十川幸司公開セミナー(UTCP主催、2009.1.14)
おおむね、新著の解説、未読者向けの要約という側面が大きいセミナーだったため、レポートを書く気乗りがあまりしない。気乗りしなくなった理由はもう一つ。
私の新著の読みは、イメージと言語の二重作動、情動の回路のカップリング/デカップリングを反復させることでそれぞれが関与的に自己産出性を高める、といった路線がありうるのではないかというものであり、小説と読みの関係やその再記述化(批評なり何なり)、映画やその記述、といった問題系において出てくる焦点にもなりうるだろう、というものだった。しかし、前者を間接的に質問してる段階で威勢良く空振りに終わり、十川の前著以来の模索は、情動の場を基底において理論形成でまとめあげるみたいなものなのかな、というふうに冷めてしまったのだった。十川テキストを読んでるときの方が高揚してた私というのは何だったのか、とやや悩んでしまう回に。まあそれこそが転移なのかもしれないけど。その契機として、実際に話を聞いてみただけの価値はあったのだとは言えるのだろう。結局自分の問いは自分でやるしかないってことだね。
とはいえ、こぼれ話として関心をもった箇所はいくつもあったのでそれを書く。ただし、最近は守秘義務が厳しくなってるので、あまり明確に語るわけにもいかない/本でも書けないとおっしゃっており、まずそうなところは省こう。[と言いつつも、書き上げてみたら、新著要約以外の内容をほとんど押さえた律儀なレポになっていた]
以下、『精神分析への抵抗』『精神分析』『来るべき精神分析のプログラム』を注記するときは、『抵』『精』『プ』と略記。本読めば知ってるはずのことは要旨の流れ上必要な箇所以外、できるだけ書かない。勝手に読めと。十川論文一覧はこちらにアップロードしておいた。
最終更新2009.1.18
○
【分析理論の形成】
・週5回のカウチ(寝椅子)を使った自由連想の実践が出発点になる。
「今僕が診てる患者で週5回ってのは2,3人のみ。通常は週2,3回ぐらいでやってる」
・日本における精神分析実践の状況
日本ほど精神分析の本が書店に並んでる国も珍しい。世界的にもずば抜けてる。しかしその多くが分析家ではないというズレもずばぬけてる。精神分析実践と知識人の乖離がすごく大きい国。
・精神分析に対する不安、警戒心
「分析されて制作のエネルギーを失うのでは」といった不安を持つ作家や芸術家は多い。たしかに神経症的な動機は競争や制作に結びつくけれど、精神分析はエネルギーを失わせるような実践を目指すようなものじゃない。これはよくある誤解。
・自己分析(教育分析)-治療分析(スーパーヴィジョン) の過程のもとですべての分析家は自己の技法、スタイルを形成する。
強いて言えばフロイトだけが例外。彼は師匠のフリースはいたが、教育分析を受けてないので創始者みたいになってる。[これは『抵』2章p.36の「分析的系譜」の話] 教育分析は同じ分析家を再生産するためじゃなくて、個人の気質、性格、特性を生かすのが望ましい。
セッションの情動関係では椅子の位置から部屋の大きさにいたるまで作用の違いがある。ワロンは「認知では情動が中心機能」と言う。
余談:いわゆる知能障害の多くは情動障害だと思う。情動機能がすぐれてる人は大体すぐれてると思う。
・精神分析理論の時代拘束性
自我心理学に抵抗して自己心理学を提唱したハインツ・コフートがいるが、このように先行研究に対する理論提示はなされる。コフートの理論は共感を重視する、理論的にはフロイトの水準から言えば問題外。しかし、60-70年代のそのようなコフートの模索は、当時のアメリカの自己肯定の潮流ゆえにあっさり忘れられる。時代が変わればその理論も驚かれないという典型例。
ラカン理論にしても、今からみれば時代的な背景がかなりあり、60年代の欲望をめぐる潮流と連携してる。[これは『プ』5章p.158の話]
・分析家の自己のセッション方法論、自己のスタイルは、多くの側面が自身の生理的リズムや個人的体質、思考の気質に拠ってることは否めない。新宮さんも含めてセッション技法の理論化をやるけど、みんな自分のやりやすいようにやってる。当人の生理的リズムや体質があるのを無視して鵜呑みにしちゃだめ。
フロイトの50分セッションにしてもなぜ50分かは根拠ない。彼の体質だった。クラインだってラカンだって自分のやりたいようにやってる。
・ラカンの短時間セッションとラカン個人
『カルチェ・ラカン』というラカンと接してた人の証言を集めたドキュメンタリー映画がいまパリでやってるけど、みんな口をそろえて「5分と座ってられなかった人だった」と言う。下世話な話に聞こえるけど、ラカンが体質的に「待てなかった人」だったってこと。これだけの理由で短時間セッションになったわけじゃないだろうけど、この側面は割と大きい。
[『Quartier Lacan』、Emil Weiss監督作、2001。日本未公開。シナリオ担当のAlain Didier-Weilには同題の書籍あり。(Alain Didier-Weil, Quartier Lacan, Denoel, 2001)]
・ブルース・フィンク『ラカン派精神分析入門』
この本はラカン派のセッション技法についても書かれてる。彼は友達なんであんまり悪口言うわけにもいかないんだけど、一般の分析家からすると「こんなに酷いことやってるのか」という感想になると思う。短時間セッションが正当化されてるけど、説得力感じない。一番説得力があるのが「友達の分析家が短時間セッションやって成功したから僕もやってる」って箇所なんだから困る。「ラカンはそうやったから」って方法論を一緒にしちゃ駄目。自分のスーパーヴァイザーの模倣、同一化をやっちゃってる。
・ラカン派短時間セッション
患者にずっとしゃべらせる。分析家は解釈行為を(行為遂行的に)語って介入したりしない。分析家は沈黙。で、セッションを切り上げるために時間を短くする。
この沈黙・解釈行為しない、というスタイルが一番近いのは自我心理学のセッション。セッション技法としてはラカン派は、彼らが最も批判していた側と似ていく経過をたどった。ラカン派では教育分析、自我心理学では治療分析として顕著にそうなるし、違うところもあるけど、ラカン派セッションに一番近い技法となると自我心理学になる。顕著な差って「短い」ぐらい。
自我心理学と対極になるセッション技法が、クライン、ビオンらの対象関係論の人たち。しかしラカン派のセッション技法はそっちにいかなかった。
【十川の理論形成の順序】
・ラカン・ラカン派は理論形成がテクスト読解中心になっちゃってて、人間の構造、病理形成、解釈による変化の理論モデルをおこなったが、臨床経験の深まりや連動がなくなっちゃってる。認識論的には卓越してるが、臨床的には弱い。
・後期ラカンのトポロジー
トポロジーの議論はアプリオリな経験様式であり、経験を構成する超越論的な審級とされている。この時期のラカン派の本を読むと、ひたすらむすび目の話をやってる。後期ラカンはミレールやラカン派も放り捨ててる。明らかに臨床との接続がなくなり、明確な話にならない。まったく面白くないわけじゃないけど、「何の示唆にもならない」、これは困る。
[配られた資料はセミネール24巻『Le sinthome 1975-1976』の L'invention du réel(現実界の創出)の章の某頁]
・人文的には著名なラカン、人文的には著名じゃないが臨床的に著名なのがビオン。
ビオンの作ったグリッドによる分析経験の定式化。ラカンのRSIにある意味で近い模索で、グリッドを使いながら患者の状態を把握する。直接実用的というわけではないけれども。メンデレーエフの原子の周期表みたいなグリッド。縦軸が認知系、横軸が思考の運動系。ただし、ビオンの理論は終始、セッションにおける心的状態の把握のためにとどまってる。
・イギリス経験論的なクライン~ビオン/カント的超越論のラカン
ビオンとラカンは、フロイト以後最も理論的展開をおこなった2人。
「そこで僕はビオンからオートポイエーシスに行った。ビオンの認知系/運動系は各々相互に独立し、かつ、自己生成的に作動する。ここからたくさんの系列を見出して複合させていけばどうかと。ビオンは高次の経験論を立てたが、さらに展開させてみよう、と。」
「たとえば4章で外傷記憶として現れる死の欲動を、二つの記憶システムの誤作動と論じた[『プ』pp.125-130]。死の欲動については今までたくさんの議論がある。そして現在なされている議論の99%がテクスト読解。そこから見ると素朴に見えるかもしれないけど、記憶システムから議論することにした」
・ラカンの「事後性」
これはもはやラカン以後自明の発想になっていて事後性の論理を用いることに疑いがなくなってきている。しかし事後性とは、現在を優位におく発想ではないか。そこでルーマン経由で、過去のコミュニケーションシステムが現在のコミュニケーションシステムに接続されるというふうに心的作動を考えてみる。これだと現在優位の時間論にならずに済むのでは。
・(小林康夫:「諸回路の作動としてのシステム論と情動関係論の二つがあり、齟齬が生じているように思う。『プ』p.171では情動関係によって十川さんが自己生成しているようにも読める箇所がある。俯瞰的にシステム論をやるのと、自己生成としての情動との間でずれが生じてるのでは。僕はもっと差異化の場を真ん中に持ってきているのを妄想して読んでた。情動は他の3回路をカップリングする回路ではなく、カオス的力能の場にできないか。なるほどシステム論はフロイト初期の局所論的発想の継承をできるだろうが、情動関係は複数の主体の場におけるものなのだから……」)
うーん……。情動は『精』で中心的に扱ったので、今回はあんまり。あと、ラカンを言語論的といって片付けているのはかなりラカンを小さくしてるので、半ば無理矢理のやり方でもある。
【「フロイトの遺産」】
・精神分析の認識論的側面/臨床的側面
フロイトは創始し、かつ、2つを両立した。20世紀後半では2つがラカン、ビオンというふうに分離してしまったが、新たな形でいかに縫合するか。
・システム論を導入したり、脳科学について読んだりしてる。
これは経験科学につなげるということでやってる。ラカンは言語学、数学、論理学を導入したわけだが、精神分析は何らかの科学を参照点にする。フロイトもその意味では同じで、科学者。自然にやっていきましょうってわけにもいかないからなあ。ダニエル・スターンの発達論も参照したが[『プ』1章]、どの分析家も発達論に依拠している。
・精神分析は不思議な学で、フロイトから離れた人は単純な理論になってる。
存命中のフロイトが「異端」と呼んでたのは彼から離れた人たち。コフートは離れた人で、ラカン、ビオンはフロイトに戻った人。なぜフロイトは19世紀の学で発想してるのに今でも通用する手法をやれたんだろう。フーコーはフロイトを権力として批判しちゃうけど、あれだとフロイトの特異性が見れない。なぜ精神分析という言説がこうなってしまうのか。フロイトに戻る以外の方法が見つからない。フロイトってのは何かとてつもないものを発見しちゃった人なんだと思う。「フロイトの遺産」、デリダもよくこう言うけど、これ以外ないんじゃないか。なぜフロイトはそのような地位、原動力になったのだろう。
・精神分析は中年の学といわれる。
ラカンも変貌以前は穏健で非常に常識的だった(加賀乙彦の証言にもある)。が、50歳代になってスタイルを確立する。フロイトもそうだった。彼特有の手法、カウチ、自由連想法が生み出されたのも中年期。「僕もそういう頃になってきたのかもしれない。最近書いてるのはフロイト論。そうしたフロイトへの回帰に僕も入ってきている」
「(別の質問を受けて)僕はラカン派じゃないよ。フロイディアン。ま、分析家はみんなそう自称するんだけど」
【関心事】
・(千葉雅也:「事後性の論理からいくと、いわば経験における直接的なものなどない、としばしばラカン派には言われちゃう。ドゥルージアンがこだわるようなsensation, affectionなど無い、と。しかし、十川さんの論立てでは、一種直接的に作用しているものがある、と。そこでidentification(同一化)はどうなるのか。ラカンだとarticulation、分節化されたデジタルなものによる形成になってるけど。trait unaireにおける同一化とは異なった論理になるのか」)
原理的な同一化の話ですよね。これはまた難しいことを…。主体の生成に同一化が不可欠だってことかな?
(千葉雅也:「そうです」)
システム論の観点をとると、同一化って出てこない。
(千葉雅也:「[『プ』7章]ルジャンドル批判して、エディプスの規範的作動に戻る話になってると。このくだりに感動したのですが、では別のやり方はどうなるのかと」)
だからそのあとでジュネをもってきた。ああ、こうして生きたいなと。変わりたい! とつねづね思ってて。明日起きたら違う人間になりたいってのがある。ジュネみたいに生きられたらいいよね。
・分析セッションと理想像について
セッションでは理想像をもってるとまずい。ラカンの症例で、患者がどんどんアンティゴネーみたいになっていくのがありますよね。なるわけないですよ。これは逆転移が起きてて、一種の分析家の権力の乱用。そういうのはよくない。
(桑田光平:「「変わりたい」という理想像も臨床的影響もっちゃうのでは」)
もちろんある。でも、価値観、価値判断のない人はいないから。自覚してればいいんじゃないかな。同時に「変わらなくてもいい」という気持ちだって当然あるし。
・ドゥルーズの言うように「歌ってる間だけ世界は変わる」とかね。
最近、フォルスター[?よく聞き取れず]の小説ばかり読んでる。彼の作品は別の人になる話ばかり。神経症の人は現実は一つだと思ってるけど、そうじゃない[『プ』p.160]。自分のポジションを変えること。柄谷行人みたいな話だけど、最近、フロイトのユーモア論について考えてる。フロイトは「現実をまた違った角度から見る方法。これが人間の最も高貴なものだ」と。
「いま書いてるフロイト論はユーモアについて。癌に冒されてもあたかも自分の苦境を他人のように生きられるか」
【執筆過程についてのこぼれ話】
・『プ』3章の認知的エディプス/規範的エディプスの議論
「最初はエディプスについて論じるつもりはなかった。書いてるうちに、これしかない、という気になった。認知的エディプスってのは欲動の回路が情動の回路に調整されること。認知と言っても知的理解という意味じゃなくて、他者を創造していくもの。力の発露であり、複数的なあり方を可能にさせる。まあ、こういう言い方で「認知的」というのはまずい、と大澤真幸さんには言われましたが…」
・『プ』4章の「可塑性」(カトリーヌ・マラブー)導入
「これを導入するのにはかなり警戒があった。取り入れるのはリスクが高い。なんだか単純な話にも見えるし。迷ったんだけど、とりあえず、これで行こう、と」
・[表紙などで用いられた]木本圭子の作品Imaginary Numbersについて
「大体ものを書くとき、終わりの方で音楽が浮かんでくると、ものができる。今回の本の場合、この絵が浮かんできた。別に本の内容上関連があるわけじゃないけど、イメージとして参考になった」
「精神分析的な経験の図示としてこの絵が一番ぴったりだと思った。コンピュータに詳しい人なら見てわかると思いますが、乱数表は使われていない作動の絵。だから予想がつくのに、不意に形が出てきて、エモーショナルな感動を与える。このような関係がまさに精神分析的ではないかと」
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2009年4月25日土曜日
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