーアカンプ刊『イリュミナショネン』の原文とは少々変更されている。以下で引用する際には最初に英訳版の頁数、次にドイツ語原文の頁数を示す。〔判明した箇所に限り、〔〕を付して邦訳の対応頁数を示す〕
(21). ジョエル・マニュイ「エンペドクレスの教え」、『カイエ・デュ・シネマ』402号(1987年12月号)、p.xiv
*8. 交換物、代用品、とも訳せる。displacement(位置ずらし、転位)との対比を念頭に置いてるのかも。
(22). ド・マン『理論への抵抗』p.-
*9. übersetzenは英直訳するとtranslate。cf.アントワーヌ・ベルマン『他者という試練』藤田省一による「序論」訳注3:「〔Übersetzungは〕ドイツ語で「翻訳」を指す語のひとつでüber(…の上に、を超えて、の向こうに)とsetzen(置く)からなる動詞übersetzenの名詞形。フランス語に無理に直訳すればtrans-poserとなる。同様に「翻訳」を意味するÜbertragungも類似の成り立ちである(フランス語でtransfert)。」
(23). ローレンス・ジャヴァリーニ「野生のアンティゴネー!」、『カイエ・デュ・シネマ』459号、pp.38-40
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2008年7月17日木曜日
2008年7月1日火曜日
日記1
(最終更新2008.7.17)
ボリス・グロイスBoris Groys『全体芸術様式スターリン』は面白い。ロシア研究・ロシア文学研究の人しか読んでないのではないかと思うほどに日本では不当に読まれていない美学者なのだが、彼はZKMの姉妹組織であるカールスルーエ造形大学の「哲学とメディア理論」部門の教授で、この部門の学部長はスローターダイクだったりするのだ。つまりドイツ現代美学とロシアの交差線にいる人でもあり、2002年のドクメンタ11のカタログにも論文を寄稿している。Multitude webの22号ではエリック・アリエズも寄稿しているヴァイベル小特集が組まれておりグロイスも文章を載せてもいる(ヴァイベルはメディア理論、知覚理論の研究者であり、90年代にアルス・エレクトロニカのディレクターも勤めた)。グロイスがドクメンタ11で書いた文章は「Art in the Age of Biopolitics: From Artwork to Art Documentation」というのだが、彼のロシア・アヴァンギャルド論自体、党=芸術家による生・生活の技術設計主義というアプローチであり、その彼が生政治における芸術を論じるのは適役だろう。『全体芸術様式スターリン』の初読の際、党組織を外して考えたらこの問題はいまなお現代的なのではないかなどとしばし思った。今年初頭にグロイスはArt Powerという英語新刊を出したが、カタログでしか読めなかった上記論文が掲載されているようなので注文。
・『全体芸術様式スターリン』以外の邦訳済みのグロイスの論文には以下のものがある:ボリス・グロイス「ユダヤの逆説、ヨーロッパの逆説:テーオドール・レッシングの『ユダヤ人の自己憎悪』によせて」(1991、中澤英雄訳);「新しさについて」(鷲江めるろ訳)[pdf]、金沢21世紀美術館研究紀要『R』issue 2, 2003
・ヴァイベルについては:「知性的イメージ──神経(ニューロ)映画か、量子(クォンタム)映画か?」(堀潤之訳)、『Future cinema 来たるべき時代の映像表現に向けて』NTT出版、2003、pp.26-37.;「速度の時代における巨大写真像」(前川修訳); NTT ICCのHIVEにあるビデオインタヴュー(1997年製作?)
グロイス関係で調べていたら、いくつかのサイト・記事を見つけた。
・アトミック・サンシャイン - 九条と日本
(キュレーターの渡辺真也のブログ。グロイスとの会談の記事(08.3.4)、酒井直樹研究室への訪問(08.6.01)、近代と法制度やヨーロッパにおける宗教/世俗性によるその下地という視点(いい線いってると思う)、などなど興味を引く。こういう人いるんですねぇ)
・■[本]スローターダイク『デリダ、一人のエジプト人』 - もぐらの国
(スローターダイクの仏訳新刊Derrida, un Egyptien(Maren Sell, 2006)の雑駁な書評。デリダ/グロイスの対比が論じられているらしく、興味を引く)
●
積んだままだったラクー=ラバルトの本を読んでいる。連動させてハイデガーのニーチェ論、ヘルダーリン論を読もうと思っている。ちょうど増田靖彦「思考と哲学 ドゥルーズとハイデガーにおける」(『ドゥルーズ/ガタリの現在』)がニーチェ読解を軸にして、ドゥルーズ/ハイデガーの対比を行っていて興味深い。なにしろドゥルーズもまたヘルダーリンに相当のこだわりを持っているのだ。ヘルダーリン全集を買おうかと思いつつある。ベンヤミンの未読・既読テキストを再び読みたいと思っている。
Bygの文中のtwofoldを二重襞と訳したのは蛇足だったかな。別にあれは存在論的差異でもなさそうだし。
●7/4追記部
Bygの翻訳ではlanguageを原則として「言語」に、wordを「言葉」(文脈によっては「語」)に訳し分ける。Bygがどの程度ハイデガーの議論を意識しているのか。ハイデガーは、たとえば『言葉についての対話』で「言葉」に相当する、Sprache/Wortが出てくるが(高田珠樹訳ではそれぞれ言語/(単)語か言葉。従来の訳語では前者は言葉)、英語訳ではlanguage/word(Peter D. Hertzによる英訳)、通常、仏訳語ではlangueかparole/motが相当する。
●7/7追記部、7/11加筆
現在までに訳文は16段落ぐらいまで来ているのだが、11段落目以後出てくるド・マン、ベンヤミンの注記に該当邦訳ページ数を記そうと、投稿を先送りにしている。それぞれをある程度読み終えてから投稿を続行する。
「目次」の方に乗せるのはある程度訳の投稿記事がたまってから。最終的には、現在やっている対訳記事は投稿日付を数年前に飛ばし(最終更新・初投稿の日付は注記に残す)、 読みやすく邦訳文だけをまとめたものを目次に置くかたちにするかも。
: : : :
アントワーヌ・ベルマン『他者という試練:ロマン主義ドイツの文化と翻訳』(藤田省一訳、みすず書房、2008)を読んでいる。面白い。ドイツ・ロマン主義において詩・翻訳がいかに絡み合っていたかについて議論している。ベンヤミンを相当意識しながら書かれており、かつ、こうした主題に関しては著者の発表時点(1984)においても、ロマン主義でいわれていたことのパラフレーズを超える水準での充実はほとんどなかったらしい。例外的にアンドレアス・ヒュイッセンの60年代末の著書が挙げられているが。
完全に蛇足の指摘をすると、巻末のBibliographyにちょっと穴があって気になった。ジョージ・スタイナーのAfter Babelは上巻のみだが邦訳がある(永久に2巻が出ないかと思われていたガダマー『真理と方法』2巻が、上巻から20年を隔てて先ごろ出たのだから、『バベル以後』も下巻が出る可能性だってある)。あとは挙げられていたデリダの『プシュケ』所収論文のいくつかも邦訳が別の単行本・雑誌に存在している(「隠喩の退-引」「バベルの塔」など)。このへんを訳者には記してほしかった。 なお、藤田氏がブログで乗せている破棄された訳者あとがき第一稿の一部でBygの本が触れられているので、最初藤田氏がみすずで翻訳中なのかと勘違いしてしまった。
ところで、ベンヤミンとドイツロマン主義に関する議論の書籍(メニングハウスなど多数)や、ベンヤミンとカフカおよびユダヤ性に関する議論の書籍(ハンデルマンやモーゼスなど)が、訳者とその協力者によって作成されたBibliography追加箇所にあまり見当たらないように思った。文学と多言語使用に関わる翻訳、という軸に関しては上記の追加一覧でフォローされており、その一環としてBygの本も挙げられているのだが。
非常に面白い本なので、読了次第何か論点をピックアップして書くかも。
●7/17追記
ド・マン、ベンヤミンの邦訳頁数の注記は後回しで、作成済みの邦訳段落を載せることにした。対応頁数は追々加筆する。それまでは「p.-」とでも仮においておこう。
ボリス・グロイスBoris Groys『全体芸術様式スターリン』は面白い。ロシア研究・ロシア文学研究の人しか読んでないのではないかと思うほどに日本では不当に読まれていない美学者なのだが、彼はZKMの姉妹組織であるカールスルーエ造形大学の「哲学とメディア理論」部門の教授で、この部門の学部長はスローターダイクだったりするのだ。つまりドイツ現代美学とロシアの交差線にいる人でもあり、2002年のドクメンタ11のカタログにも論文を寄稿している。Multitude webの22号ではエリック・アリエズも寄稿しているヴァイベル小特集が組まれておりグロイスも文章を載せてもいる(ヴァイベルはメディア理論、知覚理論の研究者であり、90年代にアルス・エレクトロニカのディレクターも勤めた)。グロイスがドクメンタ11で書いた文章は「Art in the Age of Biopolitics: From Artwork to Art Documentation」というのだが、彼のロシア・アヴァンギャルド論自体、党=芸術家による生・生活の技術設計主義というアプローチであり、その彼が生政治における芸術を論じるのは適役だろう。『全体芸術様式スターリン』の初読の際、党組織を外して考えたらこの問題はいまなお現代的なのではないかなどとしばし思った。今年初頭にグロイスはArt Powerという英語新刊を出したが、カタログでしか読めなかった上記論文が掲載されているようなので注文。
・『全体芸術様式スターリン』以外の邦訳済みのグロイスの論文には以下のものがある:ボリス・グロイス「ユダヤの逆説、ヨーロッパの逆説:テーオドール・レッシングの『ユダヤ人の自己憎悪』によせて」(1991、中澤英雄訳);「新しさについて」(鷲江めるろ訳)[pdf]、金沢21世紀美術館研究紀要『R』issue 2, 2003
・ヴァイベルについては:「知性的イメージ──神経(ニューロ)映画か、量子(クォンタム)映画か?」(堀潤之訳)、『Future cinema 来たるべき時代の映像表現に向けて』NTT出版、2003、pp.26-37.;「速度の時代における巨大写真像」(前川修訳); NTT ICCのHIVEにあるビデオインタヴュー(1997年製作?)
グロイス関係で調べていたら、いくつかのサイト・記事を見つけた。
・アトミック・サンシャイン - 九条と日本
(キュレーターの渡辺真也のブログ。グロイスとの会談の記事(08.3.4)、酒井直樹研究室への訪問(08.6.01)、近代と法制度やヨーロッパにおける宗教/世俗性によるその下地という視点(いい線いってると思う)、などなど興味を引く。こういう人いるんですねぇ)
・■[本]スローターダイク『デリダ、一人のエジプト人』 - もぐらの国
(スローターダイクの仏訳新刊Derrida, un Egyptien(Maren Sell, 2006)の雑駁な書評。デリダ/グロイスの対比が論じられているらしく、興味を引く)
●
積んだままだったラクー=ラバルトの本を読んでいる。連動させてハイデガーのニーチェ論、ヘルダーリン論を読もうと思っている。ちょうど増田靖彦「思考と哲学 ドゥルーズとハイデガーにおける」(『ドゥルーズ/ガタリの現在』)がニーチェ読解を軸にして、ドゥルーズ/ハイデガーの対比を行っていて興味深い。なにしろドゥルーズもまたヘルダーリンに相当のこだわりを持っているのだ。ヘルダーリン全集を買おうかと思いつつある。ベンヤミンの未読・既読テキストを再び読みたいと思っている。
Bygの文中のtwofoldを二重襞と訳したのは蛇足だったかな。別にあれは存在論的差異でもなさそうだし。
●7/4追記部
Bygの翻訳ではlanguageを原則として「言語」に、wordを「言葉」(文脈によっては「語」)に訳し分ける。Bygがどの程度ハイデガーの議論を意識しているのか。ハイデガーは、たとえば『言葉についての対話』で「言葉」に相当する、Sprache/Wortが出てくるが(高田珠樹訳ではそれぞれ言語/(単)語か言葉。従来の訳語では前者は言葉)、英語訳ではlanguage/word(Peter D. Hertzによる英訳)、通常、仏訳語ではlangueかparole/motが相当する。
●7/7追記部、7/11加筆
現在までに訳文は16段落ぐらいまで来ているのだが、11段落目以後出てくるド・マン、ベンヤミンの注記に該当邦訳ページ数を記そうと、投稿を先送りにしている。それぞれをある程度読み終えてから投稿を続行する。
「目次」の方に乗せるのはある程度訳の投稿記事がたまってから。最終的には、現在やっている対訳記事は投稿日付を数年前に飛ばし(最終更新・初投稿の日付は注記に残す)、 読みやすく邦訳文だけをまとめたものを目次に置くかたちにするかも。
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アントワーヌ・ベルマン『他者という試練:ロマン主義ドイツの文化と翻訳』(藤田省一訳、みすず書房、2008)を読んでいる。面白い。ドイツ・ロマン主義において詩・翻訳がいかに絡み合っていたかについて議論している。ベンヤミンを相当意識しながら書かれており、かつ、こうした主題に関しては著者の発表時点(1984)においても、ロマン主義でいわれていたことのパラフレーズを超える水準での充実はほとんどなかったらしい。例外的にアンドレアス・ヒュイッセンの60年代末の著書が挙げられているが。
完全に蛇足の指摘をすると、巻末のBibliographyにちょっと穴があって気になった。ジョージ・スタイナーのAfter Babelは上巻のみだが邦訳がある(永久に2巻が出ないかと思われていたガダマー『真理と方法』2巻が、上巻から20年を隔てて先ごろ出たのだから、『バベル以後』も下巻が出る可能性だってある)。あとは挙げられていたデリダの『プシュケ』所収論文のいくつかも邦訳が別の単行本・雑誌に存在している(「隠喩の退-引」「バベルの塔」など)。このへんを訳者には記してほしかった。 なお、藤田氏がブログで乗せている破棄された訳者あとがき第一稿の一部でBygの本が触れられているので、最初藤田氏がみすずで翻訳中なのかと勘違いしてしまった。
ところで、ベンヤミンとドイツロマン主義に関する議論の書籍(メニングハウスなど多数)や、ベンヤミンとカフカおよびユダヤ性に関する議論の書籍(ハンデルマンやモーゼスなど)が、訳者とその協力者によって作成されたBibliography追加箇所にあまり見当たらないように思った。文学と多言語使用に関わる翻訳、という軸に関しては上記の追加一覧でフォローされており、その一環としてBygの本も挙げられているのだが。
非常に面白い本なので、読了次第何か論点をピックアップして書くかも。
●7/17追記
ド・マン、ベンヤミンの邦訳頁数の注記は後回しで、作成済みの邦訳段落を載せることにした。対応頁数は追々加筆する。それまでは「p.-」とでも仮においておこう。
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