2015年7月4日土曜日

レジュメ  岡崎乾二郎・浅田彰・松浦寿夫・田中純・丸山洋志「セミナー モダニズムの再検討」

11年前に書いたレジュメ(にしては明晰ではないように思うが面倒なので手直ししない)を持ってたので、Kindle化に合わせて公開。多くの人は座談会を読んでも話のつながりが把握できなくなってしまうのではないかと思って作ったような記憶がある。レジュメというよりは「縮約形」か。

レジュメ 
岡崎乾二郎・浅田彰・松浦寿夫・田中純・丸山洋志「セミナー モダニズムの再検討」
(『批評空間臨時増刊号 モダニズムのハード・コア:現代美術批評の地平』太田出版、1995
 


Session I: Presentation 1994.4.29 (pp.304-317)
グリンバーグ、ミニマリズム、フリード=ロウ、透明性の遅延や作品を成立させる主体の事後的生成における差延
 グリンバーグの基本的枠組。単一性unity/視覚性opticality/実在性realityが目指される。図と地の対立、あるいは対立させる形態が超克の対象とされ、観客・公衆の投影によって現れる形態を排除したときにはじめて絵画は純粋なオプティカリティに到達し、芸術として自律しうるとした。グリンバーグによると、三つの概念は実在の作品のなかで一致するものとして、つまり三位一体を構成するものとして考えられた。
 ミニマリズムの問題設定は二つ。①図と地が対立したままに図と図の組み合わせから成立する作品を批判するグリンバーグを受けて、作品全体を図/地を対立させない単体として現すこと。②視覚的なフィールドは見る距離から制約され、遠くからではただの四角いフレームをもつ形態となってしまう事態に対して、近距離に可能だった内部を放棄することで外形の四角い形態こそが作品である、とした。単に三次元の物体があるのなら距離による制約はなくなり、そもそも彫刻/絵画というジャンル画定に基づいていた問題はなくなる。壁に掛ければ絵画になってしまう、という絵画を成立させる制度的なシステムをリテラルに利用し、遠距離に物体を置いて絵画/彫刻を止揚した。
ここでフリードが登場する。ミニマリズムは実在を実在として成立させている公衆に依存している、実在性は、ア・プリオリには与えられない、と言う。さらに、公衆として組織された観客に対して、作品が作品として成立するのと同時に成立する主体が事後的に生成するのだ。カロの途中で中座したような形態、「なりそこね」た作品は「読むに値する」という。だが、フリードの言う主体の生成では、現象学的な意識の瞬間性に限定されており、時間的な持続が排除されている(だが、そう評価するカロの作品も無時間・無媒介に成立するのではなく、あくまでその一瞬は実は複数の瞬間の重ね合わせであり、作品自体も複数の基底面を想定しないと読解できない)。フリードは瞬間性と言うが、シンタクスを、したがって言語的な読解の問題を導入しているので、本来なら差異さらに差延に関する検討が必要である。この問題はクラウスに持ち越され、それと同時に精神分析へと回収されるようになってゆく。
 ロウの透明性に関するフェノミナル/リテラル。フェノメナルな透明性は、本来共存しえないもの同時に同じ場所を占めているように見えることから事後的に要請される効果。リテラルな透明性は、あらかじめ透明な物質が実在するという立場。この立場から、ガラスをその上に何でも重ね合わせることができる実在的な基底面とみなした。カラー・フィールド・ペインティングもまた、重ね合わせやコラージュを可能にする、実体化された絵画の空白のフィールドだった。一方あくまでフェノメナルな効果にこだわるロウは、ル・コルビュジエの作品を透明性が遅延し続けていって最終的にどこにも提示されない状態をマニエリスティックな視線の撹乱だと評価した。このように透明性を遅延されるものとして考えるとき、現象学的還元によるリテラルなものへの批判とフェノメナルな意識経験への志向が陥る現前の形而上学から逃れて、複数の基底面や想像=知覚された複数の地の絶え間ない交替と変化について考えることができるのではないか。
ロウの最も重要な論点は、実在を複数の想像された面の矛盾として事後的に要請されるものだとしているように見えるところにある。同様に、グリンバーグの言う図/地は通俗的には交換可能なもの/基底面・交換不可能と理解されているが(すると単一性を保証するもの、たとえば均質空間があるかのようになる)、そうではない。知覚は図と地に分離できず、地こそが交換可能なもので、実在してはいない。複数の・交換可能な基底面や地を考える必要がある。
ロウ、アイゼンマン、コールハース/フリード、ジャッド、カロ、セラ:複数の基底面と実在性の扱い
 ロウの言う「コラージュ」は、それぞれ全然違う基底面の重なり合いとして理解できるところがある。60年代以降、建築や美術でもサイトが単一の場所として前提できないというかたちで問題になり、場所と場所の対立が考えられはじめる。ヴェンチューリもそうだ。アイゼンマンは、一見形態を重ね合わせているように見えても、実際はその作業の前提として与件を捏造し、実際の知覚に複雑さを与えようとしているのではないか。その与件とは、一つの都市のなかに複数の軸線があり、それが絶対一致しないというもの。ロウを文字通り逆様に導入すると、こうなるのではないか。美術でも同様に、本来あるかはわからないが人工的にいくつかの時代の層をつくって、それらの間の矛盾を利用している。
 ただし、単一性という近代主義を乗り越えようとしてフェノメナルな透明性を捏造するために、複数の面を実在するかのようにしてしまう。その結果、実在する透明性、近代的な実在する均質空間へと回帰してしまうのではないか。アイゼンマンに比べると、あたかも地の交換可能性をとらえていることで優位にあったように見えたコールハースは、実際は結果的に実在する透明性に戻ってしまっているのではないか。最後にグリッドをもってきて、グリッドがあらゆるものの両立しない諸部分をディスジャンクティヴなままに並列させるとする。ならば、これはグリッド状の均質空間は近代的な実在するリテラルな透明性となっているようだ。個々のシェイプが問題ではなく、社会的機能から決定されるプログラムこそが問題なら、オスマンのパリ改造計画にみられる近代主義と同じだ。
ロウのフェノメナル/リテラルの対立。リテラルなものをリテラルに示すことに徹底したのがジャッド。絵画と彫刻の区別もない、いや美術と建築の区別もない、ならばオブジェクトがあるだけなのか。いや、ジャッドを可能性の中心として考えるなら、彼は基底面と呼ばれるものの呈示さえも回避したかったのではないか。基底面も何もない、ただ感覚与件として目の前に与えられたオブジェがある。オブジェがないと言われてもかまわない。はじめから予定調和的な単一性へと作品を物象化している。作品に対するあらゆる属性付与(きれい、バランスがとれている)は観客に依存しているのだから、勝手に見ればよい、と。これはグリンバーグ以上に徹底したモダニズムの(負の、かもしれないが)極限なのだ。
また、ジャッドはフリードからはジャンルの枠を超えてしまい、それによってシアトリカルな持続を導入していると批判される。だが、世俗に直面せざるをえない家具や建築の制作ではぎりぎりまで追い詰められており、それはあらまじめ世俗を前提にしているようなグリンバーグやフリードとはちがって無趣味なままなのだ。さらに、ジャッドがプロセスを前衛の条件として想定しないことには可能性が見出すことができる。
ステラの場合。最初のブラック・ストライプ・シリーズではグリンバーグ的な還元主義を突き詰めてほとんどジャッド的な総合を達成しようとしていた。だがその後は、フリードの言う複雑なものの生成によって作品を現象化させようと試みるが、その操作の設定がリテラルなものにとどまっていたため、ゴーキーの絵画やチェンバレンの彫刻を不器用にしたものになってしまった。フリードがモデルとしていた抽象表現主義とは、相互に矛盾するコンテクストが圧縮されて重ね合わされ、ずれだけが呈示されるという理念があった。それは、チェンバレンやゴーキーと同じ問題である。
 カロの場合。一方、フリードが避けられない世俗的与件を還元するなかで成立したものとして評価するカロの作品では、あからさまに断片的なものが呈示されている。最初見るときにはずれしか現れないが、そのずれを解釈しようとすると複数の基底面がフィギュラティヴな彫刻からあらゆるものまで要請されてくる。カロの彫刻は一瞬のうちにみずからを開示するというが、それは見方を変えるとその一瞬は実は複数の瞬間の重ね合わせであり、作品自体も複数の基底面を想定しないと読解できない。ステラとカロの限界は、アイゼンマン問題と重なるものがある。
このことをポジティヴに延長すると、セラやスミッソン、理論的にはクラウスの考察につながってゆく。セラは、カロの作品が展示空間に溶接されて固定された断片であったのに対して、それを固定せずに置いたものにする、という違いだけで作品が発表されている。こうしたセラの手法は、カロの手法からリテラルな溶接・固定を除いたという理由だけで脱構築したと読まれた。
クラウス、マトリクスをどう考えるか、精神分析からヴィトゲンシュタインへ
 クラウスの議論は、実在の作品あるいは大文字の対象それ自体は常に不在であり、実際に現れるのはそれを代理する像や小文字の対象である、そのためミニマルの対象像の先送りする反復効果は重要である、絶えず交替して変化していく複数の想像された面の持続においてしか実在の作品はない、というもの。これはポストミニマルと言われるセラやスミッソンから読解されたもの。「主の寝室」では、実際の地/図の対立のなかで地が露呈するのではなく、図を図として成立させている図の交換可能性がいつのまにか地の交換可能性に置き換えられる、と議論される。「The im/pulse to see」(邦訳、『視覚論』所収)では、ピカソのデッサンがパラパラ漫画として読解され、図の交換可能性を与えるマトリクスが空間を保証しているとされた。図/地の二元論とそれを超えるとされたフェノメナルな純粋経験の背後には、ともにそれを条件付けているマトリクスの効果があるとしたことにクラウスの功績がある。
だが、クラウスの議論におけるマトリクスは、ラカン=リオタールのレヴェルで人間の思考を深層で規定しているマトリクスが考えられているとはいえ、これにはクラインの四元群に回収する精神分析帝国主義のような限界がある。またこのままでは、さまざまな地、さまざまなコンテクストが並立し、交替する状況をそのまま肯定している段階にとどまっており、そに関わる主観との関係について判断停止に陥っている。結果、彼女の意図からはずれて、小文字の対象やコンテクストの複数性を前提とする理論はPCを含んでいるため批判できないものとなってしまう。代わって作品判断の根拠におかれたオーセンティシティとは、ラカン派の言う「ウンハイムリッヒなもの」(表象空間に亀裂を走らせる、きわめて迫真的だがそれを名指すことのできないもの)へのアプローチから見出されているかもしれない。とはいえ、やはり精神分析からのみ考えることは限界をはらむだろう。こうした問題はヴィトゲンシュタイン的なヴィジョンからも考えられるのではないか。
グリンバーグ~クラウスの言うプロセス、世俗的与件ではなく…
 グリンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」では、アヴァンギャルドは結果ではなくプロセスとする。これはクラウスにまで通底している。こうしたプロセス志向は、グリンバーグからクラウスまでを含めて柳宗悦の民芸運動と同じ論理のもとにあり、回収できるのではないか。小文字の対象は単にレッサー・アートで、プロセスとはそれを支えた「もののあはれ」ではないか。晩年のグリンバーグが言う「渋い」(柳宗悦)は、美/醜の対立を止揚するもの、色の対立を超えるものという意味だった。この総合化がもたらす結果は、徹底的に世俗の生活へ没入することと同じことになる。グリンバーグやフリードにとっては世俗的総合こそが避けられないものとして考えられていた。そのため、家具や住宅の制作は過程にとどまるなら芸術である、とみなされた。まさにカロの作品には家具や台所用品になり損ねた部分があり、そこにフリードなどは複数のコンテクストの重なり合いを見る。この「なりそこね」こそがプロセスとして芸術になりうるという発想は、民芸の「ひねもの」(濱田庄司)と変わらない。事実、渡米した濱田のたらし込みは絵柄のうえではポロックのドリッピングと同じなのだ。
そのとき、他方で機能主義的な家具と作品を区別し、世俗を前提としない無趣味にとどまったジャッドが刺激的になる。この無趣味にとどまりながらも、予定調和的な単一性へと物象化された作品をいかにフェノミナルに現象化させるかが問われる。『Anywhere』でクラウスが言ったような、書かれたもの/ヴィジュアルなものの区別を垂直面/水平面の区別へと移行させ、それら二つを派生させた同じものへ、というのは退けたい。二つの別の秩序やセリーが共存する状態を想像することも要請することも退けたい。とりあえずはジャンルの違いを維持することに複数性の根拠を見出したい。そのあとたとえ観客が共存する場を見出そうともかまわない。

Session II: free discussion 1994.11.11 (pp.318-346)
フォーマリズム以降が問われうるアメリカ、趣味性と主観的な単独性に陥りかねないヨーロッパ
 モダニズムはアメリカに導入されることによって大きな変容を遂げた(言い換えるならば、この変容という切断を経て「モダニズム」になった)。戦後ヨーロッパにおいては、建築ドローイングや建築写真などネガティヴな領域において見出した共存しえないものの共存を建築では均質空間に帰結させてしまうような危うさ(ミース)があり、透明性もまた社会的なヴィジョンとして組み込まれていた概念だった。だがそれがアメリカに導入されたあとには、ロウによってイデオロギー抜きにフォーマリスティックな図式が抽出され、それをもとにニューヨーク・ファイヴたちによってヴァリエーションが展開された。また、社会的な機能主義はそのままに単純なモダニズムとしてアメリカでも実践される。アメリカではこの対立がいまなお続いている。一方ヨーロッパではコールハースのように社会的なプログラミングのみが重視され、個々の形態は問題視されない。ミースたちの建築に対する問いは、ロウのように現象学的に抽出されることもなく前批判的な趣味のレヴェルにとどめられたのではないか。
ロウの仏訳版『コラージュ・シティ』出版が1993年、グリンバーグの仏訳版『芸術と文化』出版が1988年、ポンピドゥー・センター近代美術館の『カイエ』のグリンバーグ特集号が1993年と、アメリカ美術理論のフランスへの紹介はまだ近年はじまったばかり。戦前にル・コルビュジエやミースらを形成し、彼らが提起した問題はヨーロッパにおいてはやりすごされていた。戦後は空間の体制に対する意識が弱く、ほとんど主観的な経験のみで制作に向かう。アンフォルメルへの抵抗もまた(当時の実存主義のせいかもしれないが)そうしたものだった。その典型は、ハンス・ホラインやボイス、キーファーなどに見られる、あたかも与件として単独性が作家主体に与えられているかのようなふるまいにある。ラウシェンバーグであれば、身体性からなにから吸収してシェーマを拡大させても、あくまでそれらはプログラムに記述可能であるとなる。だが、ボイスはそうではないように見せ、キーファーにいたっては「私」をめぐる関係性をそのまま物象化してしまい、あらかじめ与えられたかのような単独性を私に付与してしまう。磯崎新もある時期以降は空間をフェティッシュにしてしまっている。そう、たとえばフランスでは抽象絵画さえも趣味のよさや完成度で成立したのだ。そのため、メディウムを拡大させていく方向に向かわなかった。建築で類型学(typologie)に、プロトタイプに形態の根拠を求める方向に向かった。
こうした特徴は、ヨーロッパ社会が芸術家に与える職業的なポジションのためでもある。それは、(前批判的な水準にある)「批判」の身振りを芸術家に求めている。このアリバイのもとで、作家はいかに趣味よく形態的に仕上げるかということにのみ回収しているのではないか。クリスチャン・ボルツァンパルクやフランク・ロイド・ライト、ゲーリー、安藤忠雄のヨーロッパでの「趣味」的な受容はこれらコンテクストに由来する。
こうした単独性を気取るレトリックを牽制するためには、プログラム化して誰にでもできるようにするリテラルな戦略は批評として有効である。複数の重なりを発生させる、事後的に想起せざるをえないように現れる大文字の都市、大文字の建築、大文字の美術といったものはあるだろう。だが、それは手づかみで直接相手にすることはできないし、その大文字の建築と大文字の建築家が一致する必要もない。キーファーに関する問題と同様、作品を形成する主体や経験主体はあくまで抽象的に要請されるのであって、リテラルな主体には還元できない。だが、建築家の職業的なポジションの問題からリテラルな主体へと還元しようとし、リベスキンドのような単独性を自称する振る舞いが起きている。つまり、他の建築家との競合状態にある建築家は一つの大文字の建築家のポジションを奪い合い、結局PCを成立させるレトリックのもとで民主主義的な解決をとっている。そうした事態を凡庸化させていくためには批評は少なくとも形式主義である必要がある。

実在論=リアリズム/プログラムへの記述可能性を示すフォーマリズムの戦略
 プログラムと言っても、プログラム/モノ・形態といった対立は成り立たない。現在コンピュータについて複雑性が問題になるのは、プログラムが複製不可能になることによって物質と同じく一度消去されると再生できなくなってきたからだ。こうして、プログラム/物質という対比は無効になりつつある。物質のみに「いま、ここ」の知覚が関わるわけではなくなる。プログラムは単独的な美的対象にもなりうるだろう。
 コンテクストはふたたび検討されうる。コンテクスチュアリズムは伝統主義的に全体を決定するものではなく、そのデータは確率論的に限定されたかたちでしか集められない。コンテクストは複数のものとして考えられるが、それさえも確率的な判断のもとにさらされている。だが、現行のコンテクスチュアリズムは全体として町並みを確定することを前提にしてしまっている。そうではなく、コンテクストとしてしか、コンヴェンションとしてしか考えられないという事態なのだ。こう考えるとき、ロウ『コラージュ・シティ』が言うような、プログラムを模写しようとすると複数の別々のプログラムへと解体してしまうということに関する議論は、刺激的な読み直しを可能にする。
単独性を気取るレトリックを牽制するためには、リテラルな戦略、形式主義的な批評は必要である。とはいえ、形式主義・ノミナリズムはリアリズム(プラトニズム・概念実在論)とペアをなしている。数学者が言うように、形式化された学のもとでは週末はノミナリストだが普段はリアリストとして数学を考える。そのとき数学的対象はどこかに実在すると思って、形式的証明の以前に正否を判断している。美術で言うと、デュシャンとウォーホル以後は極度に形式主義的なゲームになってしまった。だがある種のリアリズムは必要である。そのリアリズムとは、良し悪しをの評価を共有する共同体によってのみ成立しているのではなく、それを超えた普遍的判断に根拠づけられているものでもあるのではないか。そのためとりあえず名人である必要がある。それなしで形式的操作から解体をほどこしてもどうしようもないものになるだけだ。となると、リアルなものをどう考えるかが重要である。
カニングハム、フォーサイス、リアルなもの
 三幕物は従来では名作/忘れかけられたもの/新作という組み合わせをとるが、カニングハムはその形式は踏襲しつつも三幕物ではなく確率論的な組み合わせを導入した。どこから次のダンスへと誰もわからなくなるような、つまりアーティキュレーション(分節化=接合)の様子が認知できないようなダンスになっている。小杉武久の音楽に比べても、ダンスはどこで盛り上がりなのかさえわからなくなる。これは、ライフ・フォームというコンピュータ・ソフトにパターンを組み込んで、妙な組み合わせの状態を多数発生させていることにもよる。これは絵画で言えば、サイ・トゥウォンブリーやロバート・ライマンの、全体的なプランの出現を可能なかぎり遅らせ、個々の断片が継起する状態のままにさせる効果に相当する。全体を統合する空間軸や時間軸に対する批判と解体をめざす作品群、これにはチュミも含む60年代の問題だ。岡崎は言う、私にとっては相変わらず刺激的に感じ、real/ possibleの意味で非常にrealに感じるのだと。
そこでカニングハムに比して他方、フォーサイスはリベスキンドと同様にあまりにわかりやすいイラストレーションによる図式化をしてしまっているのではないか。ただ、「最近はそこからカニングハム的な積極的な意味での退屈と弛緩に向かっていると思う」(浅田)。バッハをはじめとしてシェーンベルク、ブーレーズは対位法を作用していたのだが、対位法の基本アルゴリズムはx-x1/x-1/x(たとえば原型、逆行型、倒置型、逆倒置型)という単純なクラインの四元群。その単純さを克服するために、表面において複雑なセリーを施して精緻な構造を形成していた。だが、現在ではアルゴリズム自体をより複雑に設計できる状況が到来し、アルゴリズムもある種の単独性を獲得できるようになった。対位法にとらわれることなく、偶然のコインシデンスさえもジェネレートできるようにアルゴリズム(プログラム)を複雑化させること。そうしてコレオグラファーとして自分が必要とされなくなるときに、いかにして舞台から消え去るか。これがいまの課題なのだ。
自称がもたらす記号論的な一つの帰結ではなく、主体を複数に分裂させる複数の言語ゲームへ
 コールハースはプログラム決定論を唱えながらも妥協的に形態へ配慮している。そうすると、フラーの試みた切断はむしろコールハースよりも過激なのではないか。フラーは、形態をつくらせても異常にうまいサーリネンの対極に位置し、建築にとっての外的環境や形態をまったく無視する超機能主義を採用している。建築を成立させる条件にインフラストラクチャーを介在させることなく、先験的な空間を前提にすることなく住宅を自立させようとする。しかももはや自然景観との適合性や場所との整合性すらない。これは、いわばホームレス住居でもあり、ケージたちブラック・マウンテン・カレッジの系譜とも重なる。
経験の主体を自称する者が自分をマイノリティとする。しかし、その自称の定義は、記号論的な体制にあっては他者にどう見られるかということに根拠づけられてしまう(ex.「ドイツ人はドイツ人と見られることによってドイツ人である」)。女性、民族に関しても同様の手続きのもとで主体の名前が与えられる。ラウシェンバーグ~フルクサスやボイス(主観的経験の自称)がそうした図式の中にあったとすると、その圏外に出たと言える例外はフラーなど数少ない。
 カルパッチオ・ベリーニ・ティツィアーノ~プッサンなどヴェネツィア派には可能性が見出せる。ティツィアーノの場合。最初に画面全体の構造を決定しないで描いていく、つまり適当に色彩を並べて画面を複雑な状態にしていく。それとは別に人物の物語をつくり、その複数のセリーをもう一度画面のなかで重ね合わせる。この制作手法はヴァザーリから偶然的すぎると批判されたが、これによって前景/後景、人物/風景、明暗、奥行、色相といった一本に束ねられない諸秩序(複数の言語ゲーム)が分散・溶融しているような、見尽くせない魅力が成立している。これに比べると、ロスコの絵は図式的に単純化されている。プッサンの場合。一義的には前景/後景や図/地と文節しきれない複数の場面の重ね合わせから成り立っている。ダ・ヴィンチやカラヴァッジオよりもプッサンやティツィアーノの作品が見た記憶から模写することが困難なのは、手持ちのシェーマで解析しにくいために想起の対象として複雑だから。ここでは複数のシェーマが階層性なく重ね合わされている。そのためこの絵画は「読まれ得る」(フリード)、つまりシンタクスがあることがわかり、「読むに値する」のだ。
ヴェネツィア派を導入すること、それは歴史の引用なのかモダンなのかの決定不能性のもとでなされなければならない。ポストモダン・ヒストリズムではリテラルにパラディオのように見えるものを作ってしまった。そうではなく、ル・コルビュジエがパラディオを変形させたような(そしてロウがそう分析したような)変形過程を必要とする。古典主義ではなく、古典主義に対してロウが言うマニエリスム、アイゼンマンが重視した変形を施すこと。
濃度、構造的因果性のもとで美学的判断を考える
モダニズムは一方で「いま」の多層性を明らかにしながらも、他方でアポカリプス的な時間性に依拠したまま終わりのなかで「いま、ここ、私」を特権的に実体化してしまった。だが、歴史的に見ても終わりは来なかった、あるいは終わりの切迫感は成り立たなくなった。そのため、非常に弛緩した状態になっている。この弛緩はフォーサイス的な積極性から考えると悪くない。むしろ中途半端なモラルや目的論的判断力に対して抵抗したい。
一枚の作品があるなかに、全体の空間、これから発生してくるだろう空間が確率的に見える。そこでいま現象的に知覚されるものは確率的な全体性でしかない。トゥウォンブリーやケージは断片的には解体したのかもしれないがこうした確率性を欠いている。断片とは、確率的なかたちで相互に矛盾する複数の全体性を喚起、ジェネレートするものであって、そのためにはパラディグムの広さや矛盾した重ね合わせが必要になる。このようにパラディグムがない場合には、シンタクスが物象化されざるをえず、オブジェになってしまう。これでは、対象は濃度から測られず、実体化されてしまう。美術作品の質の判断はあくまで濃度に由来するもの。
構造を濃度の問題としてとらえてみよう。クラウスは構造をいわば映画的に時間軸でとらえてしまったために、一望できるマトリクスで循環するクラインの四元群のうちどれを選ぶのかは主観による、としてしまった。そのため「にもかかわらずこれを選んだ理由」について言えなくなる。濃度の配置としての構造とは、確率をもって分布する異なる事物(雨/曇り/晴れ)の配置であり、これはとりわけ美学的判断の対象である構造にふさわしい。そして、そこに構造的布置がそれ自体を決定する(構造論的決定)ことで決定は下される。つまり、形態から構造を見るのが美的判断であって、構造のなかのヴァリアントとして形態を見るのとは異なる。知覚は知覚自体が構造なのであり、知覚の外に構造があるわけでも対になっているわけでもない。このとき、構造主義と実存主義は対立するものではなくなるだろう。
また、いわゆるインタラクティヴな構造と呼ばれるものは偽の問いである。現在のインタラクティヴとは、計画主体(作家)は全能の神で、参加者には変換可能性がありますよ、それで戯れなさい、と言っているのと同じことだ。大文字の建築を目指すならば、まだ不十分だ。
作家と一致することなく作品が生き残り、問われる役割があるのならば、
 芸術家や建築家が職業的に担っていた部分は現在でも必要だ。社会には、誰が主体かわからない解決不可能な問題、計画では決定できない事後的に発生してくる問題がある。都市計画以降に発生してくる問題は、現在ではフランクフルト学派のような合意や調停によるレギュレーションの論理によって処理されている。しかし、調停可能/不可能を決定不能なままに維持するシステムを想定するべきだ。これはプログラムとして記述できる問題である。あらゆる事物が不可避的に何らかの計画を表象してしまうために、事後的な複数の都市計画のあいだにはコンフリクトが発生する。この諸計画のコンフリクトがあらゆる事物のあいだでのコンフリクトとされているものだ。このことが環境問題や都市計画では問題になっているのではないか。このように、確率論的な立場からコンテクスチュアズムの立場に立つという役割が芸術には問われる。
 確率論的な決定不能性。それは、実際に10回体験して見るたびにちがって見えるのではなく、見る前から確率的に決定不能なのだ。可能世界では降水確率30%の予報のもとでは雨の振った三つの世界と七つの世界は分岐しているが、現実にはこの一つの世界のなかで確率的な次元が出現する。ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』では、雨が振っているけれど私は信じないという事態に言及される。この問題は、可能世界の束に還元しても実存的な主体的経験に還元しても失われてしまう。「いま、ここ」は、こうした複数の状態の確率論的な重ねあわせから考えられなければならない。
重ね合わせがもたらすサブライム

 リオタールはニューマン「崇高はいま」を指してこう言った、世界がいまここに生起しているということの驚きこそがサブライムであると。だがその言葉は、決してこない終末を待ち続けるユダヤ的期待をもっているニューマンにではなく、さまざまな状態を重ね合わせようとするカニングハムやフォーサイスにこそふさわしい。この状態は、いわば「「いま、ここ」がいろんな状態が多様な確率変数をもってボヤーッと重なり合っているような形」「退屈」(浅田)、「どっちつかずの訳のわからない状態」「中性的な時間の広がり。どっちつかずの濃度だけがある状態」(岡崎)なのだ。

2013年9月17日火曜日

蓮實重彦について2


マゾヒズム的段階

ベルサーニ『フロイト的身体』で論じられる、エディプス的抑圧なき多形倒錯のマゾヒズム的段階は、蓮實の「まず画面を見よ」が要求する状態とよく似てますね。映画紹介者としてのみ蓮實を通過するとマゾヒズム的段階にはピンと来ないかもしれないけれど、蓮實はまず画面より始めよ、と零度の状態から始めさせるんですが、これを文字通りにやると制御不可能な膨大な刺激量のカオスに直面する。そこで、蓮實はその宣言と「同時に」整流させる秩序を与えることで読者を染めた、というのが私の見立てなんですね。また、その秩序は経験の追体験的記述であったと。「視聴チューターとしての蓮實」というわけです。マゾヒズムとカオス/秩序とその非明示、はドヤ顔で今言わなくともブログ記事の方で書きましたが。

   欲動の組織
なぜ文体やイディオムにおいて蓮實の模倣がああも生じるかというと、刷り込みが生じてるというか、リビドーのレベルで「経験」の枠組みが規定されてるというか…。前は精神分析における分析家の系譜(教育分析によって一対一で分析家を養成する)に似てるんだろうなとみなしてました。蓮實というのは、経験と文体を絡め合わせて、真理の運動であるかのような欲望を組織し得た奇妙な人なんですね。褒めるとそう言えるけど、停滞がひどいので勘弁してほしくはある。
真似する雛形が蓮實として与えられ、そこで「映画経験」を見つけたから反復になるわけです。おのれの経験を賦活するための文体操作にしか向かわないから、研究の視点において不十分でごまかしがあると見られる細部指摘の不十分さは、いわば二次的なものゆえなんですね。彼らが、蓮實や特定の映画をけなされると我がことのようにキレたりヘイトを噴出したりすることがありますが、それは自分をけなされたと同然に受け止める程度に主客がまざっていたり自分の「経験」の構成に絡まってるからでしょう。追体験記述の文体という一部系統を除くと、シネフィルの大半は趣味のコミュニティであり、ヘイトをぶちまけて嬉々とするナイーブな擬似エリート気分の連中にすぎないですし、真なるシネマの輝きがあれば人は正しく生きるのである、といった言説で満足する人が多い。リシャールや詩学では起きなかった経験の激しい転移がなぜ蓮實の場合起きたかというと、テキストとちがって眼前に存在しない映画を想起や想像的なものを経由して個々人において立ち上がらせる段取りだったためでもあるんでしょうね。精神分析で言われる転移の局面は映画批評のみならず批評ではしばしば生じることなんですが、蓮實圏域では特徴的な現れ方をしていたわけです。
経験・記述の話を踏まえると、よく言われる「作品内在的である・ではない」承認は、その上記の賦活形式の話なんだろうと思うわけです。蓮實近辺から演出分析にまで含む「内在」は、多くの場合、特定のイディオム運用や経験追体験喚起的な記述方法をとりつつ一定の展開を持たせることなどへの、生理的反応か研究領域のセグメンテーションとの呼応であるものが多いんじゃないかな。

  精神分析と蓮實
私は、経験をめぐる変なシステムとして映画や映画の語り方に興味をもったし、認知訓練のようなものとして蓮實チューターを使った。私は、あまり裏付けなく、精神分析の運動自体(理論や現場というより)と映画の言葉がすごく似てるという認識からシネフィル経験がはじまってるんですよ。その前にヌーヴォーロマン好きだったから、再現記述の関心が先行してたのも大きかった。一度蓮實のチュータープロセスを潜ったわけですが、その私の経験を再構成すればこんな感じになります。
精神分析の類似性とは、フーコー図式でいうならば非理性との対話に駆動されているとも言えるし、大雑把に言うにしても、言語以前を含む主体形成を、言語から遡行するようにして探求する目的のセッティングがあるでしょう。フロイトならば死の欲動や反復強迫など、医学や心理学を逸脱するような概念群にいたる。あと、患者や症例の一回性を認めるでしょう。症例の示す出来事の真理みたいな局面もある。これって映画経験をめぐる文彩に似てるというか、蓮實は密輸入して盛り込んだんじゃないかと。患者=作品の一回的経験から語る分析家=映画批評、とね。私はラカンより先に赤間啓之や十川幸司を読んでたから、ラカン共同体とラカン臨床の絡み合いをイメージしてた。
精神分析と現象学のもつれた系譜からヌーヴェルクリティックが生まれたという認識は、ヌーヴェルクリティックのみならず広く考え直すにはよいかもなあと思ってる。

  サスペンス形式
蓮実にあってメロドラマ=サスペンス形式は、過剰のための予期の包囲と、その上での過剰との接触の前準備になるから構造に対する外部=過剰という枠組みと連結してる。他ジャンルへの規定は知らないけれど蓮實は基本的にサスペンス形式の全面化の人です。蓮實特有イディオムである「出会い損ね」「待機・予期」「宙吊り」とかはそのサスペンス形式において先取りされた形式のもとで個々のショットの位置づけながら、ショットを追体験喚起的に記述するときの構成にかかわってる。
上記の過剰というのは、構造から漏れて、構造を釣り支える一点として機能するものですね。「構造とその外部」と言われるとき「外部」やゼロ記号とか。哲学寄りで精神分析やフロイトが読まれるときに、超越論的なものとか言われる。
蓮實における過剰とは、要するに特定のショットで、それを浮かび上がらせるためにジャンルじみた枠を召喚するわけです。といってもサスペンス形式。超越論的な思弁の枠組みをサスペンス形式捏造の際に密輸入したんじゃないかな。この種の超越論的なものとは、経験的には存在しないが、経験を条件付け、構造化するものですが、こういう枠組みを換骨奪胎してるから、蓮實が組織した欲動は「シネマの真理」の闘争みたいになっているのでしょう。彼のサスペンス形式は、通常サスペンスとみなされていないものを飲み込むのが特徴的で、たとえばロメールの『グレースと公爵』ですらショットのサスペンス的到来と待機の空間として読むわけです。もはやシステマティックな手続き。内在的と声高に言われもしますが、作品に外挿されるメソッドである面もあるわけです。メソッドといってもショットの経験の仕方をレイアウトしてるという手の込みようがあるので、一見してわかりにくいだけで。


私の考えてる蓮實と精神分析との並行性は、精神分析そのものを応用するというよりは、テクストを構成するレベルの類似といった感じなんですよ。まあ、蓮實を語るにあたって精神分析について拒否されうるけど、蓮實もまた精神分析から何らかの密輸入を図ったのかもしれず、しかし黙然としていたのであれば、精神分析との並行性を、「著者の意図」とは別に回復させて読むのは一考に値するだろう、と言えるのでは。

(注 前に書いた蓮實素描の補完的記事

2011年5月28日土曜日

ラクー=ラバルト書誌一覧

Philippe Lacoue-Labarthe, 1940-2007.
Wikipedia該当項目(仏語版独語版英語版日本語版
・当記事のdocファイル
(2009年12月作成。2013年6月更新[本ページ&doc])

参考文献・サイト
Simon Sparks, « Supplementary Texts » Retreating the Political, Routledge, 1997
John Martis, « Bibliography » Philippe Lacoue-Labarthe: Representation and the Loss of the Subject, Fordham University Press, 2005.
Tag "lacoue-labarthe" in Fark Yaraları = Scars of Différance (当blogにはJean-Luc Nancyのコメントも残されている)
« Philippe Lacoue-Labarthe : bibliographie » dans Revue Lignes, no.22, 2007.5
目次
 livre
 Éd. livre
 traduction
 article
 原著未確認記事
 Bibliography
 英語圏の書評
 邦語言及記事

livre
1973-79
・ (avec Jean-Luc Nancy), Le Titre de la lettre: une lecture de Lacan, Galilée, 1973.
    ○ trans. François Raffoul and David Pettigrew, The Title of the Letter: A Reading of Lacan, State University of New York Press, 1992.
・ (avec Jean-Luc Nancy), L'Absolu littéraire: théorie de la littérature du romantisme allemand, Le Seuil, 1978.
    ○ trans. Philip Barnard and Cheryl Lester, The Literary Absolute: The Theory of Literature in German Romanticism, State University of New York Press, 1988.
Portrait de l'artiste, en général, avec Just another story about leaving, recueil de photographies d'Urs Lüthi, Christian Bourgois, 1979.
    ○ 白井健三郎・守中高明訳『芸術家の肖像、一般』朝日出版社(ポストモダン叢書)、1988.12.
Le Sujet de la philosophie: Typographies 1, Aubier / Flammarion, 1979.
    ○ trans. Thomas Trezise, Hugh J. Silverman et al, The Subject of Philosophy, University of Minnesota Press, 1993.

1980-1989
Retrait de l’artiste en deux personnes, autour d'autoportraits de François Martin, FRAC Rhône-Alpes / MEM / Arte Facts, 1985.

L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985.
    ○ ed. Christopher Fynsk, trans. Christopher Fynsk et al, Typography: Mimesis, Philosophy, Politics, University Harvard Press, 1989. Reprint in University Stanford Press, 1998. [T.engと略記]
    ○ 大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9.
La Poésie comme expérience, Christian Bourgois, 1986.
    ○ trans. Andrea Tarnowski, Poetry as Experience, Stanford University Press, 1999.
    ○ 谷口博史訳『経験としての詩:ツェラン・ヘルダーリン・ハイデガー』未来社(ポイエーシス叢書)、1997.2.
・ (avec Patrick Roegiers et Christopher Meatyard), Theatre des realités, , Metz pour la photographie, 1986.

La Fiction du politique: Heidegger, l'art et la politique, Association de Publications prés les Universités de Strasbour, 1987, 2em version, Christian Bourgois, 1988.
    ○ trans.[partly] Paula Wissing, « Neither an Accident nor a Mistake », Critical Inquiry, no.15, 1989, pp.481-484.
    ○ trans. Chris Turner, Heidegger, Art, and Politics: the Fiction of the Political, Basil Blackwell, 1990.
    ○ 第6-7章の抄訳、庄田常勝訳「政治のフィクシオン:ハイデッガー、芸術そして政治」、『現代思想』1988年3月号「特集=ファシズム:〈精神〉の宿命」、pp.190-207. 第1-4章からの抜粋抄訳、庄田常勝訳「偶然でも誤謬でもなく」、『現代思想』1988年5月号「特集=キルケゴール:反復とアイロニー/特別企画=ハイデガーとナチズム」、pp.208-213.
    ○ 浅利誠・大谷尚文訳『政治という虚構:ハイデガー芸術そして政治』藤原書店、1992.4.
・ (avec Michel Deutsch), Sit venia verbo, Christian Bourgois, 1988.

1990-1999
Musica ficta: figures de Wagner, Christian Bourgois, 1991
    ○ trans. Felicia McCarren, Musica ficta: Figures of Wagner, Stanford University Press, 1994.
    ○ 谷口博史訳『虚構の音楽:ワーグナーのフィギュール』未来社(ポイエーシス叢書)、1996.3.
・ (avec Jean-Luc Nancy), Le Mythe nazi, L'Aube, 1991.
    ○ trans. Brian Holmes, « The Nazi Myth », in Critical Inquiry, vol.16, no.2, 1990, pp.291-312.
    ○ 抄訳、守中高明訳「ナチ神話」1・2、『批評空間』no.7、1992.10、no.8、1993.1
    ○ 守中高明訳『ナチ神話』松籟社、2002.6.
Pasolini, une improvisation : d’une sainteté, plaquette, William Blake & Co, 1995.
・ Simon Sparks, trans & ed., Retreating the Political, Routledge, 1997.
Métaphrasis, suivi de Le théâtre de Hölderlin, PUF, 1998.
    ○ 高橋透・吉田はるみ訳『メタフラシス:ヘルダーリンの演劇』未来社(ポイエーシス叢書)、2003.10.

2000-2009
Phrase, Bourgois, 2000.
    ○ Romanian trans. ?, Fraza/fhrase: poeme, Criterion (Norcross, GA), 2002.
Poétique de l'histoire, Galilée, 2002.
    ○ trans. H. Kollias, « The Poetics of History », Pli: The Warwick Journal of Philosophy, vol.10, 2000.
    ○ 藤本一勇訳『歴史の詩学』藤原書店、2007.4.
Heidegger: la politique du poème, Galilée, 2002.
    ○ trans. Jeff Fort, Heidegger and the Politics of Poetry, Basil Blackwell, 2007.
    ○ 西山達也訳『ハイデガー:詩の政治』藤原書店、2003.9.
L'« Allégorie », suivi de Un Commencement de Jean-Luc Nancy, Galilée, 2004.

Le chant des muses: Petite conférence sur la musique, Bayard Centurion, 2005.

・ (avec Thibaut Cuisset [Photographs]), Le dehors absolu, (Publié à l'occasion de l'exposition au palais des beaux-arts de Lille dans le cadre des transphotographiques), Filigranes, 2005.

La Vraie Semblance, publication posthume revue par Leonid Kharlamov, Galilée, 2008.

Préface à La Disparition, Christian Bourgois, 2009.

Ecrits sur l'art, recueil posthume, Les presses du réel, collection Mamco, 2009.

2010-
・ Agonie terminée, agonie interminable. Sur Maurice Blanchot, Galilée, 2011.

La Réponse d'Ulysse et autres textes sur l'Occident, recueil posthume présenté par Aristide Bianchi et Leonid Kharlamov, Éditions Lignes-Imec, 2012.

・ (avec Jean-Luc Nancy), Scène: Suivi de Dialogue sur le dialogue, Christian Bourgois, 2013.

Éd. livre
・ (Ed., avec Jean-Luc Nancy), Les Fins de l'homme: à partir du travail de Jacques Derrida, (colloque de Cerisy, 23 juillet-2 août 1980), Galilée, 1981.

・ (Ed., avec Jean-Luc Nancy, Etienne Balibar, Luc Ferry et Jean-François Lyotard), Rejouer le politique, Galilée, 1981.

・ (Ed., avec Jean-Luc Nancy), La retrait du politique, Galilée, 1983.

traduction
1973-79
・ (trad. avec Jean-Luc Nancy), Friedrich Nietzsche, « Rhétorique et langage ». Poétique, no.5, 1971.

・ (trad. avec Jean-Luc Nancy), Sigmund Freud, « Personnages psychopathiques sur la scène », Digraphe, no.3, automne 1974.

・ Friedrich Nietzsche, « La naissance de la tragédie. Fragments posthumes: automne 1869 – printemps 1872 », Oeuvres Philosophiques Complètes, 1-I, Gallimard, 1977.

・ Friedrich Hölderlin, Antigone de Sophocle, Christian Bourgois, 1978.

1980-1989
・ Friedrich Hölderlin, « Pain et Vin », Digraphe, no.22-23, Flammarion, mars 1980.

・ (avec Roger Munier), Martin Heidegger « Le défaut de noms sacrés », Contre toute attente, no.2/3, La Châtre, Gramma, printemps-été 1981.

・ (trad. avec Jean-Luc Nancy), Walter Benjamin, « Sur le Trauerspiel et la tragédie », Furor (Esthétique & Rhétorique), no.7, 1982.

・ (trad. avec Anne-Marie Lang), Walter Benjamin, Le concept de critique esthétique dans le romantisme allemand, Flammarion, 1986.

・ (trad. avec Ana Domenech), Josep Vicens Foix, Gertrudis, suivi de KRTU, Christian Bourgois, 1987.

・ (trad. avec Jean-Luc Nancy), Friedrich Nietzsche, « Fragments posthumes 1874-1876 », Oeuvres Philosophiques Complètes, 2-II, Gallimard, 1988.

・ (trad. avec Michel Haar et Jean-Luc Nancy), La naissance de la tragédie. Textes, fragments et variantes, etabis par Giorgio Colli et Mazzino Montinare, Gallimard, 1989.

1990-1999
・ Friedrich Hölderlin, Oedipe le tyran de Sophocle, Paris, Bourgois, 1998

2000-2007
・ (avec Federico Nicolao), Giorgio Caproni, Cartes postales d’un voyage en Pologne, William Blake & co., 2004.

・ (trad. avec Claire Nancy), Euripide, Les Phéniciennes, Belin / L’extrême contemporain, 2007.

article
1973-79 (●は単行本所収記事、○は翻訳)
● « Littérature et philosophie », Poétique, no.1, 1970, pp.51-63. Repris et modifé sous le titre « La Fable (littérature et philosophie) », dans Le Sujet de la philosophie: Typographies 1, Aubier / Flammarion, 1979.
    ○ trans. Hugh J. Silverman, « The Fable (Literature and Philosophy) », Reseach in Phenomenology, no.15, 1985, pp.43-60. Reprint in Thomas Trezise, Hugh J. Silverman et al, trans., The Subject of Philosophy, University of Minnesota Press, 1993, pp.1-13.
● « Le Détour », Poétique, no.5, 1971, pp.53-76. Repris dans Le Sujet de la philosophie: Typographies 1, Aubier / Flammarion, 1979.
    ○ trans. Gary M. Cole, « The Detour », in Thomas Trezise, Hugh J. Silverman et al, trans.The Subject of Philosophy, University of Minnesota Press, 1993, pp.14-36.
● « La Dissimulation (Nietzsche, la question de l’art et la ‘littérature’) », dans Maurice de Gandillac et Bernard Pautrat, éds., Nietzsche aujourd’hui?, tome 2: Passion, Union Générale d’Editions(U.G.E.), 1973, pp.9-36. Repris et modifé en titer de « Nietzsche Apocryphe », dans Le Sujet de la philosophie: Typographies 1, Aubier / Flammarion, 1979, pp.75-109.
    ○ trans. Timothy D. Bent, « Apocryphal Nietzsche », in Thomas Trezise, Hugh J. Silverman et al, trans.The Subject of Philosophy, University of Minnesota Press, 1993, pp.37-56.
● « L’Oblitération », Critique, no.313, 1973, pp.487-513. Repris dans Le Sujet de la philosophie: Typographies 1, Aubier / Flammarion, 1979, pp.111-184.
    ○ trans. Thomas Trezise, « Obliteration », in Thomas Trezise, Hugh J. Silverman et al, trans.The Subject of Philosophy, University of Minnesota Press, 1993, pp.57-98.
● « Note sur Freud et la représentation », Digraphe, no.3, automne 1973, pp.70-81. Repris et modifé sous le titre de « La Scéne est primitive » dans Le Sujet de la philosophie: Typographies 1, Aubier / Flammarion, 1979, pp.185-216.
    ○ trans. Karen MacPherson, « The Scene Is Primal », in Thomas Trezise, Hugh J. Silverman et al, trans.The Subject of Philosophy, University of Minnesota Press, 1993, pp.99-115.
・ « Typographie », Sylviane Agacinski et al, eds., Mimésis des articulations, Aubier / Flammarion, 1975, pp.165-275.
    ○ trans.[partly] Eduardo Cadava, « Typography », Diacritics, no.8, Spring 1978, pp.10-23.
    ○ trans. Eduardo Cadava, « Typography », in T.eng, pp.43-138.
・ « L’imprésentable », Poétique no.21, 1975, pp.53-95.
    ○ trans. Thomas Trezise, « The Unpresentable », in Thomas Trezise, Hugh J. Silverman et al, trans.The Subject of Philosophy, University of Minnesota Press, 1993, pp.116-157.
・trans. Robert Vollrath and Samuel Weber, « Theatrum Analyticum », Glyph, no.2, 1977, pp.122-143. Reprint in Timothy Murray, ed., Mimesis, Masochism, and Mime: Te Politics of Theatricality in Contemporary French Thought, University of Michigan Press, 1997, pp.175-196.
・ « Lettre (c’est une lettre) », Misère de la littérature, Christian Bourgois, Première livraison, 1978

● « La Césure du speculatif », (prononcé à Université de John Hopkins le 6 mars 1978), publié dans postface à Friedrich Hölderlin, L’Antigone de Sophocle, éd. & trad par Philippe Lacoue-Labarthe, Christian Bourgois, 1978, pp.183-223. Repris dans L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985, pp.39-69.
    ○ trans. Robert Eisenhauer, « The Caesura of the Speculative », Glyph, no.4, 1978: Textual Studies, pp.57-84. Reprint in T.eng, pp.208-235.
    ○ 「思弁的なるものの休止」守中高明訳、『批評空間』no.5、1992.4、「特集=江戸思想史への視点/ヘルダーリンとドイツ・ロマン派」
    ○ 「思弁的なるものの中間休止」、大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9、pp.50-99.
● « Hölderlin et les grecs », Poétique, no.40, 1979, pp.465-474. Repris dans L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985, pp.71-84.
    ○ trans. Judi Olson, « Hölderlin and the Greeks », in T.eng, pp.236-247.
    ○ 「ヘルダーリンとギリシア人」、大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9、pp.100-122.
(avec Jean-Luc Nancy), «La panique politique», Confrontation, no.2, 1979, pp.33-57. Repris dans La panique politique : Suivi de Le peuple juif ne rêve pas, Christian Bourgois, 2013.
    ○ trans. Céline Surprenant, « La panique politique », trans & ed., Simon Sparks, Retreating the Political, Routledge, 1997, pp.1-31.
    ○ trans. « Panik und Politik », Frag-Mente, no.29-30, März 1989: Religion – Mythos – Illusion, Die Visionen der Erlösung und der Entzung der Blider.
    ○ 「政治的パニック」柿並良佑訳、『思想』no.1056、2013年1月号、pp.23-64 (訳者解題「恐怖(パニック)への誕生:同一化・退引・政治的なもの」pp.65-86付)
● « L’Echo du sujet », Le Sujet de la philosophie: Typographies 1, Aubier / Flammarion, 1979, pp.213-303.
    ○ trans. Barbara Harlow, « The Echo of the Subject », in T.eng, pp.139-207.

1980-1989
● « Au nom de... », Les Fins de l'homme: à partir du travail de Jacques Derrida, (prononcé au Colloque de Cerisy du 23 juillet au 2 août 1980), eds. par Philippe Lacoue-Labarthe et Jean-Luc Nancy, Galilée, 1981, pp.413-453. Repris (comme chaptre 3) dans La retrait du politique, eds. par Philippe Lacoue-Labarthe et Jean-Luc Nancy, Galilée, 1983. Repris dans L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985, pp.229-255.
    ○ trans. Simon Sparks, « In the Name of ... », trans & ed., Simon Sparks, Retreating the Political, Routledge, 1997, pp.55-78.
    ○ 「ジャック・デリダへ:の名において」、大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9、pp.336-381.
・ (avec Christopher Fynsk), « Séminare ‘politique’ », Les Fins de l'homme: à partir du travail de Jacques Derrida, (prononcé au Colloque de Cerisy du 23 juillet au 2 août 1980), eds. par Philippe Lacoue-Labarthe et Jean-Luc Nancy, Galilée, 1981, pp.487-500.
    ○ trans. Simon Sparks, « ’Political’ Seminar », trans & ed., Simon Sparks, Retreating the Political, Routledge, 1997, pp.87-99.
● « Diderot, le paradoxe et la mimésis », Poétique, no.43, 1980, pp.267-281. Repris dans L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985, pp.13-36.

    ○ trans. Jane Popp, « Diderot: Paradox and Mimesis », in T.eng, pp.248-266.
    ○ 「ディドロ:パラドックスとミメーシス」、大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9、pp.10-47.
   (avec Jean-Luc Nancy), «Le peuple juif ne rêve pas», La psychanalyse, est-elle une histoire juive?, Seuil, 1981. Repris dans La panique politique : Suivi de Le peuple juif ne rêve pas, Christian Bourgois, 2013.
    ○ trans. Brian Holmes, « The Unconscious is Destructured Like an Affect »(Part 1 of « The Jewish People do not Dream »), Stanford Literary review, vol.6, no.2, Fall 1989, pp. 191-209.
    ○  「ユダヤの民は夢を見ない」藤井麻利、『イマーゴ』vol.3-no.719927月号、「特集=政治の心理学:情報操作のメカニズム」
・ « Baudelaire Contra Wagner », Études française, vol.17, no.3-4, 1981, pp.23-52.

・ (avec Jean-Luc Nancy), « Avertissement », Philippe Lacoue-Labarthe, Jean-Luc Nancy, Etienne Balibar, Luc Ferry et Jean-François Lyotard, éds., Rejouer le politique, Galilée, 1981, pp.9-11.
    ○ trans. Simon Sparks, « Foreword to The Centre for Philosophical Research on the Political », trans & ed., Simon Sparks, Retreating the Political, Routledge, 1997, pp.105-106.
・ (avec Jean-Luc Nancy), « Overture », Philippe Lacoue-Labarthe, Jean-Luc Nancy, Etienne Balibar, Luc Ferry et Jean-François Lyotard, éds., Rejouer le politique, Galilée, 1981, pp.11-28.
    ○ trans. Simon Sparks, « Opening Address to the Centre for Philosophical Research on the Political », trans & ed., Simon Sparks, Retreating the Political, Routledge, 1997, pp.107-121.
● « La Transcendance finie/t dans la politique », Philippe Lacoue-Labarthe, Jean-Luc Nancy, Etienne Balibar, Luc Ferry et Jean-François Lyotard, éds., Rejouer le politique, Galilée, 1981, pp.171-214. Repris dans L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985, pp.135-173.
    ○ trans. Peter Caws, « Transcendence Ends in Politics », Social Research, no.49, Summer 1982, pp.405-440. Reprint in T.eng, pp.267-300.
    ○ 「政治のなかの有限なる超越/超越は政治のなかで終わる」、大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9、pp.192-252.
● (avec Jean-Luc Nancy), « Le Mythe nazi », Les méchanismes du fascisme, Bibliothèque de prêt du Haut-Rhin / Comité sur L’Holocauste, 1981. Repris dans Le Mythe nazi, L'Aube, 1991.
    ○ trans. Brian Holmes, « The Nazi Myth », in Critical Inquiry, vol.16, no.2, 1990, pp.291-312.
● « Où en étions-nous ? », (interventions prononcées à la décade du 1 août 1982 de Cerisy-la-Salle, autour de Jean-François Lyotard), publié dans Jean-François Lyotard et al, La Faculté de juger, Minuit, Coll. Critique, 1985, pp.165-193. Repris dans L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985, pp.257-285.
    ○ trans. Christopher Fynsk, « Talks », Diacritics, vol.14, no.3, Autumn 1984: Special Issue on the Work of Jean-Francois Lyotard, pp.23-37.
    ○ 「どこまで話したんだっけ」、宇田川博訳『どのように判断するか:カントとフランス現代思想』国文社、1990.10、pp.267-317.
    ○ 「ジャン=フランソワ・リオタールへ:われわれはどこまで話したのか?」、大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9、pp.382-427.
・ (avec Jean-Luc Nancy), « Noli me frangere », Revue des sciences humaines, no.185, Presses Universitaires de Lille, 1982: La littérature dans la philosophie.

・ (avec Jean-Luc Nancy), « La retrait du politique », La retrait du politique, éds. par Philippe Lacoue-Labarthe et Jean-Luc Nancy, Galilée, 1983, pp.183-200.
    ○ trans. Simon Sparks, « The ‘Retreat’ of the Political », trans & ed., Simon Sparks, Retreating the Political, Routledge, 1997, pp.122-137.
・ (avec Jean-Luc Nancy), « Annexe », La retrait du politique, éds. par Philippe Lacoue-Labarthe et Jean-Luc Nancy, Galilée, 1983, pp.201-205.
    ○ trans. Simon Sparks, « Annexe », trans & ed., Simon Sparks, Retreating the Political, Routledge, 1997, pp.138-142.
・ « Introduction » à Friedrich Hölderlin, Hymnes, Elégies et autres poèmes, Garnier / Flammarion, 1983

● « Histoire et mimésis », (prononcé au Colloque à Université de Strasbourg, en 3 mars 1983, "Sur la histoire"), publié dans L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985.
    ○ 「歴史とミメーシス」、大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9、pp.124-163.
● « Œdipe comme figure », (prononcé au Colloque à L’Université Brown, 30 novembre 1983), publié dans L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985.
    ○ trans. David Macey, « Oedipus as Figure », Radical Philosophy, no.118, March/April 2003, pp.7-17.
    ○ 「形象としてのオイディプス」、大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9、pp.298-334.
・ (avec Jean-Luc Nancy), « Chers amis »(lettre. Strasbourg, 16 novembre 1984), ?
    ○ trans. Simon Sparks, « ’Chers Amis’: A Letter on the Closure of the Political », trans & ed., Simon Sparks, Retreating the Political, Routledge, 1997, pp.143-147.
● « L'Antagonisme », (prononcé au Colloque organisé par Edouard Gaède à Universite de Nice Sophia Antipolis, 16 février 1985, "Nietzsche, Hölderlin et la Histoire"), publié dans Nietzsche, Hölderlin et la Grèce, Les Belles Lettres, 1985, pp.49-63. Repris dans L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985, pp.113-131.
    ○ 「アンタゴニズム」、大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9、pp.164-190.
● « Poétique et politique », (prononcé au Colloque à L'Université Gaston Berger à Saint-Louis, 13 décembre 1984), publié dans L'Imitation des modernes: Typographies 2, Galilée, 1985, pp.175-200.
    ○ 「詩学と政治」、大西雅一郎訳『近代人の模倣』みすず書房、2003.9、pp.253-295.
● « La vérité Sublime », Po&sie, vol.30, no.6, 1985 et vol.32, no.8, 1985 et no.3, 1986, pp.83-117. Repris dans le collectif, Du sublime, Belin, 1988, pp.97-147.
    ○ trans. David Kuchta, « Sublime Truth », Critical Inquiry, no.18, Spring 1991, pp.5-31, no.20, Winter 1991-1992, pp.207-229.
    ○ trans. Jeffery S. Librett, « Sublime Truth », Of the sublime: Presence in the Question, State University of New York Press, 1993, pp.71-108.
    ○ 「崇高な真理」大西雅一郎訳、『現代思想』1994年3月臨時増刊号「総特集=カント」、pp.264-285.
    ○ 「崇高なる真理」、梅木達郎訳『崇高とは何か』法政大学出版局、1999.5、pp.137-217.
・ « Introduction », Walter Benjamin, Le concept de critique esthétique dans le romantisme allemand, trad. par Philippe Lacoue-Labarthe et Anne-Marie Lang, Flammarion, 1986, pp.7-23.
    ○ trans. David Ferris, « Introduction To Walter Benjamin's The Concept Of Art Criticism In The German Romantics », Studies in Romanticism, vol.31, no.4, Winter 1992, pp.421-432.
(avec Patrick Hutchinson), « Entretien sur Hölderlin », Détours d’écriture, Éditions Sillages/Noël Blandin, avril 1987. Repris dans Revue L’Animal, n°19/20, « Le Simple / Philippe Lacoue-Labarthe », hiver 2008, pp.151-160. Repris dans Europe, n° 973, mai 2010, pp.43-60.
    ○ 「ヘルダーリンをめぐる対話」(聞き手:パトリック・ユチャンソン)、守中高明訳、『批評空間』no.5、1992.4、福武書店、pp.202-217.
● « Annexe: La fiction du biographique », La Fiction du politique: Heidegger, l'art et la politique, Association de Publications prés les Universités de Strasbour, 1987.
    ○ 「伝記という虚構」大谷尚文訳、浅利誠・大谷尚文訳『政治という虚構:ハイデガー芸術そして政治』藤原書店、1992.4、pp.248-262.
● « Annexe: Sur le livre de Victor Farias, Heidegger et le nazisme », Le Journal littéraire, ?. Repris et modifié dans La Fiction du politique: Heidegger, l'art et la politique, 2em version, Christian Bourgois, 1988、pp.173-188.
    ○ trans. ?, « Requied Reading », (Review of Victor Farias, Heidegger et le nazisme, 1987), Diacritics, vol.19, no.3-4, 1989, pp.38-48.
○ 「補遺:ヴィクトル・ファリアスの書『ハイデガーとナチズム』について」、浅利誠・大谷尚文訳『政治という虚構:ハイデガー芸術そして政治』藤原書店、1992.4、pp.221-245.

・ « ? »(France Culture, 12 mars 1988).
    ○ 「?」?訳、『現代思想』1989年4月臨時増刊号「総特集=ファシズム」
・ « Avant-propos » à Roger Laporte, Lettre à personne, Plon, 1989.

・ « La réponse d'Ulysse »(1988), Confrontations, no.20, 1989: Après le sujet qui vient, pp.153-160.
    ○ trans. Avital Ronell, « The Response of Ulysses », Topoi, no.7, 1988, pp.155-160. Reprint in Who Comes After the Subject?, Ed. by Eduardo Cadava, Peter Connor and Jean-Luc Nancy, Routledge, 1991, pp.198-205.
    ○ 「オデュッセウスの返答:アヴィタル・ロネルに捧ぐ」大西雅一郎訳、港道隆・鵜飼哲・大西雅一郎・松葉祥一・安川慶治・加國尚志・廣瀬浩司訳『主体の後に誰が来るのか?』現代企画室、1996.3、pp.244-259.
・ インタヴュー「ハイデガー・ナチズム・〈ユダヤ性〉」(聞き手・訳:鵜飼哲・大西雅一郎)、『現代思想』1989年8月号「特集=闘うデリダ:言語のポリティクス」、pp.84-104.

・ インタヴュー「ラクー=ラバルト、自らを語る」(聞き手・訳:浅利誠、1989.10.1)、浅利誠・大谷尚文訳『政治という虚構:ハイデガー芸術そして政治』藤原書店、1992.4、pp.263-290.

・ インタヴュー「ラクー=ラバルト、「ハイデガー問題」を語る」(聞き手:浅利誠、訳:浅利誠・大谷尚文、1989.11.10)、浅利誠・大谷尚文訳『政治という虚構:ハイデガー芸術そして政治』藤原書店、1992.4、pp.291-315.

1990-1999
・ « Le désastre du sujet », Vies d’artistes, La différence / Mobile matière, 1990.

・ « De l’éthique: à propos d’Antigone », Lacan avec les philosophes, Albin Michel / Bibliothèque du Collège International de Philosophie, 1991.

● « Il Faut. »(1991), Qui Parle, vol.10, no.2, 1997, pp.33-60. Repris dans Heidegger: la politique du poème, Galilée, 2002.
    ○ trans. Jeff Fort, « Il Faut. », Modern Language Notes, vol.107, no.3, 1992, pp.421-440. Reprint in Heidegger and the Politics of Poetry, Basil Blackwell, 2007, pp.38-59.
    ○ 西山達也訳「ねばならない」(1991年にテュービンゲンのヘルダーリン協会が企画する「塔での講演」にて)、『ハイデガー:詩の政治』藤原書店、2003.9、pp.99-150.

・ « L’avortement de la littérature », Du féminin, Le griffon d’argile & Presses Universitaires de Grenoble / Trait d’union, 1992.

・ « Sublime (problématique du) », Encyclopaedia Universalis, 1992.

(avec Jean-Luc Nancy), «Scène», Nouvelle Revue de Psychanalyse, no.46, Gallimard, 1992: La scène primitive et quelques autres. Repris dans Scène: Suivi de Dialogue sur le dialogue, Christian Bourgois, 2013.
    ○ trans. M. Behr, « Scene: An Exchane of Letters », Richard Thomas Eldridge, ed., Beyond Representation: Philosophy and Poetic Imagination, Cambridge University Press, 1996.
・ « Préface » à Jean-Marie Pontévia, La Peinture, masque et miroir, William Blake & Co, 1992

« Monogrammes X », Futur Antérieur, no.15, janvier 1993. Repris dans Revue L’Animal, n°19/20, « Le Simple / Philippe Lacoue-Labarthe », hiver 2008.

● « Le courage de la poésie », (prononcée à Maison des écrivants à Paris, 23 juin 1993), publié dans Conférences du Perroquet, no.39, Le Perroquet, juin 1993. Repris dans Heidegger: la politique du poème, Galilée, 2002.
    ○ trans. Simon Sparks, « Poetry’s Courage », Aris Fioretos, ed., The Solid Letter: Readings of Friedrich Hölderlin, Stanford university Press, pp.74-93.
    ○ trans. Jeff Fort, « The Courage of Poetry », Heidegger and the Politics of Poetry, Basil Blackwell, 2007, pp.60-82.
    ○ 西山達也訳「詩作の勇気」、『ハイデガー:詩の政治』藤原書店、2003.9、pp.99-150.
・ « Une figure pour (l’)Europe », Penser l’Europe à ses frontières, géophilosophie de l’Europe, l’Aube / Monde en cours, 1993

・ « Remarque sur Adorno et le jazz, D’un désart obscur », Rue Descartes, no.10, Albin Michel, 1994. Repris dans Revue L’Animal, n°19/20, « Le Simple / Philippe Lacoue-Labarthe », hiver 2008.

● « L’esprit du national-socialisme et son destin », (prononcé au Colloque de Freiburger Kulturgespräche à Marienbad, le 12 mars 1995, "Postmoderne und Fundamentalismus: Neue semantische und politische Frontstellungen"), publié dans Cahiers philosophiques de Strasbourg, no.5, 1997. Repris sous le titre de « Epilogue: L’esprit du national-socialisme et son destin », dans Heidegger: la politique du poème, Galilée, 2002.
    ○ trans. Simon Sparks, « The Spirit of Nationa Socialism and its Destiny », trans & ed., Simon Sparks, Retreating the Political, Routledge, 1997, pp.148-156.
    ○ trans. Jeff Fort, « Epilogue: The Spirit of Nationa Socialism and its Destiny », Heidegger and the Politics of Poetry, Basil Blackwell, 2007, pp.83-.
    ○ 浅利誠訳「国民社会主義の精神とその運命」、『他者なき思想:ハイデガー問題と日本』藤原書店、1996.7、pp.19-47.
    ○ 西山達也訳「エピローグ 国民社会主義の精神とその運命」、『ハイデガー:詩の政治』藤原書店、2003.9、pp.203-226.
・ « Nous sommes dans l’urgence », Revue Lignes, no.31, Hazan, mai 1997.

・ « Fidélités », (prononcé au Colloque de Cerisy-la-Salle, en juillet 1997, "L'animal autobiographique, Autour de Jacques Derrida"), L’animal autobiographique: Autour de Jacques Derrida, Galilée, 1999.
    ○ trans. Michael Syrotinski, « Fidelities », Oxford Literary Review, no.22, 2000, pp.132-151.
・ « Syberberg: de l’Allemagne après Hitler », Trafic, no.25, Pol, pirntemp 1998.

・ « La leçon de Burckhardt », préface à Jacob Burckhardt, Leçons sur l’art occidental, Paris, Hazan, 1998.

・ « Traduction et histoire », La Traduction: poésie à Antoine Berman, Presses Universitaires de Strasbourg, 1999. Repris dans Revue L’Animal, n°19/20, « Le Simple / Philippe Lacoue-Labarthe », hiver 2008.
    ○ 「翻訳と歴史」伊藤綾訳、『言語態』no.1、言語態研究会編、2000、pp.124-138.
    ○ 「ロマン主義と翻訳:翻訳と歴史」野崎歓・伊藤綾訳、『現代詩手帖』2000年9月号「特集=ロマン主義:美と政治」、pp.28-41.
・ « L’Agonie de la religion », Revue des Sciences Humanes, no.253, 1999, pp.227-241.

・ 「[来日記念セミナー] インターナショナリズムの実践に向けて:ブランショ・ジラール・マルクス」(1999年来日時のインタヴュー、浅利誠訳)、『環』no.1、2000、pp.270-289.

2000-2009
・ インタヴュー「ドイツ精神史におけるマルクス」(聞き手・訳:浅利誠、2002.8.31)、ハイデガー/ラク=ラバルト『貧しさ』藤原書店、2007.4、pp.149-177.

・ « Avant-propos » à Roger Laporte, Le carnet posthume, Léo Scheer / Lignes, 2002.

・ « L’antithèse ironique », Revue Lignes, no.7, Léo Scheer, février 2002: Un autre Nietzsche.
    ・ trans. J. Hiddleston, « Staging of Mimesis: An Interview »(November 2002 in Strasbourg), Angelaki: Journal of the Theoretical Humanities, vol.8, no.2, August 2003, pp.55-72.
・ « Agonie terminée, agonie interminable », (prononcé au Colloque le29 mars 2003), publié dans Maurice Blanchot: Récits critiques, sous la direction de Christophe Bident et Pierre Vilar, Farrago / Léo Scheer, 2003, pp.439-449.

・ « La séparation c’est le commencement », La séparation, In Press, 2003.

« Philippe Lacoue-Labarthe par Bruno Tackels »(France Culture, 2003).

・ « Présentation » à Martin Heidegger, La Pauvreté / Die Armut, trad. par Philippe Lacoue-Labarthe et Ana Samardzija, Presses universitaires de Strasbourg, 2004.
    ○ 西山達也訳「「貧しさ」を読む」、ハイデガー/ラク=ラバルト『貧しさ』藤原書店、2007.4、pp.35-147.
« De Hölderlin à Marx : mythe, imitation, tragédie », entretien avec Philippe Lacoue-Labarthe réalisé par Bruno Duarte, Labyrinthe, vol.22, no.3, 2005, pp.121-133.

«Dialogue sur le dialogue»(avec Jean-Luc Nancy), Les études théâtrales, no.31-32, Centre d’études théâtrales, 2005: Dialoguer, vol. I: Dialogismes. Repris dans Scène: Suivi de Dialogue sur le dialogue, Christian Bourgois, 2013.

・ « Mime de rien », (prononcé au Colloque à L'Institut Finlandais et en Sorbonne, 28 janvier 2006, “Déconstruction Mimétique: Philippe Lacoue-Labarthe”). ミラーサイト

・ « Dialogue entre Jacques Derrida, Philippe Lacoue-Labarthe et Jean-Luc Nancy », (le 9 juin 2006 à Strasbourg), publié dans Rue Descartes, no.52, 2006 :Penser avec Jacques Derrida, pp.86-99.

・ 「[未発表インタビュー] ハイデガーとの対決」浅利誠訳、『環』no.29、2007年夏号、「追悼 Ph・ラクー=ラバルト 1940-2007」

原著未確認テキスト
・ trans. Geoffrey Bennington, « On the Sublime », Lisa Appignanesi, ed., Postmodenism: ICA Documents, no.4, Free Assn Books, second edition, 1989.
・ (avec Jean-Luc Nancy)「〈政治的なるもの〉と〈哲学的なるもの〉」立川健二訳、『現代思想』1986年8月号「特集=〈政治〉の発見」、pp.50-63.
・ 「グンドルフ賞受賞のことば」(1995年4月、ストラスブールでの講演)浅利誠訳、『他者なき思想:ハイデガー問題と日本』藤原書店、1996.7、pp.293-316
・ 「[特別寄稿] 分離、それは初めである」上田和彦訳、『環』no.19、2004年秋号、pp.242-255.
・ 「黒田アキあるいは絵画における勇気」桑田光平訳、『水声通信』no.28、2009年1-2月号「特集=黒田アキ」、pp.74-79.

Bibliography
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    ○ trans. by ?, « Introduction: Desistance », Philippe Lacoue-Labarthe, Typography: Mimesis, Philosophy, Politics, Harvard University Press 1989. pp.1-42. Reprint under the title of « Désistance », trans. by Peggy Kamuf and Elizabeth Rottenberg, Psyche: Invention of the Other, vol.2, Stanford University Press, 2008.
・ John Martis, Philippe Lacoue-Labarthe: Representation and the Loss of the Subject, Fordham University Press, 2005.
Déconstruction Mimétique: Philippe Lacoue-Labarthe. (Colloque à L'Institut Finlandais et en Sorbonne, le 28 janvier 2006) Mirror Site
Catastrophe and Caesura. (memorial conference for Lacoue-Labarthe, organized by Denis Hollier and Avital Ronell at New York University in April 10 - 12 2007.
Revue L’Animal, n°19/20, « Le Simple / Philippe Lacoue-Labarthe », hiver 2008.

英語圏の書評
1980-1989
・ Rakefet Sheffy, « review of The Literary Absolute », Poetics Today, 1988, pp.891-892.
・ Ian Balfour, « review of The Literary Absolute », Modern Language Notes, April 1989, pp.727-729.
1990-1999
・ David E. Cooper, « The Philosophy of Wonder », Times Literary Supplement, November 23, 1990, pp.1269-1270.
・ Joseph G. Kronick, « review of Typography: Mimesis, Philosophy, Politics », Review of Metaphysics, December 1990, pp.421-422.
・ Gregory Bruce Smith, « review of La Fiction du politique: Heidegger, l'art et la politique », American Political Science Review, June 1991, pp.616-619.
・ Todd May, « The Community's Absence in Lyotard, Nancy, and Lacoue-Labarthe. (Jean-Francois Lyotard, Jean-Luc Nancy, Philippe Lacoue-Labarthe) », Philosophy Today, fall 1993, p.275.
・ F. Goossen, « review of Musica ficta: Figures de Wagner », Choice, June 1995, p.1604.
・ John Xiros Cooper, « review of The Subject of Philosophy », Canadian Philosophical Review, August 1995, pp.262-264.
・ Bernice Glatzer Rosenthal, « review of Musica ficta », Notes, June 1997, pp.1180-1181.
・ Tina Chanter, « Tragic Dislocations: Antigone's Modern Theatrics », differences: A Journal of Feminist Cultural Studies, spring 1998, p.75.
2000-2009
・ Nathan Lee. « A Journey up the Danube, Philosophy Included. review of The Ister », New York Times, February 10, 2006.
2010-
・ Philippe Lacoue-Labarthe: La césure et l'impossible, Ed. par Jacob Rogozinski, Nouvelles Editions Lignes, coll. Fins de la philosophie, 2010.

邦語言及記事(邦訳単行本の訳者解説は省略)
● 高橋允昭「文学と哲学:ラクー=ラバルトの仕事をめぐって」、『ヨーロッパ文学研究』no.29、1981、pp.124-131→再掲載、『現代思想』1982年1月号「特集=現代フランスの思想」→加筆訂正、『デリダの思想圏』世界書院、1989、pp.237-250.
● 西谷修「補遺 ラクー=ラバルトの論について」、『不死のワンダーランド』青土社、1990.7、改題『不死のワンダーランド:戦争の世紀を超えて』講談社学術文庫、1996.7、増補新版『不死のワンダーランド』青土社、2002.9
安彦一恵「ラクー=ラバルトのハイデガー論」、『滋賀大学教育学部紀要』no.43、1993、pp.85-99.
上田和彦「神話と共同体」、『言語と文化』no.7、関西学院大学言語教育センター、2004.3、pp.111-124.
石丸博「ラクー=ラバルトの悲劇論 上」、愛知教育大学地域社会システム講座『社会科学論集』no.44、2006.3、pp.113-131
・ 『環』no.29、2007年夏号、「追悼 Ph・ラクー=ラバルト 1940-2007」
 ――Jean-Luc Nancy「暗闇の教え」「宙吊りの分有」「ラクー=ナンシー」
 ――Alain Badiou「未来に投げつけられた至言」
 ――Michel Deguy「散文となった詩」
 ――「ラクー=ラバルト著作一覧」など。
上田和彦「フィリップ・ラクー=ラバルト:神話・供儀・自伝」、関西学院大学『外国語・外国文化研究』no.14、2007、pp.111-134.
石丸博「ラクー=ラバルトの悲劇論 下」、愛知教育大学地域社会システム講座『社会科学論集』no.45、2007.3、pp.103-125.
石丸博「続・ラクー=ラバルトの悲劇論 上」、愛知教育大学地域社会システム講座『社会科学論集』no.46、2008.3、pp.237-248.
石丸博「続・ラクー=ラバルトの悲劇論 中」、愛知教育大学地域社会システム講座『社会科学論集』no.50、2012.3、pp.55-66.
・ 柿並良佑「恐怖(パニック)への誕生:同一化・退引・政治的なもの」、『思想』no.1056、2013年1月号、pp. 65-86.



――

2010年9月30日木曜日

廣瀬浩司「鏡像のメタモルフォーズと纏う身体の行為論」レジュメ

廣瀬浩司「鏡像のメタモルフォーズと纏う身体の行為論」レジュメ
(大宮勘一郎, 嶋田由紀, 廣瀬浩司, 柳橋大輔, 前田良三, 神尾達之 (著)『纏う 表層の戯れの彼方に』水声社, 2007.7所収)
(レジュメ作成: 2009.1)

レジュメの範囲を超えない文書。語句の選択には多少私の恣意が入っている。メルロ=ポンティは以下、メルロと略記。
あと、「他なる(もの)」と「他者」は意味の違いをもたせてない。
本論文に相当する語句でも、概念規定の差は特に設けられていないのと同様に。

書き出し
・ドゥルーズのシミュラクル、デリダの差延は
 存在/現れという形而上学的対立の逸脱として模索された。
 これは言語、象徴界における統御のもとで読まれがちだ。
 が、この言語論的展開はいまやメディア論的展開、情報論的展開に
 移行する中で思想史的意義の多くが失われた。
 そこで存在/現れの差異をもう一度身体において考える。


ラカン「鏡像段階論」(1949)
1. 自己の視覚像をもたない幼児は、鏡像の外在性を媒介に、自己のイマージュを身に纏う。
2. a.鏡像は理想自我(自己のモデル)を提供 かつ b.「フィクションの線」へ導く
b.全体像の先取りは完結せず、自己の現実との不調和が残る。
   そのため、疎外化的な目的と切り離して理想自我は形成されず、
   つねに「それを支配する幻影=亡霊」、自動人形、分身の出現にむすびつく。
3. 2の二重性のプロセスは、身体的現実/先取りされた全体像 の間の時間的弁証法。
  全体性-外在性は、「身体の寸断された像」のファンタスムを仕組む。

こうして、現れ/存在、内部世界/環境世界 の循環の破綻、非和解の問いとして出てくる。

ラカン「個人の形成における家族複合」(1938. Autre Ecrits所収)
ここでは上記の構図は顕著で、以下の問題が挙げられる。
・視覚的機能(鏡像の外在的全体像)の無前提の承認
・それが「讃える(saluer)」べきものとされ、「健康的(salutaire)]傾向とされる
後者はフーコーが『主体の解釈学』で分析したプラトン『アルキビアデス』と同じ構図。
プラトンは身体からの解放として、高貴な感覚器官である目をみつめる鏡像と語った。
この自己認識モデルへの対抗として、フーコーは「自己への気遣い」のテクノロジーの系譜を見出す。
[廣瀬はいわば、後期フーコーの展開をラカン的論理構成からの逸脱として考えている]


メルロの立場からするとラカンの鏡像論は、
すでに反省的に対象化可能なものとしての理念になってしまっている。
メルロは別のアプローチを立てる。
(以下は主として遺稿『見えるものと見えないもの』(1961)での議論から)
「像そのものが見えるようになるプロセス」を媒介する「感覚的なもの」の自己反省性。
:感覚的なものが 見る身体/見える身体、触れる身体/触れられる身体、
 能動/受動にみずから二重化し、両者の無限のメタモルフォーゼの場を創設する

いくつかの各論
・鏡像のしぐさの触感をも身体が感覚する例
 これは、「ここ」かつ「そこ」(鏡の中)の自己の身体を"同時に"感じる経験。
 メルロはこれを「距離をもった同一性(identité à distance)」と呼ぶ。
 感覚的身体は、「そこ」かつ「ここ」に、見える身体かつ見る身体。
 鏡という空間の「厚み」を通して行われる自己触発の経験。

 これは疎外に対して幸福な融合状態を対置するのでもなく、
 他者を「もう一人の私」にすることでもない。

・メルロは「可視性の危険」と言う。
 :人は「ある距離をもった場所から、体のどこかにまなざしを感じる」のだと。
  ex.その結果、たとえば、不意に人は自分の衣服を整える。
  この「場所」はどことも位置づけできない。
 :この事態は、身体が潜在的に可視的であること、
  可視的身体(見える身体)が他者のまざなしを先取りすることに由来し、
  身体が可視的なものとして知覚世界に入り込むときに不可避。
 :「可視性の危険」とは、実像/虚像、存在/現れ の戯れの場である以前に、
  そうした対立そのものの媒介である場。
 この危険の経験が、他者への第一の開けであり、自/他の区別の創設。

したがって、鏡像とは自己をたえず問いに付し、おののかせる場所なき場所性であり、
自己の二重化ではなく、他なるものの体内化。
感覚的なものの内在的距離、存在/現れの分離、像の像としての生成的過程が問われる。
メルロの「肉」は、この存在/現れの接合"と"分離の場のことであり、
場なき場、遠近を越えた「距離」の到来。


ラカンの議論はいわば、この他なるものの体内化による反復的な他なるものの変容を
一時停止させ、外在化させた、投影の場とするものだ。
ラカンの分析のドラマ性は、この一時停止→必然的な解体のプロセスであり、
感覚的なものの自己分裂(自己反復)をあらかじめ取り逃がし、かつ、暗黙に前提にしている。
そのため、自然/文化、現実/虚構、感覚/言語、内在/外在の対立を
ひそかに前提し、弁証法的な動力として利用しようとする。

この対立の前提と維持のために、ラカンは「現実」「現実界」の表象不可能性を
再定義し続けざるをえなくなり、それによって
概念的な素朴さと臨床的経験のズレを隠蔽し続けたのではないか。
すなわち、これは鏡像的経験の理論的な取り逃しからもたらされているのでは。
この問題は、アルチュセールのイデオロギー装置論においても共有されている。
「イデオロギーの中での現実の諸関係の想像上の変形」に語るとき、
装置の「物質的存在」/そこでの「主体の認知=再認」は同じ構図に陥ってる。
ここではラカン的な隠蔽が際限なく拡大している。
この問題が多くの文化研究においても共有されて生き延びている。


鏡像の経験は、視覚/触覚の対立を逸脱している。
身体の表面において、他者のまなざしに+触れられる 経験だからだ。

メルロの「身体図式」は、視覚/触覚の区別には関係せず、
「他者のまなざしへの身体的応答の総体」。
人が一定の身振りのスタイルを獲得するのは、
みずからの身体表面を他なるものの反復の場とすることによる。
他者のまなざしは、「見えないもの」「知覚できないもの」として経験の臨界をなす。
これに遠隔操作されるように身をよじり、
新たな身体図式を形成し、他者のまなざしの体内化をおこなう。

潜在的な行為
:他者のまなざしの体内化とともにおこなわれる、自己継続行為。
:そのとき、身体がみずからの上に折り重なり、他者の反復を反復し、行為の支えとなる。
:この行為によって、そのつど行為の零度から出発し、新たな身振りを創出する。


サルトル: 『存在と無』(1943)で語られるまなざしは
      私の身体を凝固させ、客観視する、私の自由を奪う「無」とされる。
[廣瀬はここで明言していないが、『四基本概念』におけるラカンのまなざし=対象aとする議論を、
 サルトルのまなざし論の延長にあるものとして、サルトルに遡りつつ指摘しているのだろう。
 実際、『四基本概念』ではサルトルの論も言及され、明白な系譜的連続性がある。]


メルロの「可視性の危険」は、
 客観視するまなざし(サルトル)でも、自己を疎外する超越的まなざし(ラカン)でもない。
 身体の一部を活性化し、応答の身振りを惹起させる。

「感覚的なものに内在するような否定性」として
他者のまなざしは鏡の表面に織りなされている。
この他者のまなざしの否定性が、感覚的なものの経験を織りなす。

「距離をもった同一性」の「距離」
:感覚そのものの表面において直に経験される内在的な距離。
:感覚的なものがみずから距離をとり、みずから内側から多数化する。
:感覚的なものが感覚的にはらむ、感覚的なものからの偏差。
:そこに「見えないもの」(「距離」そのもの)が到来する。
そこで「内的視点そのものを巻き込んで形成運動が起きている」
という事態を記述しなくてはならない(河本『システム現象学』p.21)。
いわば、制作的-創造的な視点から
「本質」(本質/事実の対立ではなく、メルロの言う「蔽われた本質」)の生成を追跡すること。


アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』は、以上の議論から考えると、
「自己自身への自我の現前」としての「恥ずかしさ」をレヴィナスから導入し、
ハイデガーの「自己触発」として関係付けている論旨になっているが、
「恥ずかしさ」はそこでは「主体化」/「脱主体化」の二重の運動による
一種の擬似弁証法と化し、感覚的なものの自己反省性の局面を通り過ぎていってしまう。


メルロ「眼と精神」(1961)
鏡像のまなざし=他者のまなざし は
物のなかから生まれるまなざし。
画家とはこの物のまなざしに沿って見る者であり、
画家のまなざしも者の中から生まれる


ラカン『四基本概念』(1963)
三角形1. 実測点=感覚器官としての目=デカルト的表象主体  
三角形2. 物から生まれる視覚=光点=まなざし=対象a   とされる
2は1のパースペクティブ(実測的空間)を崩壊させ、主体の地位を揺るがす。
2が主体を構成しつつ否定する。
この一点、光点をラカンは「ファルスのファントム(亡霊)」と呼ぶ(p.116)。
 注 ファルス:欲望の対象を暴き、かつ、それを隠蔽するシニフィアンの代表。
       :シニフィアンのシニフィアン。
       :不在において欲望の対象を具現する
ホルバインの「大使たち」のドクロ
 :ファルスそのものではなく、欠如・不在の象徴。
 :ドクロにまなざしが欠如しているように、ここには欠如が現れている。

ここでラカンは、鏡像段階論の枠にメルロを当てはめている。
感覚的なメタモルフォーズの自己反復的過程を、ラカンは
去勢の欠如(のシステム)によってブロックしているのではないか。


メルロの語るセザンヌ
 :光・色のつかのまの戯れではなく、物の存在感やヴォリュームを奪還。
  感覚そのもの、イマージュそのものの堅固さを救出しようとした。

1. ここでメルロは襞と言う。
襞 :感覚的なものみずからが折り重なり、持続的テクスチャーを自己産出すること。
  :見えるものと同じ平面上の見えないもの (この点でホルバインのドクロの別平面性とは異なる)

廣瀬による「見えないもの」の到来の説明
 :いわば地と図の関係で言うならば、地の表面化。
  地と図の関係が脱臼され、新たな関係が予告される。
  ラカンのような「スクリーン」の平面性はすでにそこになく、
  光の変調(modulation)による襞だらけの空間と化す。
[この説明ではちょっと問題が出てくると思う。
 なぜなら、ラカンが『四基本概念』で言うくだりは、対象aによるタブローの光学装置
 と総括しやすい箇所と、言葉足らずな変な箇所の両方があり、
 後者と言えそうな「自分が絵の中のシミとなって浮き上がる」(pp.126-127)局面は
 これ自体、絵の他の部分=地、自分=図とするかのような関係性の出現として、
 奇妙な議論になっていると読める。そしてこの間において自己反省性の媒介性が
 絵=鏡の表面 に近いかたちで作動するのだとも言えそうな気配があるからだ。
 よって、ここでの廣瀬の地/図の説明のしかたでは、
 単にラカンを裏返したような水準になりかねず、かつ、
 地/図の問題へのアプローチとしては単純なものになるのでは。]

廣瀬によるセザンヌ読解
 :セザンヌの色彩は、光の転調の空間と化し、
  折り曲げられ、繰り広げられるたびに収縮・拡張を反復し、
  表面のテクスチャーを形成する。

いわば、メルロの議論は、ラカンの去勢(不在の穴)の到来自体ををたえず宙吊りにし、
遠近法的構図の解体そのものを持続的に反復するもの。

2. 奥行き=深さ
セザンヌの静物画の事物は、別々の複数の視点において見る者のまなざしを奪い合いながら、
一つの平面におさまっている
奥行き=深さこそが、そうした共存不可能な共存をその場で実現させる。
ここにおいて、私たちは世界がここにある、物がそこにある、という確信を回復する。
絵画はラカンの言うような騙し絵ではない。

「見えるものがそこに見える」「まなざしがまなざす[視る]」とメルロは言う。
この(メルロ的)鏡像的トートロジー。自己反復としての自己産出的トートロジー。
メルロはハイデガーをもじって、このトートロジーは
根拠の不在の深遠=無底(Abgrund)を隠し持つと言う。

「思考することは思考し、語ることは語り、まなざしはまなざす
 ――だが同じ一つの言葉の間に、思考するため、話すため、まなざすために
 跨ぎ越さなければならない隔たりが、そのつどあるのだ」(『シーニュI』pp.29-30)

視覚のみならず、思考、言語も同様であり、
鏡像的なトートロジーにおいて深遠を跨ぎ越す行為。

2010年8月20日金曜日

ゴダールの構成 3

2010.8.12のログから。若干の加筆修正。cineeyeさん・tysmtさんとのやりとりのめいたものに。cineeyeさんの言っている『アニメルカ』寄稿の記事とは2号所収の「手がイメージを見る」のこと。)

cineeye: 『アニメルカ』では、まさにこのことを空気系アニメとの関連で書きました。 RT @ttt_ceinture: その軽さゆえに、スクリーンセイバーのように画面上で放置しやすいんだろうな。注意力を集中させなくてもよいと最初からされているような…。ベンヤミンの「気散じ」…?URL

 空気系=気散じ? 対項は何なのだろう。

cineeye: 対項はシネフィル的な「注視」ですかね。映画批評もアニメ批評も「画面をよく見ろ」ばかり言うので、むしろ情報量が少なくて、気を抜いて見れるものの方がすごくね?という単純な論ですwURL

 注視/弛緩の対立を崩してもいいかもね。前にこのまとめ内で言ったけど、観想-集中と気散じ-習慣は一回性と反復可能性にある程度対応しているのでしょう。で、この二つはむしろ対立してないととらえることもできると思っているので、いわば、習慣や反復可能性の中でこそ作品の細部が別の見え方をするというのもあると思う。蓮実は劇場での一回的経験を強調するけれど、細部の発見には気散じのもとで反復させていた方が効果的だったりする。そのため、注視と反復可能性は実のところ混ざり合っていて、そもそも蓮実の映画の語り方は一種の反復可能性のもとで語りなおす面もあるように思う。つまり、言動不一致がある。そう考えると一回性のアジテーションとは無縁にシネフィルは行動しているとも言えるかも。注視の条件は気散じであるとか、そういう攻め方もできるかも、と思った。でも、そこでの「注視」は一般的にみなされているようなものとはかなり変わるかもしれないけど。でも、こうやって気散じを語るだけだとなんか片手落ちかもしれないな…。注視の方を組み立てなおすまでやった方がいいのか。

cineeye: なるほどー。たしかに蓮實は一回的な体験を強調することで、細部を「映画史的記憶」に回収してしまいますね。そこがある種のトリックというか、レトリックといえるかもしれない。気散じと反復可能性についても論じたので、わが意を得たりという感じです。細部を細部のまま、「強い主題」に回収されない形で、反復的に受容することとして「萌え」を捉えました。注意の条件は気散じである、これはまさにクレーリー『知覚の宙吊り』の主題で、そのクレーリーも大いに参照しました。まあ、主に参照したのは『観察者の系譜』ですが、もちろん前者も意識しています。(URL: 1, 2, 3

 それってめっちゃテマティスム=萌え要素の話ではないかと…。蓮実の言う「官能」とテマティスムの両方を萌えの対象/要素に投入させたわけね。そこで蓮実相対化をしつつつなげるのはわかるけど、話がそこで終わりそうな気がして私はやる気がなかった点だった。ああ、『知覚の宙吊り』ってそんな話をやってたの。知らなかった。

cineeye: いや、萌えにおいて、テマティスム/官能性が崩れていくというところまで論じたので、もうちょっと先までいったのではないかと思います(まあ、それほど自信はないけれど…)。詳しくは読んでくださいと言う他ないのですが。URL

 へえ、それは面白い! 読んでみたいな。

cineeye: 主題にしても、官能にしても、それは「目」を引き付けるという意味で視覚性に基礎付けられていると思うのですが、空気系アニメはこの視覚性という基盤をも揺るがしているのではないかと考えています。URL

tyskmt: 部分が全体を内包する萌え要素となるのかな?URL

 部分と全体の議論って映画-蓮実にあっては、鬼門のように触れられてこなかった問題圏。全体の内包として突っ切った議論は見たことがないな…。私は部分と全体を分けて考えてた。部分と全体の関係って、実際どうなんだろう。私はここが最大のホットポイントだと睨んでいたんだけど、まだ思考がまとまらない。アルチュセールの最終審級と重層決定の分裂みたいに考えてたな。

cineeye: 部分と全体ということについては論じていないけど、今後考えるべき問題だと思います。URL

tyskmt: 局所と大域が被るというラカン的構造……URL

 部分(細部や要素)と全体は重要だと思う。蓮実にあってはテマティスムやジャンル論が全体性を確保する手段だったと思うわけね。私の大雑把な整理についてはブログにある蓮実まとめ参照。

cineeye: tttさんの蓮實論は前に読ませていただいて、大いに啓発されました。テマティスムとジャンル論で全体性を確保しているというのは、その通りだと思いました。私はそこを「ゆるさ」や「相対的」という言葉でずらそうと思っているのですが、うまくいっているかどうか…。URL

tyskmt: 部分と全体を離散的総合させればいいんでしょうね……URL

cineeye: 「部分が全体を内包する」と言うとき、全体がすっかり部分に収まってしまっている(モナド論)と考えるのだけは避けたいと思う。ドゥルーズは『シネマ』で「開かれた全体」と言っているけれど、全体と部分がどちらにも回収されないような構造を考えたい。URL

 蓮実においては被るようにはしてあるんだけど、かぶり方が独特すぎるし、限界があるという認識。どうかぶるか、どう連動するかってあたりをつめていく必要があると思ってる。そうするとその産物の一つとして蓮実を割とあっさり相対化できるんじゃないかなと。
 ゆるさをどこに仕込むかによって議論が違ってきそう。私のまとめは「5分でわかる蓮実システム」状態になってるけど、何気にイメージ個々の取り扱いなどの話はしてないんだよね。というかぶっちゃけ、蓮実はイメージ単体があるように見せかけたんじゃないかと思う。

cineeye: イメージにすべてがある、といういつもの断定ですね。官能やテマティスムもそこにつながっているのだと思います。(後略)URL

 蓮実には指差して同定可能なショットなり画面なりを単位にできるという身振りがあると思う。あのまとめではレイヤー間の賦活によって錯覚が成立しているとしたけど、レイヤー単体というのはほんとに抽出できるのだろうか、という発想もあり、そうした課題設定において蓮実を引きずってるのだろうと思う。そこで、私はレイヤー個々の分割と相対的自律性といったアプローチとはやや異なる発想をしている。たとえばエリア・スレイマンの『DI』を私が偏愛してるのは、レイヤーが同型性をもって反響してるような構造があると見てるからだった。つまり、レイヤー間関係を変える作品の構成を求めていた路線。私はおそらく、レイヤー個々を取り扱うのではなく、レイヤーの別の総合を求めているという意味では蓮実の影響が濃く残存しているんだと思う。ただし、映画は短くていいし構成があればそれでいい、みたいな路線なんだけど。

 前にストローブ&ユイレについてゴダールからの発展だと見ればわかりやすいと言ったけど、あの件はテキストや構成の手順からだったけど、スレイマンはテキストは無いんだけど、構成の手順をゴダールのような小単位から作っていく路線で、ショートレンジの構成方法がそのまま全レイヤーの構成と同じになる。ゴダールは大抵、AからBへ、で済む話で、東独から西独へ(『新ドイツ零年』)、パリから親類の家へ(『ウィークエンド』)、フランスからサラエヴォへ(『フォーエヴァーモーツァルト』)、煉獄から天国へ(『アワーミュージック』)となる。で、途中で何かが起こって失敗する。なので、A/B間の境界と移行過程の構成だと見ればわかりやすい。で、A/B間の関係を、Aにいる私がBについて考える、みたいになると『ヴェトナムから遠く離れて』になる。そういうA/B間の境界と移動の構成が『DI』には露骨なのね。しかもAとBが判別できないような展開をしている。四方田犬彦が『パレスチナ・ナウ』でスレイマン初期について『ヒア&ゼア』の残響が見られると言っていたけれど、『DI』だけを見てもスレイマンがゴダールから継承的課題を抱えていることが見て取れる。『DI』は、簡単に言うと、ショット間関係がA/B(男/女)間の切り返しなどのレンジでできてる+二項間の距離がメロドラマとしてジャンルをなしているが、二項以外がものすごくシンプルに削り落とされている+境界の往復と非対称性だけが話の原動力になってる。二項問題に同心円状に貫徹されている。細部単位の最小要素の構成の仕方を、そのまま全体構成にまで貫徹する路線。部分から組み立てる意味ではゴダール路線で、ゴダールが構成しきれなかったやり方をとっていると見ている。

ゴダールの構成 2

2010.8.5のログから。若干の加筆修正。話のきっかけとなった冒頭にcineeyeさんの発言を足す)

cineeye: 先ほどの愛と萌えの問題を考え直してみた(もういいよ!)。さっき言ったのとは逆に、「あなたの中にあなた以上のもの」=剰余価値を見ることこそが幻想で、「あなたの中にあなたしか見ない」ことが幻想への抵抗になるんじゃないか。このことは、イメージにイメージ以上のものを見るのではなく、イメージにイメージしか見ないことはできるのか、という問題とつながる。「あなたの中にあなたしか見ない」とは愛の未然に留まるということであり、それを便宜的に萌えと呼びたい。だから、ナギに処女性を見ている人は、ナギに萌えているのではなく、愛しているのだ。しかし、ファンタスムなしに萌えはあるのか?いや、ないだろう。しかし、萌えとファンタスムが別の原理で働いていると考えることはできる。これはモンタージュなしに映画のイメージがありうるか、ということと同じ。それはありえない。しかし、モンタージュとイメージを別の原理で考えることはできる。(URL: 1, 2, 3, 4, 5

 私は発想を転倒させていて、イメージという単位措定までに見落とされている過程があり、イメージとイメージ以外のものという境界画定をめぐる諸力の場を考えられないか、というところから始める感じ。というのは、私はモンタージュのような間から先に考える発想はとれないものかというふうに思っていて、帰着点としてのイメージ、みたいにイメージの位置を組み替えたかったというのがあったのね。ゴダールよりもストローブ&ユイレからだとそっちに行けると思ってた。ゴダールを見るときにおいては、間から、というときに、その両端である或るイメージAと或るイメージBとセットになっていて、間から、とは行きにくい。ゴダールの構成がショートレンジになるのはそのためではと。ゴダールのモンタージュ論は、衝突と接合、圧縮にあるので、間から構成を考えることができないというふうに私は思ってる。ストローブ&ユイレにはテキスト全体が制作において先にある以上、構成の問題に直面している。
 ただ、しばしばストローブ&ユイレについて言われるショットの持続性や時間はオミットしてもいいと思う。構成が先立っているのならば、時間経過感は抜きに同一性が保たれるのではないか、という疑問がある。ストローブ&ユイレの構成についてはゴダールの特性から説明した方がわかりやすいかもしれない。ゴダールには本を読むシーンって結構あるでしょう。台詞で愛について語るのも近い効果があるけど。そもそも「イメージ」に収まりにくいものをもってしてゴダールはイメージにしているという面がある。そうしたいわゆるイメージとされていないものと融合させながらイメージにするという、可視的要素を拾い上げる視点からは不純物として見られるようなものが、当初からゴダールにはあったんだけど、その展開においては散発的になってしまった。一方、ストローブ&ユイレにおいては、そうした意味でのイメージを作り上げるものとテキスト全体やテキストの抜粋選択・編制という課題がまずあった。そのため、構成とイメージが乖離せずに取り組まれている。私はストローブ&ユイレを見るのがゴダールを見るのに比べて遅れたんだけど、ゴダールを見ながら構想していたものがあって、その視点ではゴダールは不徹底だろうと考えていたんだけど、ストローブ&ユイレを見てそのときの構想とかなり重なるものがあると感じた。つまり、ゴダールはストローブ&ユイレと対立にして見るべきではないし(浅田の対立発想を有害だとみなしていた)、ゴダールにはできていないある面の徹底だと見たほうがわかりやすい面がある。もちろん、ストローブ&ユイレにも何かしら疑問点はあるんだけども。ストローブ&ユイレには、(ゴダールにもあった)テキスト「の朗読」による再演としてのイメージ、という軸があった。再演、再現前をどう編制し、論じるか、という焦点がありえるんだと思う。で、そのとき構成を軸に見たほうが、ショット個々の特徴にのみ拘泥せずに済むんじゃないかと。

 黒沢清が何かのゴダール関係のパンフで「どうもストローブ&ユイレは形式的に見えて苦手で…」と言ってるんだけど、ゴダール的なショットのあり方で感覚が形成されるときに現れる典型的な反応だと思った。そういう立場に基づいてゴダールとストローブ&ユイレが対置されやすいんだと思う。私はむしろ、ゴダールの試みとその限界から考えたからこそ、ストローブ&ユイレのよさがわかるって感じなので、構成をいわゆる形式的/具体的という対立に回収せずに考えないことが、ストローブ&ユイレにおいては重要だと思ってる。浅田と蓮実は一見対立的に振舞っていることもあったけれど、一般的にそう思われている以上に彼らの足場となっている感覚と構成のあり方はよく似ていて、どちらも「イメージの現れ」に重点を置き、共犯的な面がある。現状、ストローブ&ユイレについて言われる「厳密さ」というのは、実のところ具体的なもの/形式的なものという対立に根ざした、蔑称すれすれの「敬して遠ざける」形容詞だと思っている。形容詞張ってそのまま議論が進んでないのがまさにそれを示している。

 たとえば藤井仁子の講演では、素人演技の演奏の下手さやパンク的雑駁さをもって「正しさ」ではない、とされるが、ゴダール=パンク=瑞々しいイメージ、の伝統に引き寄せるロジックでもあるので、問題だと思う。藤井の"アルチュセールまで持ち出して、ストローブ&ユイレが、あたかも撮ることに先立ってドグマ的に「正しいイマージュ」というものを信奉しているかのようにいうのは、端的に「正しくない」"は、別の意味でまた浅田の含意を見落としてもいる。あの対立を持ち出した浅田の念頭にあったのは、旧左翼:新左翼=ストローブ&ユイレ:ゴダールという類比であって、もちろんその乱暴さと弁別によってそれぞれが失うものがあるんだけど(ゴダールは80年代後半以後、歴史救済に転じるとはいえ、「革命の大義」側、つまり旧左翼側の理念に近いし…)、その含意を見ず、乱暴にまとめるなら「アルチュセールもちだずな雑すぎ」と返してるような構図になってる。浅田のあの手口には同時に、ストローブ&ユイレを旧左翼に還元、ゴダールを新左翼に還元(しつつ新左翼側に共感する立場表明)、という左派文脈をたぶん混ぜている。というわけで、この対立軸を本当にまともに批判的に継承するとき、実は「左翼と映画」という(ゴダールやストローブ&ユイレのみならず)広範に広がる問題に手をつけなければならないという超めんどくさい事態が出てくると思う。
 藤井のロジックはいろいろ単純すぎてて、ゴダールがロマン主義に傾倒する一方、ストローブ&ユイレにはそれはない、と(よくあるロマン主義悪玉論で)やってるわけだけど、ヘルダーリンやらモーリス・バレスやら(バレス派の)ガスケのセザンヌ本を使うなどの側面を考えるとき、そんな単純な話なわけがない。私は藤井は楽天的なまでに、蓮実派-蓮実派におけるゴダール受容派 の線の人だと思っているので、まさにこういう傾向に飲まれないことが重要。私は「蓮実パラダイム」とされているものを語法や修辞の傾向ではなく、感覚と思考、経験と理論の噛み合わせ方で定義変更したほうがいいと思っている。そうすると、浅田(のかなりの側面)を含め実に多くの「蓮実派」がいて、パラダイムに飲まれているのだとみなせる。

ゴダールの構成 1

2010.8.3のログから。若干の加筆修正)

 80年代後半の後期ゴダールからゴダールを見始めた私は、初期作をあまり見直してない。『勝手にしやがれ』を見るとあまり乗れず、初期作には映像の溌剌さが特徴とされるが、むしろセバーグショットなどに関心が向く。大きく後期と異なるのは、使用されている音楽の趣味やショットのリズムなどだろう。『勝手にしやがれ』の場合、移動カメラで活発に動き回って撮っているため、ショットの持続性やショットごとのつながりが人物の行動に沿って数珠繋ぎにされたものとして見えすぎる。
 ゴダール作品の構成を、しばしば取り上げられる映像上の短絡・圧縮(ジャンプカット)、生き生きしていること(カメラワーク)、とは別視点から読みたくなる。たとえば、「最低 dégueulasse」はポワカールが最初に金をせびりに行った女から言われる台詞で、ポワカールは勝手に財布から盗み取るけれど、そのままパトリシアに密告として反転してる、といった視点から。映画館入り口のハンフリー・ボガートのブロマイドとにらめっこして、独りポワカールが眉間に皺を寄せて「俺、似てね?」というふうに切り返しがおきるのは面白い。当人は鏡のつもりで見ているような180度切り返しがある。
 ただし、構成がシンプルすぎて発展性がほとんど出てこないのもゴダールの悪癖だ。ゴダールの作品の大半は「A地点からB地点へ」でまとまる。今回は、ローマから来たポワカールがパリで事件を起こして、別のところへ逃亡しようとするけどそれが躓く構成。多くの作品の構成は、頓挫する過程になっている。

 ゴダールの欠点は退屈さというより、むしろ「ぱっと見で楽しすぎる」ことにある。見てるだけで妙に収まりがよくなってしまう。そこで、シンプルな構成単位をうまく反復させてそれ自体で組織化させるところまでにはいたってないのだが、その点が気にならなくなってしまう。その乖離が欠点。古典映画とか初期映画は、とりあえず見てればいい代物が多いので似てると言えば似てるけれども。
 シンプルな構成要素のまま、『「マリア」のためのシナリオ』など、エッセイを書くように思考している後期では展開が見られる。語彙や事物をつなげたり飛躍させる作業。初期ゴダールに物足りなさを感じるのは、プロットがただショットを詰め込む器になってて相互関係が薄いからなんだろう。それと同時にショートレンジの思考に陥ってしまい、断章群の集積でしかないような限界も明らかになっているが、初期がショットの美学にたやすく回収されてしまうのに比べれば刺激的だ。エッセイ路線では思考と構成の連結が不足し(思考作業と製作が一体になっている意味では間違ってないのだろうが)、一方、『アワーミュージック』『フォーエヴァーモォツアルト』『愛の讃歌』では、複数の編や登場人物たちのユニットや時間の層が、構成要素の別のレイヤーを作りかけてもいる。しかし悪戦苦闘中でもあり扱いが難しい。

 ショットとプロットの双方を二者択一ではない絡ませ方において、シンプルさと構成をいかに同時に実現するか。ショットの成立条件をむき出しにし、最小限に抑えることで、自由度が高まったようにしばしば感じられるが、同時にショットがショットとなる成立条件は頑なに保守される逆転も生じる。ショットとプロットという分け方は、カメラ・脚本というそれぞれの生産手段や生産物に依拠しているが、作品の構想-構成においてプロットは文字通り構成というよりも、交渉や媒介の手段になることもあり、notationそのものではないのだろう。ショットもプロットも、何らかの帰着点や開始点にしないような議論の仕組みが必要になるんだろうが、採録の際にはつねにプロットが産物となり、見る際にはショットから見ることを経由することになってしまう。絵画の写真と筆触みたいなものか。
 しかしこのとき、そうした読解に見合う作品が必要なのか、そうした読解のための思考が必要なのか、どっちなのだろう。ショットはつねに見てしまう入り口になるのだからその場所が無くなるわけではないけれど、ショットに中心化させずにショットの生産を取り扱うにはどうすればいいのだろうか。作品から「プロットを読む」というとき、別種の言語に一旦還元しなおすことを意味する。テマティスムだって還元手法の一つだ。テマティスムが還元に思われてないのは、画面から可視的な要素を拾ってきてそれらを組み合わせて、要素によるプロットを作り上げ、前述のプロットを保存しつつ部分的に絡ませることで、可視的要素だけで作品をもう一度作り上げことができるように錯覚させることができるからだろう。単に要素や要素の関係性を拾い上げ、プロットと再度絡ませるのではなく、ショットを成立させる、選択された環境のように編み上げることはできるのだろうか。そのとき、可視的要素の列挙というよりむしろ、関係性を規定する要素の抽出が必要になる。
 『勝手にしやがれ』は、独り(ポワカール)→ペア(ポワカールと女友達)→ペア(ポワカールとフランキーニ)→独り(ポワカール)→ペア(ポワカールとフランキーニ)→別のペア(刑事とポワカール)→ペア(ポワカールとフランキーニ)→独り(フランキーニ) の推移がある。独りのときにポワカールは独り言を繰り返し、助手席に人がいるかのようにしゃべり続けたり、鏡に向かうように映画俳優のブロマイドとにらめっこして写真を見つめながら表情を変えていく。フランキーニが最後には独りになるときは、ポワカールが残した言葉で自問自答し、誰でもない方向を見つめて終わる。男女のペアのときは、金銭や服、新聞、記事を書く約束、寝るか寝ないかをめぐって、言葉の上か手を用いて、奪取したり据え置いたり先延ばしにし、一方から他方への何かの移送が起きているか阻止されている。刑事とポワカールのペアの場合、刑事が獲得しようとしているのはポワカールの身柄自身なのだから、追う/逃げるという非対称な構図が生じる。フランキーニが気を持たせ先延ばしにされ続ける男女のペアの進行は、刑事とポワカールの構図が終点を迎えることで、成就されることなく区切りをつけられる。相手の気持ちを尋ねるときには台詞が(何度も繰り返される「愛」のフレーズは目に見えない物品のようだ)、もののやり取りには手の動きが手段となっているが、画面では歩行による移動がカメラの動きを導いている。人物間の駆け引きでは台詞が、人物間での動作では手と物が、画面と人物との間での相互関係では歩行や車の走行が、それぞれの関係性や構図を成立させている。

 テマティスムというよりは、テマティスムが扱う素材を配置させるそれぞれの層における関係性の構成、諸構成の相互関係、構成において何が終始点をなすか、というふうに見ていくこともできるのだろう。しかし下記の規則のような考え方は、ショットへの求心力といわば「ショットへの還元」が際立つゴダールからこそ別方向に引き戻すために意味ありげには見えても、ここまで雑駁だと一般性のある分析手法にはまるでならないな…まあ、画面上の可視的要素、人物間の諸関係性、画面と事物・人物の相関関係を画面の現れに対してより先行的に把握、のみならず作品や作家や領域ごとにレイヤーを考えて、それぞれの複合状態を見ればいいか。