廣瀬浩司「鏡像のメタモルフォーズと纏う身体の行為論」レジュメ
(大宮勘一郎, 嶋田由紀, 廣瀬浩司, 柳橋大輔, 前田良三, 神尾達之 (著)『纏う 表層の戯れの彼方に』水声社, 2007.7所収)
(レジュメ作成: 2009.1)
レジュメの範囲を超えない文書。語句の選択には多少私の恣意が入っている。メルロ=ポンティは以下、メルロと略記。
あと、「他なる(もの)」と「他者」は意味の違いをもたせてない。
本論文に相当する語句でも、概念規定の差は特に設けられていないのと同様に。
書き出し
・ドゥルーズのシミュラクル、デリダの差延は
存在/現れという形而上学的対立の逸脱として模索された。
これは言語、象徴界における統御のもとで読まれがちだ。
が、この言語論的展開はいまやメディア論的展開、情報論的展開に
移行する中で思想史的意義の多くが失われた。
そこで存在/現れの差異をもう一度身体において考える。
○
ラカン「鏡像段階論」(1949)
1. 自己の視覚像をもたない幼児は、鏡像の外在性を媒介に、自己のイマージュを身に纏う。
2. a.鏡像は理想自我(自己のモデル)を提供 かつ b.「フィクションの線」へ導く
b.全体像の先取りは完結せず、自己の現実との不調和が残る。
そのため、疎外化的な目的と切り離して理想自我は形成されず、
つねに「それを支配する幻影=亡霊」、自動人形、分身の出現にむすびつく。
3. 2の二重性のプロセスは、身体的現実/先取りされた全体像 の間の時間的弁証法。
全体性-外在性は、「身体の寸断された像」のファンタスムを仕組む。
こうして、現れ/存在、内部世界/環境世界 の循環の破綻、非和解の問いとして出てくる。
ラカン「個人の形成における家族複合」(1938. Autre Ecrits所収)
ここでは上記の構図は顕著で、以下の問題が挙げられる。
・視覚的機能(鏡像の外在的全体像)の無前提の承認
・それが「讃える(saluer)」べきものとされ、「健康的(salutaire)]傾向とされる
後者はフーコーが『主体の解釈学』で分析したプラトン『アルキビアデス』と同じ構図。
プラトンは身体からの解放として、高貴な感覚器官である目をみつめる鏡像と語った。
この自己認識モデルへの対抗として、フーコーは「自己への気遣い」のテクノロジーの系譜を見出す。
[廣瀬はいわば、後期フーコーの展開をラカン的論理構成からの逸脱として考えている]
●
メルロの立場からするとラカンの鏡像論は、
すでに反省的に対象化可能なものとしての理念になってしまっている。
メルロは別のアプローチを立てる。
(以下は主として遺稿『見えるものと見えないもの』(1961)での議論から)
「像そのものが見えるようになるプロセス」を媒介する「感覚的なもの」の自己反省性。
:感覚的なものが 見る身体/見える身体、触れる身体/触れられる身体、
能動/受動にみずから二重化し、両者の無限のメタモルフォーゼの場を創設する
いくつかの各論
・鏡像のしぐさの触感をも身体が感覚する例
これは、「ここ」かつ「そこ」(鏡の中)の自己の身体を"同時に"感じる経験。
メルロはこれを「距離をもった同一性(identité à distance)」と呼ぶ。
感覚的身体は、「そこ」かつ「ここ」に、見える身体かつ見る身体。
鏡という空間の「厚み」を通して行われる自己触発の経験。
これは疎外に対して幸福な融合状態を対置するのでもなく、
他者を「もう一人の私」にすることでもない。
・メルロは「可視性の危険」と言う。
:人は「ある距離をもった場所から、体のどこかにまなざしを感じる」のだと。
ex.その結果、たとえば、不意に人は自分の衣服を整える。
この「場所」はどことも位置づけできない。
:この事態は、身体が潜在的に可視的であること、
可視的身体(見える身体)が他者のまざなしを先取りすることに由来し、
身体が可視的なものとして知覚世界に入り込むときに不可避。
:「可視性の危険」とは、実像/虚像、存在/現れ の戯れの場である以前に、
そうした対立そのものの媒介である場。
この危険の経験が、他者への第一の開けであり、自/他の区別の創設。
したがって、鏡像とは自己をたえず問いに付し、おののかせる場所なき場所性であり、
自己の二重化ではなく、他なるものの体内化。
感覚的なものの内在的距離、存在/現れの分離、像の像としての生成的過程が問われる。
メルロの「肉」は、この存在/現れの接合"と"分離の場のことであり、
場なき場、遠近を越えた「距離」の到来。
○
ラカンの議論はいわば、この他なるものの体内化による反復的な他なるものの変容を
一時停止させ、外在化させた、投影の場とするものだ。
ラカンの分析のドラマ性は、この一時停止→必然的な解体のプロセスであり、
感覚的なものの自己分裂(自己反復)をあらかじめ取り逃がし、かつ、暗黙に前提にしている。
そのため、自然/文化、現実/虚構、感覚/言語、内在/外在の対立を
ひそかに前提し、弁証法的な動力として利用しようとする。
この対立の前提と維持のために、ラカンは「現実」「現実界」の表象不可能性を
再定義し続けざるをえなくなり、それによって
概念的な素朴さと臨床的経験のズレを隠蔽し続けたのではないか。
すなわち、これは鏡像的経験の理論的な取り逃しからもたらされているのでは。
この問題は、アルチュセールのイデオロギー装置論においても共有されている。
「イデオロギーの中での現実の諸関係の想像上の変形」に語るとき、
装置の「物質的存在」/そこでの「主体の認知=再認」は同じ構図に陥ってる。
ここではラカン的な隠蔽が際限なく拡大している。
この問題が多くの文化研究においても共有されて生き延びている。
●
鏡像の経験は、視覚/触覚の対立を逸脱している。
身体の表面において、他者のまなざしに+触れられる 経験だからだ。
メルロの「身体図式」は、視覚/触覚の区別には関係せず、
「他者のまなざしへの身体的応答の総体」。
人が一定の身振りのスタイルを獲得するのは、
みずからの身体表面を他なるものの反復の場とすることによる。
他者のまなざしは、「見えないもの」「知覚できないもの」として経験の臨界をなす。
これに遠隔操作されるように身をよじり、
新たな身体図式を形成し、他者のまなざしの体内化をおこなう。
潜在的な行為
:他者のまなざしの体内化とともにおこなわれる、自己継続行為。
:そのとき、身体がみずからの上に折り重なり、他者の反復を反復し、行為の支えとなる。
:この行為によって、そのつど行為の零度から出発し、新たな身振りを創出する。
○
サルトル: 『存在と無』(1943)で語られるまなざしは
私の身体を凝固させ、客観視する、私の自由を奪う「無」とされる。
[廣瀬はここで明言していないが、『四基本概念』におけるラカンのまなざし=対象aとする議論を、
サルトルのまなざし論の延長にあるものとして、サルトルに遡りつつ指摘しているのだろう。
実際、『四基本概念』ではサルトルの論も言及され、明白な系譜的連続性がある。]
●
メルロの「可視性の危険」は、
客観視するまなざし(サルトル)でも、自己を疎外する超越的まなざし(ラカン)でもない。
身体の一部を活性化し、応答の身振りを惹起させる。
「感覚的なものに内在するような否定性」として
他者のまなざしは鏡の表面に織りなされている。
この他者のまなざしの否定性が、感覚的なものの経験を織りなす。
「距離をもった同一性」の「距離」
:感覚そのものの表面において直に経験される内在的な距離。
:感覚的なものがみずから距離をとり、みずから内側から多数化する。
:感覚的なものが感覚的にはらむ、感覚的なものからの偏差。
:そこに「見えないもの」(「距離」そのもの)が到来する。
そこで「内的視点そのものを巻き込んで形成運動が起きている」
という事態を記述しなくてはならない(河本『システム現象学』p.21)。
いわば、制作的-創造的な視点から
「本質」(本質/事実の対立ではなく、メルロの言う「蔽われた本質」)の生成を追跡すること。
○
アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』は、以上の議論から考えると、
「自己自身への自我の現前」としての「恥ずかしさ」をレヴィナスから導入し、
ハイデガーの「自己触発」として関係付けている論旨になっているが、
「恥ずかしさ」はそこでは「主体化」/「脱主体化」の二重の運動による
一種の擬似弁証法と化し、感覚的なものの自己反省性の局面を通り過ぎていってしまう。
●
メルロ「眼と精神」(1961)
鏡像のまなざし=他者のまなざし は
物のなかから生まれるまなざし。
画家とはこの物のまなざしに沿って見る者であり、
画家のまなざしも者の中から生まれる
○
ラカン『四基本概念』(1963)
三角形1. 実測点=感覚器官としての目=デカルト的表象主体
三角形2. 物から生まれる視覚=光点=まなざし=対象a とされる
2は1のパースペクティブ(実測的空間)を崩壊させ、主体の地位を揺るがす。
2が主体を構成しつつ否定する。
この一点、光点をラカンは「ファルスのファントム(亡霊)」と呼ぶ(p.116)。
注 ファルス:欲望の対象を暴き、かつ、それを隠蔽するシニフィアンの代表。
:シニフィアンのシニフィアン。
:不在において欲望の対象を具現する
ホルバインの「大使たち」のドクロ
:ファルスそのものではなく、欠如・不在の象徴。
:ドクロにまなざしが欠如しているように、ここには欠如が現れている。
ここでラカンは、鏡像段階論の枠にメルロを当てはめている。
感覚的なメタモルフォーズの自己反復的過程を、ラカンは
去勢の欠如(のシステム)によってブロックしているのではないか。
●
メルロの語るセザンヌ
:光・色のつかのまの戯れではなく、物の存在感やヴォリュームを奪還。
感覚そのもの、イマージュそのものの堅固さを救出しようとした。
1. ここでメルロは襞と言う。
襞 :感覚的なものみずからが折り重なり、持続的テクスチャーを自己産出すること。
:見えるものと同じ平面上の見えないもの (この点でホルバインのドクロの別平面性とは異なる)
廣瀬による「見えないもの」の到来の説明
:いわば地と図の関係で言うならば、地の表面化。
地と図の関係が脱臼され、新たな関係が予告される。
ラカンのような「スクリーン」の平面性はすでにそこになく、
光の変調(modulation)による襞だらけの空間と化す。
[この説明ではちょっと問題が出てくると思う。
なぜなら、ラカンが『四基本概念』で言うくだりは、対象aによるタブローの光学装置
と総括しやすい箇所と、言葉足らずな変な箇所の両方があり、
後者と言えそうな「自分が絵の中のシミとなって浮き上がる」(pp.126-127)局面は
これ自体、絵の他の部分=地、自分=図とするかのような関係性の出現として、
奇妙な議論になっていると読める。そしてこの間において自己反省性の媒介性が
絵=鏡の表面 に近いかたちで作動するのだとも言えそうな気配があるからだ。
よって、ここでの廣瀬の地/図の説明のしかたでは、
単にラカンを裏返したような水準になりかねず、かつ、
地/図の問題へのアプローチとしては単純なものになるのでは。]
廣瀬によるセザンヌ読解
:セザンヌの色彩は、光の転調の空間と化し、
折り曲げられ、繰り広げられるたびに収縮・拡張を反復し、
表面のテクスチャーを形成する。
いわば、メルロの議論は、ラカンの去勢(不在の穴)の到来自体ををたえず宙吊りにし、
遠近法的構図の解体そのものを持続的に反復するもの。
2. 奥行き=深さ
セザンヌの静物画の事物は、別々の複数の視点において見る者のまなざしを奪い合いながら、
一つの平面におさまっている
奥行き=深さこそが、そうした共存不可能な共存をその場で実現させる。
ここにおいて、私たちは世界がここにある、物がそこにある、という確信を回復する。
絵画はラカンの言うような騙し絵ではない。
「見えるものがそこに見える」「まなざしがまなざす[視る]」とメルロは言う。
この(メルロ的)鏡像的トートロジー。自己反復としての自己産出的トートロジー。
メルロはハイデガーをもじって、このトートロジーは
根拠の不在の深遠=無底(Abgrund)を隠し持つと言う。
「思考することは思考し、語ることは語り、まなざしはまなざす
――だが同じ一つの言葉の間に、思考するため、話すため、まなざすために
跨ぎ越さなければならない隔たりが、そのつどあるのだ」(『シーニュI』pp.29-30)
視覚のみならず、思考、言語も同様であり、
鏡像的なトートロジーにおいて深遠を跨ぎ越す行為。
ブログ アーカイブ
2010年9月30日木曜日
登録:
投稿 (Atom)